『悪役聖女 ― 神は彼女を捨てなかった』
本作は「悪役令嬢」ではなく、「悪役聖女」を主題にしています。
聖女とは本来、救いと正義の象徴です。だからこそ、その聖女が“悪役”にされる時、裁かれているのは彼女個人ではなく、「正義そのもの」になります。
物語の核は単純です。
人が聖女を絞首刑にする。
そして神が、彼女を蘇らせる。
その瞬間から、世界は矛盾を抱えます。
「神の愛」と「人の正義」が、同じ方向を向かないからです。
奇跡があれば救えるはずだ。
救えないのは怠慢だ。
そんな“善意の確信”が積み重なった先に、断罪は生まれます。
本作では、その構造を聖女という立場で描きます。
派手なざまぁや痛快さよりも、
「なぜ裁きは正義の顔をしてしまうのか」
「救済とは、誰のための言葉なのか」
そういった部分に重心を置いた物語です。
重めの題材ですが、最後までお付き合いいただければ幸いです。
聖女は、絞首刑に処された。
神に愛されているかどうかを、確かめるために。
広場は祈りで満ちていた。石畳の上に敷かれた板張りの処刑台、その中央に立つ木の柱、縄の輪。冬の朝の白い息が、群衆の口々からほぐれ、空へ薄く立ちのぼっていく。誰もが神を語っていたが、語り口は熱ではなく、確信に似た冷たさを帯びていた。
王都の大聖堂が鐘を鳴らすたび、群衆は一斉に胸の前で指を組む。その動きは敬虔というより、習慣という名の整列に近い。祈りは、個人の心から生まれるものではなく、広場の規則だった。誰かが祈れば、隣も祈る。祈らなければ、背中に視線が刺さる。そうして、今日の正義は完成する。
聖女——リーゼは、縄の輪の前に立っていた。白い法衣は、すでに「聖女の白」ではない。泥と墨と、昨夜の雨に滲んだ何かが染み込み、薄い灰色に見えた。それでも彼女は端正だった。顔立ちも、姿勢も、視線も、壊れていない。むしろ、その壊れなさこそが、彼女をこの場へ追い込んだ。
「最後に祈りを」
刑吏の声は、怯えを隠した丁寧さだった。ここで一言でも、涙でも、許しでも、彼女が差し出せば——今日の断罪は、もう少し人間的に見える。そういう計算が、声の底にあった。
リーゼは首を振った。代わりに、ただ空を見た。冬雲の合間から薄い光が差している。神の光と言うには控えめで、ただの朝だと言うには、どこか静かすぎる。
彼女は祈らなかった。
祈りとは、願いだ。
願いとは、世界の都合を変えたいという意思だ。
そして彼女は、世界の都合を変えることが、いつも救いになるわけではないと知っていた。
リーゼの奇跡は「治す」ものではなかった。人々が期待するように、枯れた手足を若返らせ、腐った臓器を新しくし、死を引き戻す——そういう派手な救済とは、最初から縁がなかった。
彼女が授かったのは、境界を整える力だった。
熱を下げ、痛みを薄め、呼吸を整え、血を静かにし、毒を鎮める。命の糸が切れないように、最後の震えをなだめる。病を「消す」のではなく、病と人の距離を正す。だから、彼女が触れた者は、しばしば救われたように見えた。だが、救われた者の多くは、やがて死んだ。死ぬべき時に、死んだ。
彼女はその死を、奪わなかった。
最初の頃、民衆は感謝した。奇跡は日々の地獄をやわらげた。戦場から戻った兵の夜の叫びは減り、疫病に倒れた子の苦痛は薄れ、産室で失血する母の手は温もりを取り戻した。王都は「慈悲」を味わった。聖女とは、神の慈悲の窓口だと誰もが信じた。
だが、信仰はいつも飢える。
飢えた信仰は、より大きな証拠を求める。
「治るはずだ」
「治せるはずだ」
「救えるのに救わないのは、救う価値がないと思っているからだ」
噂は、いつも善意の仮面を被って歩く。特に、奇跡が関わると、人は自分の欲を信仰と呼び替えられる。
春に起きた干ばつが、転機だった。川は細り、麦は倒れ、家畜は痩せ、子どもが泣いた。大聖堂は祈祷会を開き、枢機卿たちは壇上で声高く叫んだ。「神は試練を与え給う」と。民衆はその言葉に従い、祈り、献金し、旗を掲げた。だが雨は降らない。
そして彼らは、リーゼを見た。
「聖女がいるではないか」
「神の愛し子が、何故、雨を呼ばぬ」
「何故、畑を救わぬ」
「何故、飢えを終わらせぬ」
雨を呼ぶ奇跡など、リーゼにはなかった。彼女にできるのは、人を、生かすことではない。人の痛みを、損耗を、恐怖を、正すことだけだ。干ばつの前に、彼女の奇跡は無力だった。
無力という事実は、すぐに罪へと翻訳された。
「できない」のではなく、「しない」のだ。
「しない」のなら、「悪い」のだ。
その翻訳を、誰が最初に行ったのか。リーゼは知っていた。枢機卿マルドゥス。教会の財と兵を握り、王の耳元へ囁く男。奇跡を統治の道具に変えることに長け、民衆の不安を「敵」に向ける技に長けている。干ばつの年、彼は説教の中でこう言った。
「神の愛し子を名乗る者が、奇跡を隠し持つなら、それは慈悲ではなく、選別だ」
選別。
その言葉は甘かった。なぜなら、民衆自身がいつも選別して生きているからだ。誰を助け、誰を見捨て、誰に笑い、誰を嘲るか。日々の小さな選別を、彼らは「生きる術」と呼ぶ。だから、聖女も同じことをしていると告げられれば、彼らは理解できる。理解できるものは、裁ける。
リーゼは、あの日から「悪役」になった。
干ばつの最中、王宮では二つの声が争っていた。ひとつは、民に施しを増やせという声。もうひとつは、辺境に兵を回せという声。飢えた民が暴れれば、反乱が起きる。反乱が起きれば、国境は脆くなる。国境が脆くなれば、隣国が来る。隣国が来れば、死者が増える。
どの選択も、誰かを切り捨てる。
その夜、王はリーゼを呼んだ。玉座の間には、枢機卿マルドゥスもいた。王は疲れた顔で言った。「民を鎮めたい。奇跡を見せてほしい」
リーゼは静かに答えた。「私の奇跡は、飢えを消せません。雨を呼べません。ですが、飢えた子どもが眠れるよう、痛みを和らげることはできます。産室で死にかけた母を、明日まで繋ぐことはできます」
マルドゥスは笑った。慈悲深い笑い方をした。「それは良い。しかし民は、それでは納得しない。聖女がいるのに雨が降らぬなら、聖女が隠していると考える」
リーゼは言った。「隠していません。できないことは、できないのです」
「それは聖女の言葉ではない」
マルドゥスの声が、玉座の間の空気を軽くした。悪意のない口調ほど、悪意は深く刺さる。「神が選んだ者が、できないと言うのか」
リーゼは、その問いの罠を理解していた。ここで「できます」と言えば、次に求められるのは雨だ。雨が降らなければ、嘘つきになる。ここで「できません」と言えば、神の愛し子ではないとされる。つまり、結論は同じだ。彼らは、彼女を「都合の良い聖女」にしたいだけだ。
王は、しばらく沈黙した。その沈黙は誠実だった。だが誠実さだけでは国は動かない。王は最後に言った。「民は、奇跡を求めている。教会は、象徴を求めている。リーゼ、あなたが象徴でいられないなら——別の象徴が必要だ」
その言葉は、優しい追放だった。
数日後、「新たな光の巫女」が現れた。地方の修道院から出てきた少女で、掌から小さな光を生み、枯れかけた花を一輪咲かせた。大聖堂は歓声に包まれ、マルドゥスは壇上で祝福の言葉を述べた。民衆は泣きながら跪き、干ばつの空に向かって手を伸ばした。
リーゼは、修道院の奥でそれを聞いた。花が咲いたこと自体は祝福だ。だが、その祝福が「政治」と結びついた瞬間に、花は武器になる。民に示されたのは、奇跡ではなく、教会の「答え」だった。答えがあるなら、問いは不要になる。問いが不要なら、リーゼの沈黙は罪になる。
裁判は、その後に用意された。
用意された、というのが正しい。始まる前から終わっている裁判だ。
罪状は三つ並んだ。
第一、神の奇跡を独占し、民を選別したこと。
第二、王権に協力せず、国難を長引かせたこと。
第三、信仰を惑わせ、教会の秩序を乱したこと。
法廷には香が焚かれ、聖典が開かれ、聖具が並んだ。整然とした儀式は、真実を明らかにするためではなく、結論を神の名で飾るためにある。リーゼは証言台で、何度も同じ言葉を繰り返した。「私の奇跡は、雨を呼べません。飢えを消せません。私はできないことをできると言えません」
その正直さが、さらに罪を重くした。
「聖女は希望を語るべきだ」
「聖女は信じさせるべきだ」
「聖女は民を安心させるべきだ」
誰かの役に立たない正直は、犯罪と同じ扱いを受ける。
リーゼは弁護をしなかった。
しなかったのではない。できなかった。
なぜなら、彼女が語れる真実は、彼らの欲しい真実ではない。
法廷が終わる頃、リーゼは一つだけ気づいた。彼らは、彼女が有罪だから裁くのではない。有罪にするために裁いているのでもない。もっと単純で、もっと残酷な理由だ。
彼らは確認したいのだ。
神は、自分たちの味方だと。
だから、絞首刑が選ばれた。
火刑ではない。血を流す斬首でもない。絞首は、時間を与える。最後の数息の間に、神の介入が起きるかもしれない、と期待できる。群衆にとって、その期待は甘い。もし奇跡が起きれば、彼らは正義に酔える。もし起きなければ、彼らは正義に酔える。
どちらでも、勝者は彼らだ。
刑吏が縄をかける。輪がリーゼの首に触れた瞬間、彼女は少しだけ目を閉じた。恐怖ではない。記憶を整えるためだ。人の顔が浮かぶ。幼い頃、痛みで泣いていた子。戦場から戻り、眠れなかった兵。産室で血を流しながらも、赤子の頬に触れた母。彼女が触れた命の数々。
彼女は、救った。
救えない救い方で、救った。
それでも、人は満足しなかった。
満足しないのは、人が悪いからではない。飢えた者が飢えたままでは、心は苛立つ。苛立ちは、理由を求める。理由がなければ、誰かを作る。誰かが作られれば、正義が完成する。
踏み板が外れた。
落下は一瞬で終わったが、終わりがすぐに来るわけではない。縄が首を締め、視界が歪む。音が遠ざかり、空が狭くなる。最後に残るのは、重力と、肺の叫びだけだ。群衆の祈りは、もう聞こえない。
リーゼは、最後まで祈らなかった。
世界が黒く閉じていく直前、彼女は思った。
神がいるなら、神は今、沈黙するだろう。
沈黙する神の前で、人は好きなように神を語る。
だから、人の正義はいつも神を借りる。
——そして、彼女は死んだ。
その日の夕方、大聖堂は鐘を鳴らし、マルドゥスは壇上で民に告げた。「神は、偽りを退け給うた。これにて王国は救われる」民衆は泣き、笑い、互いに抱き合った。悪が裁かれた。世界が正された。そう信じることは、飢えた心にとって最も手軽な食事だ。
夜、雪が降り始めた。
干ばつの年に雪が降るのは皮肉だが、民は皮肉を食べて生きられない。彼らは雪を「神の祝福」と呼んだ。白はいつも正義の色になる。
リーゼの遺体は、修道院の裏手に運ばれた。処刑された者は聖域に埋葬されない。神に見捨てられた証として、冷たい土の下に沈められる。彼女の白い法衣は剥がされ、代わりに粗末な布がかけられた。名もなく、祈りもなく。
誰も、彼女の頬に触れなかった。
真夜中、修道院は静まり返っていた。僧たちの寝息、木の軋み、遠くの犬の吠え。雪の音だけが、世界を薄く覆う。
リーゼの遺体が置かれた小屋の中で、風が一度だけ止んだ。止んだ、というより、世界が息を止めたようだった。蝋燭の火が揺れず、雪の粉が窓辺で宙に留まる。
そして、その沈黙の中心で、彼女の胸が微かに上下した。
呼吸は深くない。生まれたての子のように浅く、確かめるように慎重だった。喉が動き、空気が入る。血が巡り、指先が冷たさを思い出す。痛みが、遅れて追いついてくる。首の内側が裂けるように疼き、舌の付け根が焼ける。
リーゼは目を開けた。
闇が、闇としてそこにあった。
彼女は起き上がろうとして、息を呑んだ。首の周りに残る痕が、縄の記憶を呼び起こす。指で触れれば、そこは腫れている。確かに死んだ。死んで、戻った。
「……なぜ」
声は掠れていた。問いは空気を裂き、小屋の木壁に吸われていく。答えは人間から返ってこない。小屋に人はいない。いるのは、彼女と、沈黙だけだ。
だが、その沈黙は空ではなかった。
言葉ではないものが、そこにあった。
光でもない。声でもない。
ただ、リーゼがリーゼであることを、揺るぎなく肯定する何か。
彼女の胸の奥に、冷たい水が注がれるような感覚が広がった。痛みが消えるのではない。痛みが「場所」を得る。意味のない痛みが、意味のある痛みに変わる。彼女は理解した。これは癒しではない。整えだ。境界を戻す力。彼女自身の奇跡と同じ種類のものが、今、彼女に向けられている。
神は、そこにいる。
リーゼは唇を噛んだ。怒りでもなく、喜びでもなく、ただ困惑だった。神がいるなら、なぜ今日、あの広場で救わなかったのか。なぜ縄が締まる瞬間に介入しなかったのか。なぜ彼女を死なせたのか。
沈黙が、答えの代わりに彼女の中へ落ちてくる。
——お前は死んだ。
——人の正義によって。
——それが、境界を壊した。
——壊れた境界は、戻される。
言葉ではないのに、意味が通る。神は説明しない。ただ、事実を置く。リーゼはその事実の冷たさに、ぞくりとした。神は彼女を救うのではない。整えるだけだ。壊れたものを戻す。だから彼女は戻った。彼女が「愛された」から戻ったのではなく、神の秩序が、彼女の死を拒んだから戻った。
その理解は、救いよりも残酷だった。
リーゼは立ち上がり、小屋の扉を押した。外は雪だった。修道院の裏庭は白く、足跡ひとつない。世界は、何も知らない顔をしている。彼女の死も、彼女の蘇生も、同じ白さで覆い隠す。白は、都合が良い。
夜明けまで、まだ少し時間があった。
リーゼは修道院を出た。門は閉まっていたが、鍵は古く、木は雪で重くなり、押せば軋みながら開いた。誰も見ていない。神が彼女を戻したことは、まだ誰にも知られていない。
だが、知られないまま終わることはない。
彼女が生きている限り、世界はその矛盾を抱え続ける。
王都へ向かう道は、雪に沈んでいた。リーゼは足を取られながら歩いた。身体は戻っても、体力は奇跡では補えない。喉は痛み、頭は重い。それでも、歩くしかなかった。修道院に留まれば、朝になった時、誰かが気づく。気づいた者は祈るかもしれないし、叫ぶかもしれない。だが、その先は同じだ。教会へ知らせが行き、マルドゥスが来る。
そして、彼は必ずこう言うだろう。
「見よ。悪しき奇跡だ」
王都の外壁が見えた頃、朝の鐘が鳴った。人々は今日も市場へ向かい、パンを求め、薪を求め、噂を求める。リーゼの死は、すでに噂になっていた。「悪しき聖女が裁かれた」「偽りの愛し子が処刑された」「神が勝った」——それらの言葉が、笑い話のように流通していた。
リーゼはフードを深く被り、路地裏へ入った。顔を見られれば終わりだ。だが、顔を隠すことはできても、存在は隠せない。彼女は歩くたびに、自分の内側が世界と擦れる感覚を覚えた。生きていることそのものが、異物として音を立てる。
市場の端で、ひとりの老婆が倒れていた。雪道で滑り、膝を打ったらしい。周囲の人々は見て見ぬふりをした。誰もが忙しい。誰もが貧しい。誰もが、自分の正義で手一杯だ。
リーゼは立ち止まった。
手を伸ばすべきか。
伸ばせば、奇跡が漏れる。
漏れれば、見つかる。
見つかれば、世界が動く。
彼女は、ためらいの末に膝をついた。老婆の手は冷たい。指先の血色が悪い。痛みに耐える歯の噛み方が、慣れている。貧しさと痛みは、同じ場所に住む。
リーゼは指を重ね、境界を整えた。骨のずれが戻り、痛みが引く。老婆の呼吸が深くなり、目に涙が溜まった。
「……あなた」
その一言が、針のように刺さる。
誰かが振り向く。
誰かが、白い指先を見る。
奇跡は目立たない。だが、目立たない奇跡ほど、気づいた者にとっては確信になる。
「今の……」
人々が寄ってくる。ざわめきが湧く。
リーゼは立ち上がり、路地へ逃げた。背後から声が飛ぶ。「聖女だ」「嘘だ」「死んだはずだ」「神の愛し子が……」
噂は炎より早い。
正義は、火よりも燃え広がる。
その日の昼、王都は揺れた。処刑された聖女が生きている。見た者がいる。触れられた者がいる。大聖堂の前には人が集まり、枢機卿マルドゥスの演説を求めた。教会は困る。王宮も困る。困るのは、彼女が生きているからではない。彼女が「生きて戻った」からだ。そこには神の意思が介在する。神の意思が介在するなら、今日までの正義が揺らぐ。
正義が揺らぐことほど、人を怖がらせるものはない。
夕刻、リーゼは小さな宿の二階に潜んでいた。金はない。だが、宿の主人は彼女の目を見て、何も聞かずに毛布と水を渡した。彼は信仰深いのではない。たぶん、ただ疲れている。正義の騒ぎに疲れ、誰かを裁くことにも疲れ、目の前の人間を人間として扱うことを選んだ。それは小さな勇気だ。
外では、鐘が鳴る。
大聖堂の鐘ではない。警鐘だ。
リーゼは窓の隙間から街を見下ろした。兵が動き、火が灯り、群衆が走る。誰かが「悪魔の奇跡だ」と叫ぶ声が聞こえる。誰かが「神の試練だ」と叫ぶ声もある。声がぶつかり合い、正義が二つに割れ、割れた正義が互いを裁く。
その混乱の中心に、彼女がいる。
夜、扉を叩く音がした。
宿の主人の声が低く告げる。「教会の兵だ。ここを探している」
リーゼは息を止めた。
来た。
マルドゥスが動いた。
窓から逃げることはできる。だが、逃げれば街はもっと荒れる。彼女はいつもそうだった。自分の身より先に、周囲の崩壊を数える。だからこそ、彼女は聖女だった。そして、その癖が、彼女を悪役にした。
リーゼは宿の主人に頭を下げ、階段を降りた。裏口から出るのではなく、玄関へ向かった。扉を開ければ、教会兵が三人立っていた。金属の胸当てに聖印。顔は若い。目に怯えがある。彼らは信仰のために来たのではない。命令のために来た。命令は、正義よりも強い。
「リーゼ・ファルン」
名前を呼ばれた瞬間、彼女は理解した。もう隠す必要はない。すでに特定されている。ならば、ここから先は選択だ。逃げるか、出ていくか、従うか、折るか。
リーゼは問い返した。「誰の命令ですか」
兵は口を開き、そして閉じた。答えなくても分かる。マルドゥスだ。教会だ。王も黙認しているだろう。国は、矛盾を抱えて立っていられない。だから矛盾を消す。消せないなら、再び吊るす。今度こそ、確実に。
リーゼは一歩、外へ出た。雪が肩に落ちる。夜の空気が冷たい。兵が槍を構え、彼女を囲む。
「抵抗はしない。ですが、聞いてほしいことがあります」
兵の目が揺れた。
若い正義は、いつも揺れる。
リーゼは静かに言った。「私は、蘇りました。あなたたちはそれを『悪』と呼ぶでしょう。でも、もし神が私を戻したのなら——あなたたちは今、神と争うことになります」
兵の一人が唾を飲んだ。もう一人が言った。「それは……悪魔の欺きだ」
「そう言われると思っていました」
リーゼは頷いた。「だから私は、神の名を借りません。私はただ、事実を言います。私は死んだ。人の正義で殺された。そして戻った。戻ったことが、誰にとって都合が悪いのか——それは、私ではなく、あなたたちがよく知っている」
その瞬間、街の奥で鐘が鳴った。大聖堂の鐘。マルドゥスが演説を始めた合図だ。群衆が集まり、正義の言葉を待っている。
兵は迷っていた。迷いは、リーゼの言葉では消えない。迷いを消すのは、いつも上からの命令だ。兵の隊長格が短く命じた。「拘束する」
縄が伸びる。
リーゼは抵抗しない。
抵抗すれば、彼らは「悪魔」の物語を得る。
彼女は物語を与えたくなかった。
だが、縄が彼女の手首に触れる直前、空気がふっと薄くなった。雪が止まり、音が遠ざかる。修道院の小屋で起きた沈黙と同じものが、再び訪れる。兵たちが息を止め、目を見開く。
リーゼは、その沈黙の中で理解した。
神は、今も整えている。
彼女のためではない。境界のために。
——お前は戻った。
——戻ったなら、歩め。
——お前が歩くことが、歪みを露わにする。
神は命じない。強制しない。
ただ、世界の構造として、彼女の存在が「問い」になる。
リーゼは一歩、前へ出た。兵の縄は、彼女の手首を捕まえられなかった。彼女が速いわけではない。兵が、動けない。恐怖で動けない。自分たちが今、何に触れようとしているのか分からないからだ。
リーゼは兵の間を抜け、夜の街へ歩き出した。
背後で誰かが祈り始めた。
祈りは、恐怖の別名だ。
大聖堂の前に群衆が集まっていた。松明の光が揺れ、雪が赤く見える。マルドゥスが壇上に立ち、腕を広げている。彼の声はよく通った。民衆の心の「飢え」に合わせた声だ。
「神は、偽りを退け給うた。しかし今、悪しき影が戻ったと聞く。これは試練だ。これは誘惑だ。恐れるな。われらが信仰で打ち払うのだ」
歓声が上がる。
歓声は祈りよりも正直だ。
人は、敵がいると安心する。
リーゼは群衆の端に立った。フードを外した。顔が露わになり、ざわめきが広がる。最初は「似ている」という声。次に「まさか」という声。最後に「聖女だ」という確信。
マルドゥスの声が止まった。
彼の目がリーゼを捉える。
その瞳に初めて、計算ではないものが揺れた。恐怖だ。矛盾を扱う者の恐怖。矛盾は、言葉では殺せない。
リーゼは壇上へ向かって歩いた。群衆が道を開ける。開けるのは敬意ではない。恐れだ。恐れは、相手を特別扱いする。
「リーゼ・ファルン。お前は死んだはずだ」
マルドゥスは、神の代弁者として言った。「死んだ者が戻るのは、神の御業ではない」
リーゼは、壇上の下で立ち止まった。声を張り上げない。叫びは群衆の武器で、彼女の武器ではない。彼女は淡々と告げた。
「私は死にました。あなたたちの正義によって。あなたがそれを神の名で飾り、民衆がそれを祈りで支えた」
ざわめきが増す。
マルドゥスが口を開く前に、リーゼは続けた。
「私の奇跡は、雨を呼べません。飢えを消せません。ですが、苦しみの境界を整えることはできます。私はそれをしてきました。救えるのに救わなかったのではありません。救えないものを、救えると言わなかった」
「詭弁だ」
マルドゥスは声を強くした。「聖女は希望を示す。希望を示さぬ者は聖女ではない」
リーゼは頷いた。「希望は、嘘で作れます。花を咲かせて見せれば、民は安心する。ですが、それで飢えは消えません。安心は消費され、次にもっと大きな奇跡を求める。あなたはそれを知っている。だから私を殺した」
群衆が息を呑む。
誰かが叫ぶ。「冒涜だ」
誰かが叫ぶ。「本当か」
誰かが叫ぶ。「神はどっちなんだ」
その問いが、最も危険だった。
問いが生まれれば、正義は揺れる。
マルドゥスは笑おうとした。だが笑いは固い。「ならば、なぜ戻った。神が選んだのなら、ここで証を示せ。再び奇跡を見せ、民に赦しを乞え。そうすれば——」
リーゼは首を振った。
そして、初めて、少しだけ声に熱が入った。
「赦しを乞うのは、私ではない」
その言葉が落ちた瞬間、広場の空気が変わった。
群衆の心が、同時に冷えた。
彼らは気づき始めている。もし彼女が本当に戻ったのなら、誰が赦しを乞うべきなのか。
リーゼはゆっくりと言った。
「あなたたちは、神に愛されているかどうかを確かめるために、私を吊りました。あなたたちは確認したかった。神があなたたちの正義に同意するのかどうかを」
マルドゥスの目が細くなる。
リーゼはさらに続けた。
「そして私は戻った。あなたたちはそれを『悪』と呼ぶでしょう。そう呼べば、あなたたちの正義は守られる。だから私は、あなたたちにとって悪役になる」
群衆が揺れる。
神の愛し子。
死から戻った者。
それを悪と呼ぶのか。
呼べば救われるのか。
呼ばなければ、今までの自分たちが罪になるのか。
人は、自分が悪だったと認めるくらいなら、奇跡を悪と呼ぶ。
リーゼは壇上を見上げた。マルドゥスの背後には聖具が並び、黄金の装飾が神の光を反射している。豪奢な神。都合の良い神。彼の背中に、教会が積み上げた「正義」が重なって見えた。
リーゼは静かに言った。
「私は、あなたたちの信仰を奪いません。奪えるとも思っていません。信仰は、奪われるものではなく、選ぶものです。ですが私は——神の名を借りて人を殺すことだけは、赦せない」
群衆の中から、泣き声が聞こえた。誰かの妻か、母か、妹か。処刑の日、祈った者かもしれない。祈りに参加しなければ、周囲に潰されるから参加した者かもしれない。正義の輪の中で、ただ息をしていた者かもしれない。
リーゼは、その泣き声に背を向けた。背を向けることは冷酷だろうか。だが彼女は知っている。泣き声に応えれば、彼女はまた「聖女の役割」に戻される。役割に戻れば、また都合よく使われ、また殺される。役割は、いつも善意の形をして近づいてくる。
リーゼは歩き出した。群衆は道を開けた。開けたのは敬意ではない。恐怖と、混乱と、そして少しの罪悪感だ。
背後でマルドゥスが叫んだ。「止めよ! あれは悪魔だ! 神の名を騙る悪だ!」
だが、その声は以前ほど届かなかった。
届かないのではない。届き方が変わった。
ひとつの答えとしてではなく、都合の良い叫びとして届いた。
リーゼは広場を抜け、雪の降る街路を進んだ。誰も追ってこない。追えば、触れてしまうからだ。触れれば、自分たちが何と戦っているのか分からなくなるからだ。
彼女は橋の上で立ち止まり、川を見下ろした。干ばつの年の川は細く、雪解け水が少しだけ流れている。水は冷たい。冷たさは、嘘をつかない。
リーゼは思った。
自分はこれから何をするのか。
復讐か。教会の転覆か。王の糾弾か。
だがそれらは、どれも彼女の奇跡と噛み合わない。彼女は破壊の奇跡を持たない。持つのは境界を整える力だ。ならば、彼女ができるのは、壊すことではない。壊れたものが壊れていると示すことだけだ。
彼女が生きていること自体が、示しになる。
——神は、彼女を捨てなかった。
その事実が、教会の「正義」を壊す。
だから、彼女は悪役になる。
風が吹いた。雪が舞い、リーゼの髪に白が積もる。彼女はそれを払い落とさずに歩き出した。歩き出す先に、救済はないかもしれない。だが、救済の名で人が殺される世界よりは、まだましだ。
彼女は背中で、王都の鐘を聞いた。鐘は今日も鳴る。正義は今日も整列する。だが、整列の中に小さな乱れが生まれた。乱れは不快で、恐ろしく、しかし必要なものだ。境界が歪めば、世界は壊れる。歪みを戻すには、まず歪みを見なければならない。
リーゼはその役目を背負った。
背負わされたのではない。
戻ってしまった以上、背負うしかない。
そして、夜明けが来る。
神は彼女を捨てなかった。
それだけが、彼女を悪役にした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は「悪役になるとはどういうことか」を、できるだけ感情論ではなく、構造として描きたいと思って書きました。
誰かが悪意を持っていたから起きた話ではなく、
むしろ多くの人が「正しいことをしているつもり」だったからこそ生まれた悪役です。
聖女は何も変わっていません。
奇跡の性質も、考え方も、立ち位置も最初から同じです。
変わったのは、周囲が彼女に求めた役割でした。
・救えないものを救えと言われ
・希望を演じろと言われ
・神の名を都合よく背負えと言われ
それを拒んだ結果、「悪役」になっただけです。
神は彼女を捨てなかった。
しかし人は、神よりも自分たちの正義を信じた。
そのすれ違いが、この物語のすべてです。
ざまぁも、復讐も、勧善懲悪もありません。
ただ「正しさは、いつでも誰かを殺せる形をしている」という一点だけを残したかった作品です。
重たい題材でしたが、最後まで読んでくださったことに心から感謝します。




