5 夜に香る花
「メラニーさん、ここを登れば目的の花の群生地の筈です。もう少しだけ頑張れますか?」
差し出された手を息も絶えだえに掴めば、私の体は難無く上へと引っ張りあげられる。そこは少しだけ幅の広い岩場になっていたので私は堪らずその場にへたり込んでしまった。
ぜぇぜぇと浅い呼吸を繰り返す私に対して、クロヴィス様は息一つ上がっていない。見た目は細身だというのに、御本人の仰る通りとても鍛えているからこそ平然としていられるのだろう。
一方の私はといえば、今までの活動範囲は邸の周辺のみ。街に出る時には馬車だったし、特に鍛えるという事をしてこなかったから、圧倒的に運動能力が欠如している事にようやく気付いたのだ。
「足場になる岩があるとはいえ、この崖を登るのは貴女には少々きつかったですね。お水もありますから飲んでください」
「あ……りがとう……ございます……」
お水の入った皮袋を受け取り、少しだけ喉を潤すとようやく人心地がついた。
「私、もう少し体を鍛える事にします……こんなに体力がなかったなんて……」
「普通のお嬢さんよりはかなり頑張ったと思いますよ。でも次からはもう少し動きやすい格好の方が良さそうですね」
「はい……」
ここまでの行程でよれよれになったワンピースは、かなり薄汚れてしまっていた。こんな山の中では他に見る人もいないのでいいけれど、この姿で街に戻ればかなり目立ってしまいそうだ。次は汚れが目立たない色にした方がいいだろう。
私はふーっと大きく息を吐き出すと、ぐっと足に力を込めて立ち上がる。
「もう大丈夫です!先を急ぎましょう!」
「本当に大丈夫ですか?もう少し休憩しても構いませんよ?」
クロヴィス様は気遣わしげに私を見るけれど、時刻は既に夕暮れだ。夜になってからこの崖を登る方が危険だろう。
「目的地も見えていますし、明るいうちに花の姿を見たいのですもの」
「確かに昼と夜ではあの花は感じ方が違いますからね。では、後少し頑張りましょうか」
彼は優しく微笑むと、身軽な動作で次の岩へと飛び移る。ここまで登ってきた事で高さがある為、下を見ると身が竦みそうになるのだが、私の方へと笑顔で手を差し伸べるクロヴィス様を見ていると不思議と怖さは和らいでいくように感じていた。
そうしてどうにか崖を登りきり、私は目の前に広がった光景に目を丸くする。
「う……わぁ……!凄い……!」
夜の色の方が濃くなった夕焼けの中で、風に揺れていたのは一面の白い花だ。花弁は6枚で、それが穂の様に連なって咲いている。
花自体の美しさよりも強く感じるのはその香りの良さだ。なんとも言えない異国的で甘く濃い香りが、風に揺れるたびに体を包み込んでくれている様に感じる。
「良い香りでしょう?『ボヌール』にも原料の一つとして使用されているチューベローズです。寒さに弱い花ですが、フィエルテ公爵領は年中温暖な地域ですからこの地に適した花と言えるでしょうね」
「これがチューベローズなんですね。実物を見るのは初めてなのですけれど、香水にしなくてもこんなに豊かな香りだなんて……」
チューベローズはローズと名がついているが薔薇とは関係なく、リュウゼツラン科に属する多年草だ。その香りが豊かな事だけは図鑑を見て知っていたけれど、実際に嗅いだ事は無かったのでなんだか感動してしまう。
そっと花の一つに触れると、ぶわりと更に香りが強くなったみたいだ。それは濃厚な香りに酔ってしまいそうな程に強く、思いがけず少しだけ咽せてしまう。
「あの……なんだか最初より香りが強くなっていませんか?自生しているものだからでしょうか?」
「チューベローズは昼間より夜の方が香りが強くなるとは言われていますが……私もここまで香りが強いものは初めて見ました」
困惑してクロヴィス様の方を見るのだが、彼も驚いた様子でその視線は私の触れたチューベローズへと注がれている。その瞳は明らかに嬉々とした興味に彩られていた。
「これはもしかすると変異種かもしれませんね。いくつか採取していきましょうか」
彼は鞄からいくつかのガラス瓶とナイフを取り出すと、チューベローズの花を手慣れた様子で切り取り、瓶の中へと収めていく。私はその瓶を受け取ってラベルに採取した順番を記していく係だ。
比較対象として少し離れた位置にあるチューベローズの花もガラス瓶に収めていけば結構な数になっていた。
「ふむ……これくらい採れば比較には十分でしょう。後は邸に戻ってから解析すれば何か解るかもしれません」
「それにしても、クロヴィス様の鞄は見た目よりも容量が多いのですね。こんなに沢山のガラス瓶が入っていたなんて思いませんでした」
「あぁ、それはですね――」
その時、私達が登ってきた崖の方からこつんと小石が落ちる様な音が響いた。小動物か何かだろうかと顔を上げた私とは裏腹に、クロヴィス様の表情は見るからに緊張している様だった。
「やはり気のせいではありませんでしたか……」
ぽつりとそう漏らした彼は、崖のある方から私の姿を隠す様にその身を移動させる。視線はそちらへと向けたまま、声を潜めた。
「メラニーさん、落ち着いて聞いてください。どうやら私達は尾行されていた様です」
「えっ!?」
「貴女が泊まっていた宿屋の周囲でも感じていた気配です。街中では人も多いですから気のせいかもしれないと思ったのですが、こんな山の中まで追ってくるとなると……」
そう言われると、宿屋の近くでクロヴィス様が一瞬だけ眉を顰めていた気がした事を思い出す。私は全く気付かなかったけれど、あの時には既に何者かが私達の様子を伺っていたのだろうか。
「で、でもどうして尾行だなんて……」
「考えたのですが、貴女のお父様の借金の清算には問題はなかったですか?お人好しのメラニーさんが誰かから恨みを買う事はなさそうですし……」
あの父がどれだけの借金をしたのかは解らないけれど、リシェス男爵は邸と領地、爵位を得て十分満足していた様に見えた。何か問題があった様には思えなかったのだけれど。
「借金のお相手の方に私もお会いしましたけど、荷物を纏めるのに3日も待ってくださいましたし、私に花を売ってみないかとこれからの仕事の提案までしてくださいましたから、問題は――」
「ちょっと待ってください。今、何を売ると……?」
私の話を遮り、クロヴィス様は物凄い剣幕で聞いてくるのだから驚いてしまう。なんだかそれがお説教をする前の家庭教師の表情にそっくりで、妙に後ろめたい。
「えーと……その、花、です。仕事がなければ、その方のお店で花を売ってみないかと言われたんです」
何が悪いのか解らず、ぼそぼそと言うのだが、彼は露骨に顔を顰めると、頭を抱えて俯いてしまう。ふーっと大きな溜息も漏れた。
「……貴女はその意味を真実理解していますか?」
「えっ?あの……花、ですよね?ここにも咲いている花の事でしょう?それを聞いて私は王都でお花屋さんを開いて、皆に笑顔になってもらえたら素敵だなと思ったのです……」
クロヴィス様は植物学者様だし、お花屋さんの夢を非難する事はないと思い込んでいたけれど、この反応は実は反対だったのだろうか。
なんだかしょんぼりとした気持ちになっていれば、優しく頭を撫でられる感触に少しだけ視線をあげる。彼はもう怒っている様子はないものの、何とも言えない表情で苦笑を漏らした。
「あぁ、貴女に怒っている訳ではありませんよ。既に騙されそうになっていた事への危機感と、素直な貴女に卑劣な提案をしたその者への憤りはありますけどね」
「リシェス男爵は、確かに少し苦手な感じはしましたが、卑劣な方ではありませんでしたよ?」
「成程……あのクズ男でしたか……」
常にある春の陽だまりみたいな温かな雰囲気とはかけ離れた、苦虫をすり潰した様な表情に目を丸くするのだが、彼はそれを抑え込む様にいつもよりも念入りな微笑みを浮かべた。
「大体の事情は理解しました。それならばすぐにでも安全な所に移動しましょう」
そう言うや否や、彼は私の手をぐっと掴む。驚く間もなく、彼はそのまま虚空を見上げた。
「シエル!」
クロヴィス様がそう叫んだ瞬間、見上げていた虚空はぐにゃりと歪み、眩い光が降り注ぐ。その眩しさに一瞬目を瞑るのだが、次に目を開けた時にはそこは既に先程までいたチューベローズの群生地ではなかった。
見上げる程に高い天井付近の壁には美しい装飾のステンドグラスが輝き、月の光を受けて煌めいている。その光の中で慈愛に満ちた表情をした生命の女神アベラ様の像が厳かに鎮座している所を見ると、ここはどこかの神殿なのだろう。
一瞬で違う場所に移動しているだなんて俄には信じられず、きょろきょろと落ち着きなく辺りを見渡す。これは本当に現実なのだろうか。
「あの……クロヴィス様、これは一体――」
「んもぅ!クロヴィス、あんたどうしてあたしをもっと早く呼ばないのよ!この鈍感!もじゃもじゃ!」
甲高い少女の声にびくりとして振り向けば、そこには金糸と銀糸が入り混じった美しく長い髪に鮮やかなラズベリーの様なルベライトの瞳をした美少女が居た。その美しい容姿も目を引くが、何よりも驚いたのは彼女には淡く光る羽があり、ふわふわと宙に浮いていた事だ。
彼女はその可愛らしい頬をぷっくりと膨らませ、ぽかぽかとクロヴィス様の頭を叩いていた。
「痛いですよ、シエル。そんなに叩いたら貴女が気に入っている私の顔は酷い事になってしまいます」
「少しも痛いなんて思ってない癖によく言うわよ!本当にあんたはその性格をどうにかなさい!」
「あぁ、成程。妖精は自分に似た者を好むと言いますからね」
「んもぅ!そういうとこが可愛くないって言ってんのよ!」
ぽんぽんと繰り返される言葉の応酬に、私はぽかんと惚けた様に見詰めていたのだが、シエルと呼ばれた妖精さんの視線がクロヴィス様から少し逸れて此方へと向く。
正面から見ても本当に美しい妖精さんだ。絵本に描かれていた妖精王にも負けていないのではないだろうか。
そんな彼女は私を見てみるみるうちに目を丸くし、ぴゃっと可愛らしい声をあげて飛び上がるとクロヴィス様の後ろに隠れてしまった。きっとクロヴィス様しかいないと思っていたのに、私が居たものだから驚かせてしまったのだろう。
「驚かせてしまってごめんなさいね、妖精さん。私、妖精さんに会うのは初めてなのだけれど、とっても美しくて可愛らしくて見惚れてしまったわ」
安心させる様に笑顔を向けるのだけれど、クロヴィス様の肩越しに覗かせた妖精さんの顔はとても驚いた表情のままだ。
「シエル、貴女が驚くだなんて珍しいですね。こちらのメラニーさんは私の助手に雇うつもりの方です。メラニーさん、この子はシエルといって私と契約している時空の上級妖精です」
「まぁ!上級妖精さんだったなんて!どうりでとっても綺麗な筈だわ。しかも時空の妖精さん……それで一瞬でここまで移動出来たのですね」
時空の妖精は時と空間を司っているから、それで空間を繋げて移動する事が出来たのだろう。恐らくクロヴィス様の鞄の容量が凄かったのもこの妖精さんの力が働いているに違いない。
「シエルちゃんと呼んでも大丈夫かしら?」
妖精さんは気に入った人以外には冷たいというけれど、こんなに綺麗な妖精さんとは是非とも仲良くなりたい。
一度驚かせてしまったから今度は慎重に少しずつ彼女に近付いていくものの、彼女の宝石みたいな瞳は溢れそうなくらい大きく見開かれたままだ。
どうやら物凄く警戒させてしまっているらしい。
「な……なななな……」
「シエル?まさか震えているのですか?」
クロヴィス様は気遣わしげに彼の肩を掴んでいるシエルちゃんに触れようとするのだが、そんな彼の手は彼女におもいっきり叩かれてしまった。
「だからクロヴィスは鈍感だっていうのよ!嘘でしょ……なんで解らないのよ……!」
ぎゅっと握り締めた彼女の手は小刻みに震えている。もしかして驚かせただけではなく、怖がらせてしまっているのだろうか。
「ごめんなさい、私のせいね。これ以上は近寄らない様にするわ」
やはり彼女は契約者以外の人とは関わりたくないのだろう。とても残念な気持ちのまま後退ろうとするのだが、そんな私の様子に気付いた彼女はハッとした表情を浮かべると勢いよく私の方へと向かってくる。
この勢いでは受け止められるだろうかと少し身構えるのだけれど、ぶつかる直前でその勢いは急速に緩み、体はふわりとした温かな感触に包まれた。
「離れないで!あたしはずっとあなたに会いたかったわ!」
ぎゅうっと抱きついてくるシエルちゃんの温もりと優しい光は、何故だかとても懐かしく感じた。
読んでくださってありがとうございます!
作者のやる気に繋がりますので、面白かったと思って頂けたら下にある☆を押して評価やブクマを宜しくお願いします!