閑話 初めての感情
「おい、クロヴィス。オレの神殿はお前の緊急避難所じゃねぇんだぞ。そこんとこ解ってるか?」
ソファにどかりと足を組んで座り、機嫌が悪い事を隠そうともせずにじろりと睨んでくる彼を前に、私は思わず溜息が漏れた。
勿論この溜息は彼の態度のせいではない。この男――ジェローム・サン・ヴェリテが生命の女神アベラを讃えるアベラ教において大司教という地位に若くして就いている事は紛れもない事実であり、歴代最高とも言われる神力を持ち、光の上級妖精とも契約した実力者なのだから。
幼い頃から神童として崇められてきた彼が偉そうにしているのは今更な事であり、幼馴染である私にとってはいつもの事であるので最早気にもならない。
私の頭を悩ませているのは、まだ出会ったばかりのあの少女の事だ。彼女は今頃、私がこんなにも思い悩んでいるだなんて思いもせず、案内された神殿の一室でシエルと楽しく過ごしているのだろう。今日の行程を思えば、既に寝ている可能性もある。
「ジェローム、ここが私が知る限り最も安全な場所なのですから、少しくらいいいではありませんか」
「お前なぁ……!オレの結界を毎回毎回ぶち壊してる癖に少しくらいだぁ?それも早朝だろうが深夜だろうがお構いなしだ!ふざけてるとしか思えねぇだろ!」
「結界なら君のありがたい力で瞬時に直せるのだからいつも感謝していますよ。ありがとう、ジェローム」
にっこりと微笑んで頭を下げたというのに、ジェロームは心底嫌そうな顔をしているのだから酷いものだ。
「くそっ……だからオレはお前と関わりたくねぇんだよ。アベラ様にお前との腐れ縁を切ってくださる様に毎日祈ってるってのに、一向に叶わねぇ……」
「それは君の信仰心が足りないのでしょうね。もっと精進すべきでしょう。そんな事よりも問題はメラニーさんの事です」
「おい、そんな事ってお前なぁ……!」
抗議の声をあげるジェロームには構わず、私は彼の後ろに静かに控えている白髪の少年――光の上級妖精ルフレへと視線を向ける。
「ルフレ、君は私とシエルの他にもう一人少女が居たのを認識出来ましたか?」
そう問いかけるものの、彼はあまり興味が無さそうにマンダリンガーネットの瞳を少しだけ揺らすのみだ。オレンジに少し赤みがかったその瞳はメラニーさんの瞳と色味は似ているのだが、光の加減で様々な色に輝く彼女の瞳に比べるとどこか味気なく見える。
「さっきシエルが部屋に入ってくとこをちらっと見たけど、ぼくにはあの子が一人で浮かれて喋ってる様に見えたよ。あれ一体何なの?」
「成程、やはりそうでしたか……」
予想通りの返答に、これでシエルの言っていた話は真実なのだと裏付けされたという事でまた一つ溜息が漏れる。
メラニーさんはただでさえ可愛らしい容姿な上、お人好しで騙されやすそうという極めて素直な少女だ。その上よりによって妖精の加護を受けた平民だなんて、彼女の存在は貴族にとって大変魅力的な利用価値の高い駒に見える事だろう。
フィエルテ公爵夫人がいい例なのだが、妖精の加護持ちはそれによって受ける恩恵が大きく、家門に繁栄を呼び込む存在だとされている。その加護の効果に個人差はあるものの、そもそもが加護持ちは稀な存在だ。
故にたとえ平民であっても、加護を受けていれば養子や伴侶に喜んで迎え入れる貴族は多く、歴代の王族の伴侶にも加護持ちは多く見られる。
ただのお人好しの少女は、今や私の手には負えない程の価値がある存在となってしまったのだ。
思い悩む私とは裏腹に、ジェロームは彼女がルフレには見えていなかった事に驚いた様子で目を丸くしている。
「は?何だ、あの人畜無害そうな嬢ちゃん、訳ありか?クロヴィスの外面に騙された可哀想な子だとばかり思って、とっておきの客室に通したってのに」
「私は君のそういう所が大好きですよ」
「気色悪い事言うんじゃねぇ!背筋がゾッとしただろうが!」
メラニーさんへの対応の感謝として心からの笑顔を向けたというのに、ジェロームはまるで恐ろしいものを見た様に両腕を摩っているのだから失礼な奴だ。
「……彼女は『妖精の加護』を受けているんです。君の言うとっておきの部屋なら安心できます」
そう、彼が言うとっておきの部屋とは豪華な部屋という事ではない。彼の持つ神力とルフレの光の魔法が融合したこの国でも最高レベルの結界が施された部屋の事だ。余程の力を持った者でない限り、彼女を害する事なんて出来ないだろう。
けれど私の話を聞いたジェロームもルフレも怪訝な顔だ。
「いや、妖精の加護持ちがなんでルフレに見えねぇんだよ?シエルには見えてるって事は特定の妖精から目眩しでもされてんのか?んな話聞いた事ねぇぞ」
「ちょっと、あの子に見えてるのに、このぼくが姫様を感じられない筈ないでしょ。寝言は寝て言ってよね」
微塵も信じていない様子の二人の気持ちはよく解る。私でさえ酷く現実味が無い事なのだから。
「私も未だに信じられない事ではあるんですが、シエルによれば彼女にはいずれかの妖精王による制約の魔法が掛けられているそうですよ。殆どの妖精から彼女の存在を曖昧にする制約だなんて、どれだけ独占欲と執着心が強いのでしょうね」
そうして私は鞄の中から、彼女が触れたチューベローズの入ったガラス瓶を取り出す。それを出した途端、二人共に驚愕した表情でガラス瓶の中の花を凝視していた。
「この花、香水の原料だろ?香りだけじゃねぇ、これには『癒し』の力が付与されてやがる。しかもとんでもねぇ効果だぞ」
ジェロームが恐る恐るといった風にガラス瓶の蓋を一瞬だけ開けるのだが、それだけでぶわりと濃厚で官能的とも言える香りが広がる。
私にとっては研究対象として馴染みのある香りだが、香水の類を使わない彼には嗅ぎ慣れない香りだったのだろう。顔を顰めたかと思うと袖の長い聖衣で鼻と口を覆っていた。
「いや、これはもう強力な媚薬だな。こんなもん嗅いだ日には、どんな奴でも精魂尽きるまでヤりまくっちまうだろ。お前、なんてもん持ってんだよ!」
じとりとした目で此方を見ていた彼は、ハッとした表情を浮かべるとガタンと大きな音を立てて立ち上がる。
「おい、まさかこれあの嬢ちゃんに使う気じゃねぇだろうな!?成人前のあんな純粋無垢そうな子にだなんて犯罪だぞ!?」
「は?何馬鹿な事言ってるんですか。というかメラニーさんをそんな邪な目で見ないでください。穢れます」
花の効果は一目で解る癖に、見当違いな事を言いだす彼をじろりと睨みつければ、彼は未だ納得がいかない様子ではあったものの、そろそろとソファへと座り直す。そうして彼はがしがしと頭を掻きながら、胡乱気な視線を私へと向けた。
「いやだって、お前がここまで女に……女というか女の子だけどな。とにかく異性に気を使うだなんて初めてだろ?誰にでも優しく丁寧に接する癖に、お前は絶対に深いとこには入り込ませねぇ。そもそもオレのとこに連れてきた時点で特別扱いじゃねぇか。いつからの付き合いなんだ?」
「そうですね、メラニーさんとは出会って2日……いえ、日付が変わりましたから3日ですね」
実際は2日前には少し会話をしただけだから、実質過ごした時間は1日にも満たないだろう。その1日だけで、様々な感情を揺さぶられた気がするのだから恐ろしい子だ。
表情がころころと変わり、考えが顔に出る解りやすさも好ましい。それを思い出してつい口元が緩むのだが、ふと見ればジェロームがぽかんとした間の抜けた顔をしているのが目に入る。
「ジェローム、口が開いたままですよ。どうかしましたか?」
「どうしたもこうしたもねぇだろ。オレはお前のそんな表情は初めて見たぞ。出会ったばかりでここまで骨抜きにするなんざ、あの嬢ちゃんは魔法使いか魔性の女か!?」
「だから妖精の加護持ちだと言っているじゃないですか。このチューベローズも、メラニーさんが触れただけで――ルフレ?どうかしました?」
テーブルの上にあるチューベローズの入ったガラス瓶へと視線を向けた所で、私達のやり取りに口も挟まずにいたルフレがガラス瓶に触れたまま俯いた状態で居る事にようやく気付く。
その手は僅かに震えていて、いつもはっきりとした物言いをしている彼が、こんな風になるのは初めて見るのではないだろうか。
返事もしない彼を訝しみ、顔を覗き込んだ所でぎょっとする。
「ルフレ、まさか泣いているのですか!?」
「何!?おい、どうした!?お前が泣くなんて初めてじゃねぇか!?」
ジェロームが、慌てて彼の背を優しく撫でるのだが、マンダリンガーネットの瞳からはぽたぽたと透明な雫が溢れて止まらない。
「信じられない……こんな凄い『祝福』が出来るだなんて……間違いなく姫様だ……」
ぽつりぽつりと漏らされた『姫様』という言葉。そういえばシエルも彼女を『お姫様』と呼んでいたが、妖精にとって加護持ちは姫になるのだろうか。
それに『祝福』だ。シエルの話はジェロームが来た事で途中になっていたが、『祝福』とは一体何なのだろうか。
暫く涙を零していたルフレは、ようやく落ち着いてきたのか、ぐしぐしと涙を拭うと顔をあげた。
「……これを見たら、クロヴィスが言う通り、あの子と一緒に居るのは間違いなく姫様だって言えるよ。こんなに強い魂の残滓を感じるのに、姿を見られないだなんてぼくには拷問みたいだけどね」
あまりに悲壮感を醸し出す彼は、今にもシエルを問い詰めに行き兼ねない様子だ。これは慎重に話を進めねばならないだろう。
「ルフレ、君がメラニーさんを認識できる可能性と方法はありますから、それを教える代わりに少しだけ質問に答えて頂けますか?」
「っ……!解った。何が知りたいの?」
彼の瞳は切実そのものだ。それだけ彼ら妖精にとって、メラニーさんの存在は重要である事が窺える。
「まずシエルもメラニーさんを『お姫様』と呼んでいましたが、妖精の加護を受けた者は君達にとってどういう存在なのですか?」
「言葉通り姫様だよ。姫様はぼくたち妖精を創りだしたアベラ様の魂の欠片を持っているからね。ぼく達は姫様の傍に居るだけで幸せだし、何でもしてあげたくなるって訳」
自明の理だと言わんばかりに語られる言葉は、寝耳に水の事ばかりで理解が追いつかない。
妖精に愛されるからこそ加護を受けていると言われてきたが、それが生命の女神の魂を持っているからだなんて誰が思うだろう。
人よりも遥か原初から存在している妖精を創り出したのが生命の女神である事は神話では語られてきたが、多くの人はそれを御伽噺だと認識しているし、それはあまりにも途方もない事で人には真実を計り知る事なんて出来よう筈もない。
アベラ様をそこまで信じていない私でも驚いているというのに、大司教であるジェロームにとっては相当の衝撃だったのだろう。目を見開いたまま打ち震えていたかと思えば、その場に膝をついて天を仰いでしまった。
「アベラ様の魂の欠片だなんて、あの方はアベラ様の化身の様なものだって事か……?はは……オレはアベラ様の化身という尊い御姿を前にしてそれに気付かねぇだなんて何という不甲斐なさだ……」
「ぼくでさえ感じられないんだから、ジェロームが気付かないのは仕方ないよ。これからは姫様をアベラ様の如く敬えばいいんだから」
「あぁ……あぁ、その通りだな!そうと解ればこうしちゃおれん!」
彼は何を思い立ったのか、その場に勢いよく立ち上がると熱に浮かされているかの様に高揚した様子で拳を握り締める。
「あの方に何不自由なく滞在して頂けるように万策尽くさねばならねぇ!オレは準備に入るから、クロヴィス。お前は適当に過ごしとけ。行くぞ、ルフレ!」
「姫様の為なら喜んで協力するよ」
嵐の様に勢いよく飛び出していった二人を見送り、私は思わず頭を抱えると共に大きな溜息を漏らした。
正直、とても厄介な事になったのではないだろうか。
ジェロームとルフレの過剰な接待に困惑するメラニーさんの姿がありありと想像出来て、とても申し訳ない気持ちになってくる。
それと同時に、メラニーさんを知れば彼等も彼女を好ましく思わずにはいられないだろう事も予想がついて、何となく面白くない心地がするのだから実に厄介だ。
こんな感情、今まで誰にも感じた事がなかったというのに。
読んでくださってありがとうございます!
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次回はテオ視点の話になります。