3 妖精の加護
「次の王都方面行きの乗合馬車は三日後に出発だよ」
翌日、宿屋の女将さんに教えてもらった乗合馬車が出ている場所に来たものの、次の出発までまだ三日もあるという。
「予約も出来るけど、お嬢さんはどうする?」
「ではそれでお願いします」
とりあえず三日後の馬車を予約して、宿屋はその日まで連泊する手続きを済ませてしまえば、この三日間は本当に自由時間という事だ。
「何も予定が無いというのも久しぶりすぎるわね。まずは何からしようかしら」
初めての他領の街だし、全ては目新しい物ばかりだ。美味しい物も食べたいし、お店を見て回るだけでもきっととても楽しいだろう。
昨日少し覗いた市も珍しい物が多かったのだけれど、貰ってしまったフロックスの花が萎れてしまうのは忍びないと早めに宿屋を探しに行ったからまだじっくりと見られていない。
他にもこの街には至る所に様々な花が植えられている事もあり、散歩しながらそれらを見るのも楽しそうだ。
「うーん……なんだかやりたい事もたくさんあるし、三日では少なかったかもしれないわ」
宿屋の二階にある部屋で外出する準備を整え、窓を開ける。賑やかな人々の喧騒と、心地良い風が髪を揺らす中、何処からか香る甘く優しい香りはピオニーだろうか。幾重にも花弁を重ねた美しいピオニーの姿を思い浮かべながら、どこに咲いているのかと眼下を見渡していた時だった。
「あっ!学者様!」
宿屋に近い路地を昨日会った彼が歩いているのを見つけ、思わず声をあげる。私の声に気付いたのか、彼はきょろきょろと辺りを見渡しているのだが、何処から呼ばれたのかが解らなかった様だ。
「上です、上!」
「えっ……?あっ!貴女は昨日の……」
「今からそちらに急いで参りますから、少しお待ち頂けますか?」
そう言うや否や、私は彼の返事も待たずに窓を閉めると部屋を飛び出した。彼は暫くこの周辺の植物の調査をしていると言っていたから、今日もきっとどこかに行くに違いない。
街の探索は明日でも出来るけれど、学者様の調査に同行できる機会だなんて滅多にない。昨日の今日で偶然出会えるだなんて、これはもう運命なのではないだろうか。
(もしかしたら図鑑でしか見た事がない珍しい植物を見られるかもしれないわ!)
浮き立つ気持ちを抑えながらも、宿屋の女将さんに出掛ける事を告げて外へと向かう。彼は私の言葉通りにその場で待っていてくださった様で、駆けてくる私の姿を見てくすりと笑みを溢した。
「本当に急いでいらっしゃったのですね。そんなに走らなくても私は逃げませんよ」
「慌ただしくてすみません!まさか学者様にまたお会いできるとは思いませんでしたから、この機会を逃さない様にしなくてはとつい心が急いてしまったのです」
少し上がった息を整えながら笑顔を向ければ、彼は優しく目元を細める。やはり春の陽だまりみたいに温かい笑顔だ。
「今から植物の調査に行かれるのでしたら、ご一緒させて頂けないでしょうか?邪魔にならないように致しますから」
「これは驚きましたね。貴女の年頃なら買い物をする方が楽しいでしょうに、その上――」
彼は少しだけ口の端を上げると、すっと手を此方へと伸ばし、私の髪を一房掬いあげる。
「昨日会ったばかりの殆ど知らぬ男と、進んで二人きりになろうとされるだなんて些か不用心では?」
そのまま流れる様な動きで髪に口付けが落とされるのだが、それがあまりに様になっていて、私はつい惚けた様に眺めてしまった。そんな私の表情に、彼は一つ大きな溜息を漏らすと、少しだけ眉尻を下げる。なんだかとても心配そうな表情だ。
「……貴女は本当に……いいですか、見知らぬ男にいきなりこんな事をされたらすぐに拒まなくてはいけませんよ。そんな感心した表情をするのではなく」
「あまりに自然なので、つい見惚れてしまいました……!学者様はいつもこの様な事を……?」
「していませんよ?これは貴女があまりに無防備で、なんだか放っておけず……はぁ、どうにも調子が狂いますね」
やはり王都から来た大人の男性は動きも洗練されているし、まだ冒頭しか読めていないけれど、モニクが持たせてくれたロマンス小説みたいだと思ったのだ。
けれどどうやら彼は私への忠告を、その身をもってしてくださったという事らしい。彼こそ会ったばかりの私にそんな事をしてくださるだなんて、とても優しい方に違いない。
なんだか嬉しくなってにこにことしていれば、彼は半ば諦めた様な溜息を漏らした。
「そもそも私達は名も知らぬ仲なのですよ?それだというのに貴女は何故そんなに嬉しそうに笑っていらっしゃるのか……」
「あ!申し遅れました、私はメラニーです。学者様のお名前を昨日聞きそびれてしまって残念に思っていましたから、お聞かせくださいますか?」
もう貴族ではないので、淑女の礼はとらずにぺこりと頭を下げる。あまり慣れていないので少しぎこちなかったかもしれないけれど、幸い彼は特に気にした様子はなく、ふわりと優しく微笑んだ。
「成程、そうきますか。……私はクロヴィスです。これで私達は名も知らぬ仲ではなくなりましたね、メラニーさん」
「はい!宜しくお願い致します、クロヴィス様」
笑顔を交わした後、クロヴィス様は少しだけ視線を逸らし眼鏡の位置を直される。眉を顰めた気がして小首を傾げれば、彼は何でもないという風に首を横に振った。
「いろいろと気掛かりな事はありますが、気のせいかもしれませんし、とりあえず移動しましょうか」
「今日は何の調査に行く予定なのでしょう?」
「ふふ、それは行ってみてのお楽しみにしましょうか。とても香りの良い花ですよ」
彼は悪戯っぽく微笑むと、私が声を掛ける前に進もうとしていた路地を進み始める。少しだけ後ろをついていくのだけれど、私に合わせてゆっくりと歩いてくださっているのだからやはり優しい方だと思う。
「そういえば昨日の荷物からすると、メラニーさんは旅の途中なのでしょうか?このフィエルテ公爵領は初めてですか?」
「はい、昨日隣のトレランス子爵領から出て来たばかりでして、実はフィエルテ公爵様が外務大臣をされていらっしゃる事以外は何も知らないのです」
フィエルテ公爵様は王都から遠く離れた領地に居た私でもその噂を耳にする程の、かなりの辣腕家だという。我が国が現在、近隣諸国と友好的な関係を築けている事もフィエルテ公爵様の外交力の賜だろう。
「確かに公爵様は大変優れた御方ですが、本当に得難き存在だったのは1年半前に亡くなられた公爵夫人の方なのですよ」
1年半前といえば丁度テオと出会った頃だ。あの頃の天使の様な彼の笑顔を思い浮かべながら、私はクロヴィス様の話に耳を傾ける。隣の領地ではあっても、格上の公爵家とは交流は無かったし、公爵夫人の話は聞いた事も無かった。
「公爵夫人はどんな方だったのですか?」
「とても美しい方だったそうですよ。見た目だけではなく、領民を心から慈しむお優しい方だったそうです。しかも彼女は男爵令嬢だったのですが、そんな彼女にベタ惚れした公爵様が必死に口説き落として夫人にされたとか」
「まぁ!恋愛結婚だったのですね!」
政略結婚が多い貴族の、しかもフィエルテ公爵様は王家の親戚筋で確か王位継承権もある様な御方の筈だ。そんな方が身分がかなり下の令嬢と恋愛結婚で結ばれるというのはかなり珍しい。それこそまるでロマンス小説の様だ。
そう考えた所で、彼女が既に亡くなっているという事実に気付きハッとする。
「それでは、フィエルテ公爵様はとても悲しまれたでしょうね……公爵夫人をとても愛してらしたでしょうから」
ふとお母様を亡くされた時のあの父の姿が蘇る。今の領地の姿を見るに、公爵様は公爵夫人を亡くしてからも悲しみに押し潰される事はなく、しっかりと働いておられるのだから本当に尊敬できる御方なのだろう。あの父にも、それくらいの気概があれば良かったのだけれど。
「当時はとても気落ちされたそうですが、お二人には最愛の一人息子がいましたし、公爵夫人が遺した香水の香りが悲しみを癒してくれたそうですよ」
「香水……もしや、公爵夫人は調香師だったのでしょうか?そういえばこの街には良い香りの花も多い様な……」
窓を開けた時に感じたピオニーの花の香りもそうだが、この街に着いてからずっと優しい香りに包まれている感覚がしていたから。
そんな事を思い出していれば、彼はとても満足そうな笑顔を浮かべて頷いていた。
「その通りです。彼女はとても優れた調香師であり、しかも『妖精の加護』を受けた特別な調香師でした。実は公爵領の特産品は優れた香りの花や薬草が主なのです」
そう言いながら彼は懐から大事そうに美しい装飾が施されたガラスの香水瓶を取り出す。
「メラニーさん、手を前に出してみてください」
「まさかそれ……!」
話の流れからすると、彼の持つ香水こそが公爵夫人が調香した貴重な香水に違いない。期待に胸を弾ませながら手を差し出せば、手首の辺りにそっと香水が吹き掛けられる。
ふわりと香る優しい香りは、それだけでとても心地良く幸福な気持ちになる様だった。心なしか少しだけ元気になった気もする。
「わぁ……!凄い!とても幸せな気持ちになる香りですね!いろんな花の香りが優しく調和してます」
「この香水の名前は『ボヌール』といって、文字通り幸福な心地になる香水なのですよ。妖精の加護が掛けられていますから、香りを纏った者にささやかな幸福を呼び込み、微弱ながら回復効果まであるのですから、公爵夫人は本当に得難い存在だったと言えるでしょう」
『妖精』という存在はとても気紛れだと言われているが、気に入った人にはとても好意的なのだという。
私はまだ見た事がないのだけれど、運良く妖精に遭遇して気に入られ、契約する事ができれば、魔法で契約者を手助けしてくれる様になるのだとか。中でも特に妖精のお気に入りとなれば、契約をしなくても妖精の方から積極的に手助けしてくれるらしく、それこそが『妖精の加護』と呼ばれるものだという。
妖精には水や炎、風、緑といった自然を司る者から音楽や絵画など芸術を司る者、時空を司る珍しい者までその種類は様々らしい。
彼等は力の強さで上級、中級、下級に分類され、それは妖精の見た目にも影響しており、力の強い者程体は大きく、見目も麗しいのだという。
そして上級妖精の上にはそれぞれを司る妖精王がいると言われているのだが、それはもう御伽噺の様な存在だ。
私も幼い頃にお母様が読んでくださった絵本で妖精王が描かれたものを見た事があるけれど、そういえばお母様は私がもう少し大きくなったら妖精の事を詳しく教えてくださると言っていた事を思い出す。結局突然の馬車の事故で、それを聞く事はできなかったけれど。
(お母様は妖精の事に詳しそうだったけれど、もしかしたら妖精と契約していたのかしらね……)
お母様の事を思い出すと、正直まだ少し胸は痛む。
それを誤魔化す様にもう一度手首に残る香りを嗅げば、その面影の代わりに私に笑顔を向けるテオの姿が思い出されて、胸の痛みは幸せな思い出に塗り替えられた気がした。
読んでくださってありがとうございます!
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