研修旅行はタイムマシンで
「タイムマシンの開発に成功か」
「覆る常識 新時代の幕開け」
新聞も、テレビも、スマートフォンさえも、みんな同じことを言っている。そりゃあ当然だ。ファンタジーの一環であった「タイムマシン」が、現実となったのだから。
窓から入り込む斜光に照らされ、シャーペンが橙に染まる。ヒグラシももう鳴き止んでしまった。
「黎人…黎人。できたよ」
台所から声が聞こえた。時計の短針は真下を指していた。
階段を駆け降りると、やけに顔色を良くした父さんがテーブルの向かい側に座っていた。
見慣れたワイシャツの上に紺色のスーツを着ているが、さらにその上に花柄のエプロンをつけている。
「なんだよ、そのエプロン。」
そう言って笑ってやると、父さんは両手の親指でエプロンを指した。
「これか、これはなあ、アネモネっていうんだ。花言葉は「はかない恋」。母さんに置いて行かれた俺にぴったりだろう?」
笑顔でそう言った。どうしてそんなに楽観的でいられるのか。
「昨日は忘れ物しなかったのか?」
「しなかった。一つも。」
「嘘つきめ。」
父さんはエプロンのポケットから三色ボールペンを出した。
「それは予備のやつ。もう一本、それより
も使いやすいのが入ってる。」
ペンケースからもう一つのペンを出して見せると、父さんは歯を見せて笑った。
「学校でそのペンを無くしたらどうするんだ。」
「誰かから借りるよ。そもそも無くさないようにしてるから平気。」
「何のためのヨビなんだ。…無くさないようにしてるって、先週、消しゴム無くしてきたじゃないか。」
また一つ、父さんのからかい文句を増やしてしまった。ネクタイの位置を正しながら微笑む。笑みを浮かべたまま、台所へ戻って行った。
父さんの周りにあるのは、父さんを含めて現実味のないものばかりだ。昨日の空間転移装置だってそうだ。誰もが架空のものだと思っていたはずだ。
…「いずれ、AIと人間は有機物か無機物かだけの違いになるのです。AIは私たちと同じように起きて、外へ出て、働いて、寝るでしょう。皆さんはAI に埋もれることなく、自身の生きる意味を見出せるでしょうか。」…
昨日、授業で自分の将来について考える時間があった。そこで先生が言っていたことだ。
「父さんの仕事は、AIには取られないだろうね。」
父さんは乾いた声でまた笑う。
「取られたっていいさ。そしたら、AIを開発する仕事につくよ。」
冗談なのか本気なのかはわからないが、父さんのことだから、きっとどんなところでもやっていけるだろう。
「今日はテレビ局が取材に来るんだ。研究室をきれいにしてくる。」
父さんは茶色いカバンをとって、よろけながらリビングを出ていった。時計に目をやると、まだ六時二十三分だった。
洗い物は僕の仕事だった。台所へ向かい、黄緑色のゴム手袋をつけた。
ふと左側に目をやると、藍色の小さなバッグが置いてあった。…父さんの弁当袋だ。中には弁当箱が入っていた。母さんがいた時から、ずっと使っていたものだった。父さんはこれをひどく気に入っていて、これに入っているものはなんでも絶品だ、と褒め立てていた。
父さんの勤める研究所は、家と学校の間にある。仕方がないので、途中で研究所に寄り、弁当を届けることにした。太陽に加熱された冷水がぬるま湯となり、手袋越しに僕の手を温めた。
…これからさらに技術が発達したら、ロボットは自分達だけで社会を築いたりするのだろうか。そんな世界で、人間はどのような日々を送るのだろう。働かずに、一生遊び呆けるのだろうか。それとも、前見たロボット映画のように、自分勝手な暮らしをするロボットと戦争するのだろうか。未来は何が起こるかわからない。大人は易々とそういうけれど、僕らにとっては人事ではない。…いっそ、未来を直接見てしまえないだろうか。
そんなことを考えているうちに、シンクの食器は全てなくなっていた。七時八分。僕は父さんの弁当をリュックにつっこみ、玄関を飛び出した。日が出てからはそれほど経っていなかった。しかし空気は十分に加熱されているようで、焼け付くように全身の皮膚を覆ってきた。夏の太陽は恵みではなく、生き物を蒸し殺す厄災なのではないだろうか。滲み出る汗を振り払うように、早歩きで研究所へ向かった。
研究所に着くと、開けっ放しの玄関口から冷気が流れ出ていた。暑さでしおれてしまった僕は、千鳥足でそこへ向かった。扉の奥は真冬のようで、冷たさが汗を伝って皮膚に染み込んできた。腕の鳥肌を見て、去年九月にプールの授業があったことを思い出した。ユウマは唇を真っ青にして、腕を抱えて震えながら保健室に行ったっけ。彼には悪いが、あの時の表情を思い出すと、今でも笑いそうになる。研究室の中には誰もいなかった。父さんの名前を呼んでも、壁に反響するだけだった。仕方なく、近くにあったテーブルに弁当を置き、その場を立ち去ろうとした。ふと、奥にあった機械に目が止まった。水色に輝くボディを見てすぐに、今朝の記事に載っていたタイムマシンだと分かった。近寄ってみると、塗り立ての塗料が僕を歪めて映していた。
…どうして気づかなかったのだろう。これを使えば、未来を直接見れるではないか。僕は思いつくままに、タイムマシンの扉を開け、中に入った。
中に入り、扉を閉めると、かしこまった男性の声がした。
「こんにちは。行き先はどちらですか。」
「千年…いや、五百年くらい先で。場は…。」
「かしこまりました。」
行き先を言い終わる前に、タイムマシンは閃光に包まれた。白色のキャンバスとなったマシンの中で、赤、青、紫、黄色、さまざまな色が惑星のように踊る。船体は大きく振動し、リュックの重みが何度も背中にのしかかる。まるで、僕まで閃光になってしまったようで、疾走感と興奮で破裂しそうになった。
数秒後、マシンは止まった。扉の先は街だった。見上げると、墨を塗りたくったような空があった。それを隠すように林立する巨大なビル達の側面には、数え切れないほどの真っ白い光が規則正しく並んで、ギラギラとまたたいていた。目が眩んで、思わず視線を落とす。すると、コンクリートの地面の隙間がピカッと水色に光った。僕は手で目を覆った。
それだけではない。けたたましく重々しい機械音がそこらじゅうから聞こえてきた。耳の穴を塞いだ。視覚、聴覚ときたが、まだ
続いた。金属と油の匂いが強く鼻をついた。空気は重く、吐く息は白く凍った。その居心地の悪さに、引き返そうとさえ思った。
しかし、未来をこの目で見るチャンスを逃すわけには行かない。試しに後ろを向いて、ゆっくり手を下ろした。すると、そこには僕の身長よりも大きな輪っかがあった。ふわふわ宙に浮き沈みする姿は、ヘリコプターのホバリングを思い出させた。
輪の中心の空間が青色に光っている。僕はここから出てきたのだろうか。あの扉はどこへ行ったのだろう。背後から音がした。振り返って、煌々と輝くビル街の方をみると、一体の人型ロボットが姿を表した。そいつはウィンウィンと音を立てながら、二本の脚を器用に使ってこちらへ向かってきて、問い詰めるように銀色の指をこちらに向けた。しかし、なんと言っているのかはさっぱりわからない。こういう時は世界共通語である英語を使うべきだろう。僕は「イングリッシュ作戦」を実行することにした。
「マイネームイズレイト。アンドユー?」
しかし、彼はますます混乱した様子で、上半身をシーソーのように揺らしながら、後ずさりを始めた。彼が動くたびに、さびた金属が擦れる音がした。
「ソーリー、アイアムジャパニーズ。」
慌ててそう言ったが、ロボットたちは二人で向き合った後、僕の後ろへ回り込み、輪っかを荒々しく折り畳んだあと、ドスドスと早歩きで行ってしまった。
呼び続ける声は彼に届かず、背中はひたすら小さくなるばかりだった。記念すべき一回目のイングリッシュ作戦は失敗に終わった。
そう思った矢先、正面に人影が見えた。その人はゆっくり僕に近づいてきた。さっきの人みたいに足音は大きくないし、ウィーンとかガシャンとかの機械音も聞こえてこない。モノトーンのジャケットを羽織り、下には薄生地のキュロットを履いている。その端々からは、僕らのよく知る白色の肌が見える。手には灰色の小さなバッグを持っている。身長は僕と同じくらいだ。てっぺんから出た頭髪は腰まで伸び、地面から出る冷風ではたはたとなびいている。
「ヘイ、プリーズトークウィズミー!」
僕はイングリッシュ作戦第二弾に出た。その人は一瞬ぎょっとしたが、すぐに元のすました顔に戻った。そして、低い女性の声でこう言った。
「What language do you speak?」
聞き覚えのある言語が耳に入り、ほっとした。
「アイキャンスピークジャパニーズ」
それを聞いた彼女は目を閉じ、固まった。少しすると、目をゆっくり開けて、
「やあ、こんにちは。君は…どうしてここにいるんだ?」
彼女はぎこちない笑顔を浮かべ、落ち着いた声で僕にそう聞いた。
「こんにちは!僕は、未来のことを調べにきました。」
身体がほかほかと暖まっていくのを感じた。外気との温度差で湯気が出そうだ。
「そうか。…私はこの世界の学生だ」
イングリッシュ作戦は失敗したが、日本語が通じるに越したことはないだろう。
「何を使ってここまで来たんだ」
「空間転移装置だよ、タイムマシン。」
そういうと、彼女は大きく目を見開いた。
「本当か。…空間転移装置って、これのこ
とだろう?」
彼女はポケットから立方体を出して、それを指先でいじり始めた。気がつくと、立方体は4枚のスクリーンに変わっていた。スクリーンには、空間転移装置らしきものが映し出されていた。細かな違いはあるが、大まかな形状に差異はない。
うん、と返事をすると、彼女はスクリーンの端を掴み、元の形に戻した。
「君、何処から来たんだ。」
僕を横目で見る。街灯に照らされた瞳が赤く光った。
「えーっと…2037年?」
そういうと、彼女は大きく目を見開いた。
「その時代にタイムマシンを使えたということは、君、氷室雄介の知人だろう。」
立方体をポケットにしまう。動き一つ一つが最短経路を行くようで、無駄がない。
「うん、僕の父さんだよ。」
「実の息子か、驚いたな、こんなところで会えるとは。」
彼女はほんの少し首をかしげ、またぎこちなく笑った。
「君の父さんは今でも有名人だよ、なにせ、彼の研究所はそのまま残されているからね」
それには流石に驚いた。普段寝食を共にしている人間が、500年後まで名を残すような偉人だったなんて。
「君の名前は。」
「黎人です。あなたは?」
「そうだな、君の言語で言うと、アルカだ。」
アルカは空書を書いてみせた。軌跡は蛍光緑に染まり、文字が浮かび上がる。
「せっかくここに来たんだ。雄介の研究所へ、一緒に行ってみないか?」
彼女はそう言って、右手を差し出した。その右手の上に、地図のホログラムが浮かび上がってきた。中心には、赤いピンが映し出されている。
「ここが現在地だ。それで、行き先はここ。徒歩73分だ。」
青いピンが表示され、行き先であろう場所を指した。道中で力尽きる自分を想像すると、歩く気にならなかった。
「安心して。そんなに長く歩かなくても大丈夫だ。これがあるからね。」
彼女はそういって、バッグから手のひらくらいの球を出した。そして、そのボールを両手で伸ばし、フラフープ状にした。
「ワープホールだ、これですぐに移動できる。」
地面に置くと、それはふわふわと浮かび始めた。最初のロボット達が持っていた輪っかと同じだった。
そして…すまないが、これをつけてくれないか。」
アルカは菱形のバッジを差し出した。
言われた通り、左胸にバッジをつけた。すると頭に文字が浮かび上がってきた。…通信機能、翻訳機能がついたバッジだ。これで、口を開かなくても会話ができる。…アルカは自分の左胸を指差し、さっきより自然に口角を上げる。胸には同様のバッジがついていた。
アルカはさっき、自分は学生だと言っていた。この世界の学生は何を学んでいるのだろう。教師が大勢の生徒を相手とする、典型的な授業はあるのだろうか。
「それはしない。情報はみんなインターネットから自分の頭にダウンロードする。私たちがやっているのは、未来の問題解決に向けた研究や開発だ。…タイムマシンが世に広まって、いつでも未来を知れるようになったからな。」
先生は間違っていなかった。しかし皮肉なことに、実際にそれらを仕事としたのは機械であったようだ。
「君、「通信」が上手いな。次々と、いろんな情報が入ってくる。」
僕の驚いた顔がアルカの目に映る。それを見たアルカはニッと笑った。妙に人間くさい表情だった。
「じゃあ、研究所へ行くか。」
アルカはバッグを持ち直し、フラフープについたボタンを押す。輪の中に、雲のような空間が現れた。飛び込むアルカを追うと、乾いた風が僕の目に直撃した。ぱちぱちと瞬きをする僕に、アルカは笑いをこらえるような仕草を見せた。
視線の先には、ボロボロの一軒家があった。間違いなく、僕の家だった。庭に植えてあった草木のいくつかは枯れていたが、残っているものもある。寒いからか、サザンカとクリスマスローズが綺麗に咲いていた。
「ここには学生がよく来るんだ。…見学料も安いし、過去の建造物ってあまり残っていないからな。歴史の勉強にもなる。」
勉強のためとはいえ、沢山の知らないロボットたちが自分の家を訪れているのかと思うと、なんだか恥ずかしい気もした。
「私も、何度か来たことがある。」
入り口にはまた電子パネルがあった。アルカがそこに手をかざすと、入り口が開いた。
「学生は無料で見学できるんだ。…貯金はいくらかあるし、君の分
の入場料は、私の方から出す。」
もう、口を開かなくても会話ができそうだ。けれどもアルカは「通信」に頼らず、しっかり口を開けてしゃべっている。過去の人間である僕をからかっているのかもしれない。
「そんなことはない。」
アルカは笑い混じりにそう言って、展示物のある方へ進んでいった。
「ほら、あれを見ろ。」
アルカが指差した方を見ると、まさに今朝僕が使った「空間転移装置」があった。さすがに数百年後ともなると、表面の塗装が剥がれていたり、ネジが緩んで飛び出てきたりしている。
「あれが、研究に使われたノートだ。」
アルカはノートの方へ向かい、指先のプロジェクターで解説を表示してみせる。
で向かう。
「これが、実際に使われてた発明器具だ。…研究中の写真もあるぞ。」
アルカは次々とコーナーを回って行った。思ったよりたくさんの
部屋があり、増設されたであろう真新しい場所もあった。展示物には、有名になったものから、売れなかったもの、あとは、そもそも売り物とならなかったものなど、沢山のものがあった。
「あのロボットが、私たちの元になったものだ。」
アルカが脚を止めたのは、「歴代の発明品」コーナーの、女性型のロボットの前だった。柔らかく幼げがある笑顔に、なんだか見覚えがあった。
「黎人、ほら。これを読んでみな。」
そこには、そのロボットの詳細が書かれていた。…「このロボットは、雄介の元妻である香奈恵を模したものだと言われている。開発当時、すでに離婚から17年が経っていた。
「君の父さんは、本当に愛情深い人だ。」
アルカは遠い目をしていた。理解ができない、という言葉が浮かんだ。
少し進むと、アルカはまた別の機械を指差した。
「どうやら、「人造人間」を作るための機械だったらしいが…」
説明書きを読んだ。「皮膚や頭髪などのDNaを利用し、その情報通りの人間の体を作り出す装置。雄介はこれの開発のために、遺伝子学者複数名を雇った。研究は順調に進んでいたが、研究チームの複数名が倫理的な問題を訴え、開発が中断された。」 …なんだか危なそうな機械だ。
「雄介は、この辺りから調子を落としたようだ。」
アルカは一瞬不安そうな顔をしたが、すぐに違う展示物の方へ向かって行った。そこには「空間転移装置 最新版」と書かれていた。
「これも、開発に成功しなかったようだ。しかも、24年間も。」
僕は説明書きを読んだ。…「現代から過去への移動を試みた雄介であったが、チーム内で意見の食い違いがあり、研究は大幅に規模を縮小した。その後も研究は思うように進まず、二◯六五年、雄介の意志で、ついにチームは解散した。その2年後に、晩年62歳という若さで亡くなっている。」…
僕はその文章を受け入れることができなかった。父さんは何があっても挫折するような人じゃない。持ち前の知識、人脈、発想力、そして根性で、全てを片付けてしまう。そんな人なのだ。
「そう…信じられない、か。」
アルカは不思議そうな顔をしながら、最後の展示室へ向かって行った。…事実を前にして、否定するとは。そう聞こえたような気がした。
「最期は、無限である未来より、有限である過去に賭けたんだな。」
アルカはそう呟いた。その声は、どこか冷たかった。
「ここには、雄介の人生がまとめられてるらしい。」
部屋に入り、辺りを見回すと、円形の壁に大きな数字が書かれていて、それぞれの数字の下には「手をかざしてください」という文字と、それ用のセンサーが10個ほど並んでいた。天井には大きなプロジェクターがついている。
…「0歳 千葉県千葉市花見川区で誕生」…
…「9歳 小学校の自由研究で科学教育賞を受賞」…
「19歳 名門、勝浦科学大学へ入学」…
「君のことも書いてあるぞ。」
アルカが指差した方を見た。…「26歳 第一子誕生」…
アルカはセンサーに手をかざした。すると、壁にたくさんの文字と僕の写真が映し出された。
「やめてよ、恥ずかしい。」
僕はホログラムに飛び込み、かき乱すような仕草をした。アルカは声を出して笑った。なんの変哲もない、人間の笑い声だった。
そうしてみていくうちに、最後の数字にたどり着いた。…「62歳 雄介の最期」…センサーに手をかざし、文字を読んだ。…「若くして才能を発揮した雄介であったが、晩年は辛い日々を送ったとされている。…彼の遺言は以下の通りである。「ああ、やっと、香奈恵にあえる。私は、やっと…また…」」
今朝の父さんの顔が頭に浮かぶ。ふわっとした笑顔、くしゃくしゃの髪、大きな黒縁のメガネ。いつもにやけてばかりで、僕に苦しい顔を見せたことはない。少なくとも、僕の記憶にはない。震える唇を噛み締め、映し出された写真を見つめる。髪を真っ白にした父さんが、ピースをして無理矢理笑っている。明らかにしおれているその表情は、僕の中の朗らかな父さんをかき消していった。
「過去の自分の恋人に、いつか絶対に会えるって、そんなおぼろげな夢を抱いて、それだけを糧に研究を続けてきたってことだろう?…なんとも、人間らしいじゃないか。」
僕は黙っていた。ただ、目の前にある家族写真のホログラムー幼い僕と、母さ
んと父さんが、みんな笑顔で写っている写真ーを、ぼうっと見つめていた。
父さんの手にある指輪が、カメラのフラッシュを反射して、真っ白に光っていた。
気がつくと、僕はアルカに手を引かれ、建物の外を歩いていた。
その手に温もりはなかった。
「…さっきは、すまなかったな。…君の気持ちをもっと汲んでやるべきだった。」
アルカは前を向いたままそう言った。
「でもな…君と一緒にここに来れてよかった。私は、人間を知ることができた。」
アルカは立ち止まって僕の目を見つめる。
「私は、私たちが人間になるための研究をしている。この世の人間は、もうみないなくなってしまったから、私たちがその代わりを務めるのだ。人間にあって、私たちにないもの。それは、不完全さだ。私たちは正解しか知らない。私たちが計算して導き出した答えはいつも正しい。私たちの人生は一本道なんだ。だから、迷わず、立ち止まらない。けれども、それでは人間になれない。ことあるごとに迷い、惑うのが人間なんだ。」
アルカは続ける。
「けれども、どうしてそうなるのかが、私には分からなかった。…今日黎人と共に過ごして、やっとそれがわかったんだ。目に見える事実を、感情的に否定することだ。そうやって、自分だけの正解を創り出すことだ。…」
背後に列をなす照明たちがアルカの目に映り、輝く。
「異なる正解を持った者たちが出会えば、新しい正解が生まれるかもしれないし、争うかもしれない。どちらになるか、どちらにもならないのかはわからない。その不確定さが必要なんだ。その不確定さ、不完全さが、人間になるために必要なんだ。そうだろう?」
眼光が僕を貫く。その光は希望に満ちていた。
「…わからない。僕はまだ世界を知らないし、生きる目的も見つかっていない。君が言うように、不完全だから、自分の正解すら持ってない。」
「どうしてそんなに悲観的になるんだ。不完全だから、正解を変えることができるんだ。完全になってしまったら、正解はただ一つに決まってしまう。その前に、迷うんだ。その分だけ、新しい道が見えてくるんだろう。」
「…そうとは限らないよ。迷わない方がいいかもしれない。迷ったせいで、チャンスを失うことがあるから。迷うってことだけが、正解じゃないよ。」
「…そうか。…結局私は、正解を一つに決めようとしていたのか。」
正解じゃなくても、いいんじゃないだろうか。
「…なるほど。盲点だったよ。…なんなら、不完全さが必要っていう私の考えこそ、不完全なのかもしれないな。」
不完全なら、新しい道を導き出せる。
「…そうだったな。ありがとう。」
これが僕とアルカにとっての正解なんだ。アルカは優しく微笑み、手を差し出す。…もう、通信は必要ないな。話さずとも通じ合えるだろう。…僕はバッジを外し、アルカに手渡した。
「…目的は済んだな。そろそろ、帰るか。」
「うん。…ありがとう。」
アルカはビル街へ進み始めた。僕はそれを追った。照明はもう消えていて、陽が僕らの影を作った。照明のあった場所には、背の高い街路樹が現れていて、葉を擦らせて音を鳴らしていた。
アルカは一つのビルの前で止まった。
「いらっしゃい。隣にいるのは同僚かい。」
ビルの中から、見覚えのある銀色のロボットが出てきた。
「いえ、ただの友達です。」
ロボットは僕をまじまじと見る。
「…君、ひょっとして。ホールから出てきた、あの?」
ああ、そうです。と答えると、ロボットは僕に近づいてきた。
「あの時はすまなかったね。持っていた最後のワープホールを使おうとした時、急に本物の人間が出てきたものだから。…あのホールは使い捨てでね。僕はあれから、ここまでずっと歩いてきたんだよ。」
ロボットはわざとらしい身振り手振りをしながら、そう言った。
「君、過去から来た人間だな。…二◯◯◯代のタイムマシンは不具合が多いから、間違って私のホールから出てきてしまったんだろう。」
ロボットは乾いた声で笑う。
「来たのが昨日で良かったな。ちょうど昨日、過去へ行くためのタイムマシンを買ってきたところだったんだ。」
ロボットはビルに向かってドタドタと走っていき、2個のフラフープを手に持って戻ってきた。
「使い捨てだが、持ち運びが可能。これまでのと比べると、かなり安価で手に入りやすくなったな。…帰れないのは困るだろう?一つやるよ。」
ロボットは僕にタイムマシンを手渡した。
「他に用はないかな。」
「ああ。ありがとう。」
アルカがお礼を言うと、ロボットは手で合図をして、ビルへ戻っていった。
「…じゃあ、またいつか。」
アルカは右手を僕に差し出す。僕は手を取り、ニッと笑ってみせた。ヒートアップしているのか、手が生温かかった。
輪っかが地面に置かれると、赤い光を放ち、フワフワと浮かび始めた。
「…安価になったのなら、私でも手が届くだろうか。」
アルカは僕を見送りながら、そう呟いた。
「2038年、氷室の研究室へ!」
白く光る空間が現れ、冷たい風と共に、僕はそこに飛び込んだ。
目を開けると、そこは研究室だった。時計を見ると、7時58分。
「黎人、まだここにいたのか?…タイムマシンはまだ完成していないから、使っちゃダメだぞ。」
僕はぎょっとした。
「まだ行き先が安定していなくて、未来へ行って、そのまま帰ってこれなくなってしまうかもしれないんだ。…大体、500年ほど先かな。過去へ戻れるようになるのは。」
父さんの予想はバッチリ当たっている。さすが、歴史に名を残した学者だ。
「ああ、俺も過去に戻れたら、母さんに会えるのにな。」
さっきのことを思い出して、寒気がした。
「…別に、母さんにそんなに執着しなくても…」
「嫌だなあ。僕、母さんのことを考えてる時が一番幸せなのに。」
父さんの目尻を見ていると、何故だか、否定する気にはならなかった。
「あ、父さん、弁当。」
僕は床に放り出されたリュックから弁当を取り出し、父さん
に渡して、そのまま玄関へ向かった。学校へ遅れてしまう。
「気をつけて行ってこいよ。忘れ物はないな?」
「あるわけない。大丈夫だから、心配しないで。」
父さんを押しのけて外へ出ると、真っ青な空が広がっていた。煮えてしまうほどの熱い夏、コンクリートの坂を駆け上がった。
教室に着くと、ユウマがニヤニヤしながら向かってきた。
「黎人、転校生が来たらしいぞ。しかも、めっちゃカワイイって。」ユウマが食い気味で言う。ユウマに引っ張られて、ふらつきながら席についた。
しばらくすると、先生と一人の生徒が教室に入ってきた。僕と身長が同じくらいの、姿勢のいい、華奢な女の子だった。
その子は先生に促され、黒板に自分の名前を書いた。
「先之有歌です。よろしくお願いします。」
赤茶色の目が、こちらを向いたような気がした。