閑話 離れていても心は傍に
エガリテ王国にある王立アカデミー。
学問の都とも呼ばれる王都にあるそこには、国内外から集められた優れた才能を持つ貴族子女だけでなく、難関の試験を突破する能力さえあれば平民だろうが構わず入学できる事で有名だった。
徹底的な実力重視の国であり、例え公爵家や侯爵家といった上位貴族の者であっても、能力がなければ重要な官職に就く事は出来ず、逆に優秀なら平民であっても要職に就く事が出来るという事だ。
実際この国の宰相はアカデミーを首席で卒業した平民出身の男だというのだから、その証明になるだろう。
そういう意味でも、エガリテ王国のアカデミーを卒業しているという事は、優秀な人材である事を表しているのだ。
そんなアカデミーには幼くても優秀な者を受け入れる為の飛び級制度が存在している。本来は15歳からの入学なのだが、試験自体は入学時に10歳を迎える者なら誰でも受験する事が出来、見事合格すれば飛び級で入学が許されているのだ。
しかしながら、実際には飛び級で入学出来る者はそれ程多くはない。それだけ難しい試験だという事なのだが、飛び級で入学する者は例外なく要職に就いていた。
件の宰相も僅か10歳で飛び級入学を果たした伝説を残しているのだが、そんな彼と同じく10歳で入学する猛者が去年現れた事でエガリテ王国の王都では彼の話題で賑わっていた。
その少年は優秀なだけでなく、美しいストロベリーブロンドの髪に宝石の様なペリドットの瞳を持つ可愛らしい他国の美少年だというのだから注目されるのも当然だろう。
彼は同じく飛び級で入学している13歳の第二王子といつも行動を共にしており、シルバーブロンドの見目麗しい第二王子と並ぶと壮観だともっぱらの噂だった。
「……とまぁ、世間でのお前は可愛い美少年だと評判らしいんだが、実際は滅多に笑わないわ、女子には冷たいわで噂なんてあてにならんものだよな」
エガリテ王国王宮にある書庫で、第二王子ベネディクト・ラデュ・エガリテ殿下は参考書を広げた机に頬杖をつきながら僕の方へと視線を向けた。
「殿下、くだらない事を言ってないで手を動かしてください。そんな調子だとフェラン宰相様の課題、今日中に終わりませんよ」
「別に今日中じゃなくても構わんさ。宰相の言った期限は明日だろう?」
「明日は大切な用事がありますから、僕は手伝えませんけどそれでも宜しければどうぞ御一人で頑張ってください」
ぴしゃりと言い放てば、彼は恨みがましそうな表情を浮かべる。王族は感情を表に出さない様に教育されるものだが、彼は第二王子という立場だからなのか、その辺りは些か大目に見られているらしい。
そもそも彼は頭の回転も早く、アカデミーにも飛び級で入学する程に優秀なのだが、第一王子の手前、怠惰に振る舞う事が多々見られる。演技なのだとは思うのだが、時々本気かもしれないと思えてくる程だ。
「なんだよ、俺より大切な用事だっていうのか?お前それ、絶対『メルちゃん』絡みだろ」
「気安くメルちゃんだなんて呼ばないでください。そう呼んでいいのは僕だけなんですから」
彼にメルちゃんとの事を知られてしまった事は本当に失態だったと思わずにはいられない。あの時、彼女から届いたばかりの手紙が嬉しくて、ついアカデミーにまで持ってきていたのが運の尽きだったのだ。
アカデミーに入学した当初は、僕の容姿や年齢から遠巻きにされる事が多く、他人に煩わされる事があまり無かった事は幸いだった。
その日も校舎裏にある庭園のガゼボを陣取っていたのだが、ここは校舎からかなり離れているお陰で殆ど人も来ず、静かで落ち着ける事が気に入っていた。
けれど、環境は落ち着いていても、手の中にある物の事を思うと心は弾んでとても落ち着けるものではない。
メルちゃんと離れる事は辛かったけど、離れたからこそ受け取れる物が手紙だ。彼女は手紙に香りをつける為に必ずお手製のサシェを同封してくれていて、それも毎回の楽しみだった。
その時はマグノリアで作られたものが入っていたのだが、マグノリアは華やかで上品な香りだ。それがまるでメルちゃん自身を表しているみたいで、それを嗅ぐだけで彼女が傍に居る様なそんな幸せな気持ちにしてくれたのだ。
そもそもメルちゃん本人は気付いていないみたいだけど、彼女が妖精の加護を受けている事は間違いない。
実際、この手作りのサシェに使用されたマグノリアは、メルちゃんが触れた事でその花が持つ効能がより引き出されているのだ。マグノリアの香りには落ち込んだ気持ちを高揚させる効果があるのだから。
思い返してみても、あのお邸の植物はどれも効能が桁違いのものばかりで、見る人が見ればすぐに気付く類のレベルだというのに、当の本人は全く気付かずに香りがとてもいいだとか、クッキーに混ぜたら少し元気になる位に思っている所が本当に恐ろしい所だ。
僕が彼女に出会った時点で、あのお邸にはメルちゃん以外は高齢の使用人しか残っていなかったし、彼等の誰もあれらの植物がどれだけ貴重で素晴らしく、価値のある物だという事に気付いていた者はいなかっただろう。
幼い頃からそういう特別なものを見慣れていた僕でさえ、メルちゃんが触れたハーブを初めて見た時は本当に驚いたものだ。彼女は僕の反応を全く見当違いに解釈している様だったけど、そういう所もメルちゃんらしくて可愛らしいと思わずにはいられない。
僕よりも年上だというのに、お人好しで世間知らずで頑張り屋のメルちゃん。彼女が妖精の加護を受けている事は彼女の存在価値を高めてはいるけど、それはそこまで重要じゃない。メルちゃんがメルちゃんらしくある事が僕にとって何より価値がある事だから。
でも、加護がある事で彼女はこれから望んでもない事に巻き込まれる可能性は大いにある。
僕はまだ子供で、彼女を本当の意味で守れる力もない。勉強だって剣術だって、まだまだ学び足りない。もっと力をつけて、ずっと一人で頑張ってきたメルちゃんを隣で支えられる様な大人に早くなりたい。
『……何年でも、テオが無事に帰ってくるのを待っているわ』
あの日、メルちゃんはずっと待っていてくれると約束してくれたから。
「メルちゃん……逢いたいな……」
我知らず声が漏れ、すぐに逢える距離にいない事が堪らなく寂しく感じる。
そうしたメルちゃんとの思い出に浸りながらマグノリアのサシェの香りを堪能していた僕は、いつもならすぐに気付く筈の気配に全く気付かなかったのだ。
「なんだ、そういう表情も出来るんじゃないか」
「っ……!?」
掛けられた声にハッとしてそちらを向けば、意味ありげな微笑みを浮かべたベネディクト殿下の姿があった。その年に飛び級で入学したのは僕と彼の二人だけだったのだが、これまでは特に会話らしい会話をした事がなく、声を掛けられたのはこの日が初めてだった。
「いつもとりすました顔をして人形みたいだと思っていたが、成程、特定の女子の前でだけ表情が緩むタイプだったか」
メルちゃんの事を想う表情がどんなものかは解らないが、他人に見られた事がどうにもきまりが悪く、咄嗟に言葉が出てこないのをいい事に彼はずかずかとこちらに近付いてくる。
「それで、『メルちゃん』というのはお前の婚約者か何かか?」
メルちゃんが妖精の加護を受けている事が露見しかねないサシェだけは咄嗟に隠したものの、この日僕はエガリテ王国の王族を前に、彼女の事を洗いざらい吐かされる羽目になってしまったのだ。
あの日の事を思い出し、つい溜息が漏れる中、当のベネディクト殿下は不貞腐れた様子を隠そうともしない。
「そもそもそのメルちゃんとは婚約者でも何でもないのだろう?だというのに折々に手紙と贈り物をするのはまだしも、彼女に気付かれない様に護衛をつけたりするのは正直重いぞ」
「正式な婚約は親の許可が必要ですから仕方ありません。でも、メルちゃんは僕が帰ったら結婚してほしいという話にいつまでも待ってると言ってくれたのですから、仮婚約は成立しています。彼女に護衛をつけて守るのは当然でしょう」
本当は僕が傍で守りたいけど、二人の未来の為には今はやるべき事をやらなくてはいけないのだ。それに彼女には我が家の信頼できる騎士をつけている。大抵の事なら問題なく対処できる筈だ。
何の問題があるのかと真顔で返すのだが、返ってきたのは呆れた様な溜息だった。
「それが重いと言っているんだよ。勝手に束縛するよりもまずは彼女に本名を名乗るべきだと思うぞ、テオドール・フィエルテ公爵子息?」
痛い所をつかれ、僕はぐっと押し黙るしかなかった。彼の言っている事は正論だ。彼女は今も僕の事を平民のテオだと思っているのだろうから。
僕は彼女のファイアオパールの様な瞳を見た瞬間、一目で恋に落ちてしまったから、彼女には最初から愛称のテオと呼んでもらいたかったのだ。
本名を名乗れば、貴族ならすぐに公爵家の者だと気付かれてしまうだろうし、今までそれを知った後の人々の反応は酷く畏まるかすり寄るかの二択しかない。だから最初からテオと名乗り、彼女には裕福な平民だとわざと思わせた。
礼儀正しい彼女なら、僕が公爵子息だと解ればそれまでの気安い口調から畏まってしまうに違いない。時が経てば経つ程、本当は貴族だという事も本当の名前も、メルちゃんに嫌われるのが怖くて言い出せなくなってしまったのだ。
無言になった僕に対して、ベネディクト殿下はまた一つ溜息を漏らす。
「話を聞く限り、お前のメルちゃんはお前が公爵子息だろうが気にしないと思うぞ。それを気にしてるのは他ならないテオドール、お前の方だろうに」
「……解っています。メルちゃんは嘘をついていた事だって、きっと笑って許してくれるんだろうって事は。それでもまだ僕には時間が必要なんです」
ふと窓の向こうに広がる空に視線を向ける。少しだけオレンジに染まり始めた空の色は、もう少ししたら僕の大好きな色になる。メルちゃんの瞳の様に美しい夕焼け空に。
ぼんやりと眺めていたのはほんの短い時間だったろうに、突然伸びてきた腕にハッとした時には既に僕の髪はぐしゃぐしゃに掻き乱されてしまった。ムッとして顔をあげれば、少しだけ口の端をあげたベネディクト殿下と視線が重なる。
「お前は頭が物凄く良いからそうやって難しく考えすぎる。テオドール、お前は全く子供らしくないが、まだ11歳なんだ。もっと周りに甘えろ。悩みでも惚気でも、友人としてこの俺が聞いてやるから」
ただのテオなら、メルちゃんの前で普通の子供らしくいられた。けれど、テオドール・フィエルテとしての僕は公爵家の一人息子でいつだって立場があったし、母上を亡くした父上を支える役目もある。
子供だからといって侮られる訳にはいかず、周りに見くびられない様に完璧な振舞いが求められた。気を抜けたのはメルちゃんの前でだけだ。
だというのに彼は友人としてもっと頼れとそう言っているのだ。不覚にもぐっと感じるものがあったが、よくよく見れば良い事を言ったと妙に誇らしげな彼の表情が逆に冷静さを取り戻させてくれる。
「そんな事言っても、明日は手伝いませんからね」
「くそっ……やはり駄目か……今回はいけると思ったんだがな」
「ほら、口ではなく手を動かしてください」
机に突っ伏し、項垂れる彼の姿に少しだけ笑みが溢れる。そうは言っても、少しだけ心が軽くなった気がするのは事実だったから。
「……ありがとうございます、ベネディクト殿下」
ぽつりと漏らした声は、彼に聞こえたのかどうかは解らない。ただ、その後は不満を漏らしながらも課題に取り組んでいたから、きっと聞こえていたのだろう。
その時の僕はまだ知らなかった。
明日来る筈のメルちゃんに関する定期報告が、この日の夜に火急の知らせとして届く事を。
彼女があの父親のせいで邸を追われ、よりによって我が領地で見知らぬ男と行動を共にし、護衛の騎士の目の前で行方知れずになってしまった事も、何も知らなかったのだ。
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