35 仮面舞踏会3
舞踏会におけるバルコニーの役割は、人混みに疲れた人々の息抜きの場であったり、恋しい男女の密会の場であったりと様々だろう。
けれどまだダンスが始まったばかりのタイミングでもあったから、こちら側のバルコニーにはまだどなたもいらっしゃらないみたいだ。
「……誰もいない様ですし、ここでなら大丈夫そうですね」
バルコニー入口のカーテンを下ろしてしまえば、大広間からこちらの様子は見えない。それを確認すると、クロヴィス様はそっと仮面を外された。
仮面をしていたからか、いつもかけられている眼鏡は今日は外されてきたみたいだ。なんだかそれだけで、いつもと違う人に見えるのは、きっと隠し事をされていたという思いからそう見えてしまうのかもしれない。
「貴女には散々私を警戒する様に言ってきましたが、そんな目で見られるのは流石にきついものがありますね」
彼は私の仮面に手を掛け、そっと取り去ったかと思えば自嘲する様に小さく苦笑を漏らす。その表情は、とても哀しそうに見えた。
「なら、どうして私には教えてくださらなかったのですか……?クロヴィス様は……本当は貴族だったのでしょう?」
それを言うなら私だって元々は貴族だったという事を言えていないのだからお互い様だ。だというのに私だけがこんな風にクロヴィス様を責めるだなんて間違っているという事も十分解っている。
解っているというのに、言葉は止められずに私の口から溢れていく。
「別に私はクロヴィス様が貴族だろうと平民だろうと気にしません。ただ、隠し事をされていた事が思いのほか辛くて……悲しくて……」
ぽろりと涙が一筋溢れてしまえば、堰を切った様に涙はぽろぽろと溢れて止まらない。涙を拭おうとする前に、私の体を優しい温もりが包み込んだ。
「貴女ならそう言ってくださるのだろうと解ってはいても、言い出せなかったのは私自身、貴族である事に息苦しさしか感じていなかったからなのです。私はずっと、この身に余る身分から解放されたくて堪りませんでしたから」
触れていた温もりは少しだけ離れ、私の目から溢れる雫を親指で拭う彼の顔は、息がかかるくらいに近い。泣いているのは私の方だというのに、彼の方が余程泣いているみたいな表情だ。
「……長い話になってしまいますが、聞いてくださいますか?」
懇願する様な声に、私はこくりと小さく頷く。彼は少しだけ目元を緩めると、その視線はバルコニーの外へと向けられた。
「以前に私の実家は息苦しい場所だと言ったでしょう?私の生家は、東の神殿がある領地を治めるアドレ伯爵家です。私の正式な名前は、クロヴィス・アドレ……前アドレ伯爵と伯爵夫人の第一子、それが私なのです」
「それじゃあジェロームと幼馴染というのも……」
「ジェロームはゆくゆくは教皇になるだろうと生まれた時から言われていましたから、東の神殿がある領主の息子として、同年代の私が友人に選ばれたのですよ。それだけはあの家に生まれて良かった事だと言えるでしょうね」
それだけが良かった事だなんて、クロヴィス様にとって伯爵家とはどれだけ生き難い場所だったのだろうか。学者としての生き方を認めてもらえないと仰っていた事からもそれが窺える。
「私の両親は家同士の利益の為の政略結婚でした。父上には他に愛する人がいて、母上の事は愛してなどいませんでしたが、不幸な事に母上はそんな父上を愛していたのです。そんな満たされない愛の矛先はどこに向けられると思いますか?」
「そ、れは……」
考えるまでもなく、そういう場合は得てして愛情を受けている人へと向かうものだろう。そうする事で余計に愛は遠ざかっていくと解りそうなものだというのに、そういう正常な判断ができないのもまた愛ゆえなのかもしれない。
「結果として、父上にとって母上だけでなく、母上の血をひく私まで疎ましい存在となりました。私はあの家にいて家族の愛情というものを感じた記憶がないのですよ。私はずっと……貴族の身分も何もかも捨てて、あの家から逃げ出したかったのです」
力無く笑うクロヴィス様の姿に、胸が締め付けられる様な苦しさを感じる。クロヴィス様にはいつだって春の陽だまりみたいなあの笑顔で笑っていてほしいのに。
そう思えばこそ、私の瞳からはまたぽたりぽたりと涙が溢れてしまい、自分でも止められない。そんな私の背をクロヴィス様は優しく撫でてくださるのだけれど、頭上からは苦笑が漏れた。
「この話をすれば、優しい貴女ならきっと泣いてしまうのだろうと思っていました。でも隠していても泣かせてしまうのでしたら、もっと早くお話しすれば良かったですね」
「どうしてそんなに……クロヴィス様はお優しいのですか……」
「何を仰っているのですか、優しいのは人の痛みや悩みに寄り添える貴女の方ですよ。それに私は然程優しい人間ではありません。義務から逃げる様な自分勝手な男ですしね」
自嘲を漏らされる彼の手を掴み、私は何度も首を横に振る。
私を信頼していなかったからではなく、私が気に病まない為の隠し事だったというなら話は全く違ってくる。私を慮るその優しさを他ならぬクロヴィス様自身に否定されるだなんて、そんな事はあまりに悲しい。
私が知る限り、クロヴィス様は出会った時からずっとお優しいのだから。
「クロヴィス様がどう思われていても、私にとっては最初からずっとお優しい方なのですから、どうか卑下なさらないでください」
「……本当に、私は貴女が思う様な優しい男ではないのですよ。そもそも私が貴女にどれ程浅ましい想いを抱いているのかを知ったら、その様な事はきっと言えないでしょう」
そうして私の手を取り、じっと見下ろすクロヴィス様は、私の涙を拭う様に目元へとその唇を寄せられた。ちゅっと音を立てて触れる温かな感触に、びくりと体は震える。
繰り返される啄む様な口付けに、いつしか涙は止まり、訪れたのはなんとも言えないもどかしさだ。唇が触れるのは、涙が溢れた目元や頬だけだったから。
されるがままの私に対して、クロヴィス様はほんの少しだけ顔を離されると、苦笑混じりの溜息を漏らされる。
「……どうしていつも貴女は私を拒まないのですか?出会った時もそうでした。こういう時は拒まなくては、愚かな私は勘違いしてしまいそうです。貴女も私と同じ想いではないのかと」
「私が拒まないのは、クロヴィス様だからです。私だって、クロヴィス様以外の方だったら拒みますよ。あなたのされる事だから、私はなんだって受け入れているのです」
仕返しとばかりに、私は繋がれた彼の手にそっと口付ける。クロヴィス様は一瞬びくりと手を震わせていらっしゃったけれど、払い除ける様な事はされなかった。
けれどそれきり何の反応もないのでどうしたのかしらと顔をあげれば、彼の頬は夜目にも真っ赤に染まっているのがはっきりと解り、私は目を丸くする。
クロヴィス様が私にされた事の方が余程恥ずかしい事だったと思うのだけれど、まさか私が手に口付けただけでこんなにも動揺されるとは思いもしなかった。
「まぁ!クロヴィス様、もしかして照れてらっしゃるのですか?」
「っ……!どうして貴女はそうなのですか!?本当に、私は貴女と出会ってから調子が狂う事ばかりですよ……」
「でも、私はクロヴィス様と出会えてから楽しい事ばかりですよ?ですから、これからもずっとお傍にいさせてくださると嬉しいです」
「は……?」
にっこりと微笑む私とは裏腹に、クロヴィス様は目を丸くして固まってしまわれる。ややあって彼は目頭を指で押さえながら、大きな溜息を漏らされた。
「…………待ってください。私の勝手な解釈で、勘違いでしたらとんでもない自惚れで死にたくなりそうなのですが、私はもしかして、今、メラニーさんからプロポーズをされていますか……?」
「ふふっ、自惚れではありませんから、安心なさってください」
そう言うや否や、クロヴィス様は先程よりも大きな溜息をついてその場に蹲ってしまわれるものだから、私も慌ててしゃがみ込む。
「ど、どうされたのですか!?まさか私がはしたなくて呆れてしまわれましたか?」
「そんな事は全くありませんよ。ただなんというか、まさかこんな事になるだなんて思いもせず……本気で仰っているのですか?」
ちらりと私を見上げるクロヴィス様の目は妙に疑わしげだ。私はぐっと拳を握り締めて、彼の瞳を真っ直ぐ見詰める。
「勿論です!だってクロヴィス様は以前、私の事を考えると笑顔になれると仰っていましたよね?私もクロヴィス様の陽だまりみたいな笑顔が大好きですから。それなら私がずっと傍にいないと、でしょう?」
クロヴィス様のご家族の話を聞いたら余計にそう思ったのだ。あんな哀しそうな顔をこれ以上させたくはないし、クロヴィス様にはずっと笑顔でいてもらいたい。愛しいという感情を感じてもらいたい。
そのためにどうするのが一番良いのか。
にこにこと笑顔の私に対し、クロヴィス様は大きく息を吐き出された後、くしゃりと少しだけ困った様な、はにかんだ様な笑顔を浮かべられた。
「本当に貴女という人は……でもそんな貴女だからこそ、私は惹かれてやまないのでしょうね」
そうしてクロヴィス様は私に対して、私が大好きな春の陽だまりみたいな笑顔を向けられると、深々と頭を下げられた。
「私の方こそ至らぬ所が多いでしょうが、宜しくお願い致しますね。実は貴族の身分を捨ててきましたから、何かと苦労をかけてしまうかもしれませんが……」
「え?それはどういう……」
小首を傾げる私を見て、彼は小さく笑みを漏らされる。その表情は長年の重荷を下ろした様な、すっきりとしたものだった。
「アドレ伯爵家は私の異母弟が継ぐ事になりましたから。今夜の舞踏会は、私が貴族として参加する最後の舞踏会です。だからこそ、最後に貴女とここで踊りたくてあの様な形で真実を晒す事になってしまいましたが、まさかこんな事になるとは私も全く予想していませんでしたよ」
「それではもしかして、今後はアカデミーで……?」
「えぇ、幸いな事に講義も評判が良いものですから。勿論現地での調査活動も続けていくつもりです。……メラニーさんは、伯爵夫人ではなくて、ただの学者の愛する妻では不満でしょうか?」
上目遣いに私の様子を窺うクロヴィス様に、私はふるふると震えると、耐えきれずにはしたなくもがばりと抱きついてしまう。
「不満な訳ありません!私が好きになったのは、ただの学者のクロヴィス様ですもの!」
クロヴィス様も最初は驚いた様子だったけれど、ややあって控えめにぎゅっと抱き返してくださった。
触れ合う温もりは心地良くて、愛おしくて、泣きたいくらいに幸せだった。
この後、あんな事になるだなんてこの時の私は想像もしておらず、ただ目の前の幸せを噛み締めていたのだ。
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次回はテオ視点の話になります。




