閑話 心の在処
「お帰りなさいませ、クロヴィス様」
恭しく頭を下げる執事のセヴランに、私はつい苦笑を漏らす。彼とて私がこの家に帰ってくる事を望んでいない事は知っているであろうに、なんとも皮肉なものだ。
「あぁ、母上はまた父上の書斎ですか?」
「はい。大旦那様がお亡くなりになられた事は、大奥様は未だ受け入れられていない御様子です」
「そうですか……それではとりあえず書斎に顔を出してから執務室に篭ります。食事もそこでとりますから、何か摘みやすい物を用意しておいてください」
「畏まりました。料理長には少しでも栄養のある物をと言っておきます」
栄養のある物だなんて、そんなに私は疲れている様に見えるのだろうか。
定期的にここに戻らざるを得ないものの、確かにあの母上の相手をするのは正直しんどいものがある。恐らくそれを見越しての事だろう。
セヴランは仕事もできるし、私の様な半端者でなく弟の様な正統な後継者に仕えるべきだ。だか弟は未だアカデミーに通う学生であり、暫くは私が当主を代行するしかないのが現状なのだ。
気分的に薄暗く感じる廊下を通れば、侍女達は膝を折って決して顔をあげる事もない。下げたその顔がどれだけ私を蔑んでいようが知りようもないのだ。
ここは昔からどこか余所余所しく、息が詰まる。生まれてからもうずっとだ。
今はもう主を亡くした書斎の前に辿り着くと、私は呼吸を整える。軽くノックをすれば、聞き慣れた母上の声がした。
「クロヴィス!ようやく戻ったのですね!父上も貴方の事を大層心配していましたよ」
私の顔を見るなり駆け寄ってくる母上のきつい香水の香りに、少しだけ顔を歪める。
美しく着飾ってはいるが、目の下の隈は化粧でも隠しきれない程だ。夜中もよく眠れていないのだろう。父上が亡くなってから既に3年が経とうとしているというのに、母上は未だ父上が御存命の虚構の世界を生きておられるのだ。
それも彼女が理想とする都合のいい世界だ。実際の父上は私の学者としての活動にいい顔はしていなかったし、心配した事すらないだろう。
「貴方は長子で真実父上の子なのですから、学者などしてふらふらとしていないで、後継者としてもっとしっかりしなくてはなりませんよ。間違ってもあの女の息子に負ける様な事は……」
「母上、ファビアンは私より余程――」
弟のファビアンの方が余程後継者に相応しい。その言葉はこの状態の母上に言った所で意味はないと、ぐっと言葉を飲み込む。
父上は私の母上を正妻に迎えはしたものの、それは政略としてのみで愛してなどいなかった。母上もそうなら良かったけれど、母上は父上を心底愛していて、その恨みは父上が真実愛していた愛妾――ファビアンの母親へと一心に向けられてしまったのだ。
母上はファビアンの母親に対して陰湿な嫌がらせを繰り返し、それがまた父上の不興を買って疎まれる事の繰り返しだった。しかも嫌がらせは私が5歳の時にファビアンが生まれた事で、より一層激しさを増していた。
父上は母上を蛇蝎の如く嫌い、その感情は息子である私にも向けられていた。父上から温かい言葉をかけられた記憶も、頭を撫でられた記憶も全くない。
私と母上は父上の見せかけの家族にしか過ぎず、彼が愛する家族はファビアンの母親とファビアンだけだったのだ。
そんな関係を幼心に理解した私は、たとえ長子だろうが父上が指名する後継者はファビアンだろうと考えた。伯爵家の後継者としての教育よりも自分が好きな植物の勉強にのめりこみ、この邸でも外でも笑顔の仮面で本心を隠した。
息苦しい日々の中で、植物の勉強だけが私の心の拠り所だったのだ。
『そんなに苦しいなら逃げりゃいいじゃねぇか』
そんな幼い私にそう言ってくれたのは、神殿で神の子として崇められていたジェロームだけだった。
我がアドレ伯爵領には代々東の大司教様の住まう神殿がある。ジェロームはその類稀な神力の強さから、生まれた直後から親元を離され、当時の大司教様の養子として神殿で育てられていた。
領主の息子として神殿との友好関係は最優先事項であり、同年代の私が彼の友人として選ばれた事で、私はこれ幸いと神殿に入り浸っては植物の勉強ばかりしていた。
ジェロームは友人として来ている筈の私が勉強ばかりしていても特に気にした様子はなく、お互いに干渉し合う事もない関係は気が楽だったのだ。
だからこそ気が抜けてしまったのだろう。
その日は朝から母上が癇癪を起こし大変だった。父上が1歳になったファビアンとその母親を連れて旅行に行ってしまったからだ。必死に母上を宥めた後で、私も疲れていたのだろう。
神殿の庭園にある木陰で本を開きながらつい言ってしまったのだ。『苦しい』『逃げたい』と。
誰もいないと思ったからこそ漏らした弱音は、けれどそれを聞いていたジェロームによって打ち砕かれる。驚くと同時に、言い知れない怒りが湧き上がってきたのだ。何も知らないくせにと。
それが顔に出ていただろうに、何故かジェロームはにっと笑ったのだ。
『なんだよ、そんな顔もできんじゃねぇか。いっつも胡散臭い笑顔だから薄気味悪ぃったらなかったぞ。そっちの方がよっぽどいい』
笑顔でいれば余計な諍いは無く、平穏でいられた。父上の無関心な態度も、笑顔を浮かべて気にしていない風を装えた。笑顔は本心を隠す仮面であり、心を守る鎧でもあったから。
けれどそんな笑顔が薄気味悪いと、怒った顔の方がいいと言うジェロームの歯に衣着せぬ言葉は、幼い私には衝撃であり、怒っていた事も忘れて呆然としてしまった事を覚えている。
それからのジェロームは私の勉強の邪魔をする様になり、当時の大司教様や神殿の司祭達への悪戯にもよく付き合わされる事になった。悪戯が露見して怒られる事も多かったけれど、あれらは幼い私の数少ない楽しい思い出だと言えるだろう。
その後もずっと続いているジェロームとの腐れ縁は、鬱陶しいと口では言っているものの、お互いに一番信頼しているのは誰かと聞かれればお互いの名を挙げる様な関係だ。
彼の存在が無ければ、私の心はとうの昔に疲れ果てて壊れてしまっていただろうから。
既にこの世にいない父上と、共に亡くなったファビアンの母親への恨みに囚われたままの母上を、私は何とも言えない感情を抱えたまま見下ろす。
昔は大きくて恐ろしいと思っていたが、今はただ小さく哀れだという思いしかない。父上を愛してなどいなければ、母上はもう少し幸せになれただろうに。
「母上、私は暫く溜まっている執務を片付けてきますから、少しゆっくりなさってはどうですか。ここは空気が悪いですから、もっと田舎で療養する事も考えてください」
「田舎だなんて!あの女がいるのに、正妻であるわたくしがここを出て行くだなんてそんな馬鹿な事あっていい筈がないではありませんか!……あぁもう、頭痛がするのでわたくしは休みます」
彼女は頭に手を当てながら、不快だという表情で書斎を後にする。もうここには母上を脅かす人は誰もいないというのに。
ほんの少し会話をしただけだというのに、どっと疲れが押し寄せてきて私は思わず重い溜息を漏らす。
重苦しい空気を入れ替えようと書斎の窓を開ければ、風に乗ってバニラの様な甘い花の香りがふわりと香った。見下ろせば庭園に紫や白の小さな花がドーム状に密集して咲くヘリオトロープの花が咲いている。
最近では花の香りを嗅ぐと、ついメラニーさんの姿を思い浮かべる様になってしまっていた。ヘリオトロープは確か神殿には植えられていなかったから、あれを持って帰れば彼女はきっと嬉しそうに微笑んでくれるに違いない。
「ヘリオトロープはドライフラワーにしても香りを長く楽しめますし、あの甘いバニラみたいな香りはメラニーさんが好きそうですね」
彼女は甘い菓子が好きだし、彼女自身が可愛らしい砂糖菓子の様な存在だ。世間知らずでお人好し、すぐ気持ちが表情に出る表裏がない所も見ていて好ましく、自然と心が癒される。
あの夕焼けの様に美しい瞳がヘリオトロープを目にしてぱちぱちと瞬きする様子や、香りを嗅いで笑顔になる所を想像すると心が温かいもので満たされていく様だ。
我知らず口元が緩んでいる事に気付き、ハッとする。息苦しいだけのこの邸で、こんなにも穏やかな気持ちになった事など今までなかったというのに。
「はぁ……まだ暫くはここに居なくてはいけないというのに、もう既に帰りたくなってしまいましたね……」
本来なら生家であるこの邸が帰る場所なのだろうけれど、ここはただただ息苦しい思い出ばかりが詰まった場所で帰りたいと思った事は一度もない。
本当に私が帰る場所というのは、私の心が在る所だろう。今の私が帰りたい場所は――
「メラニーさんは元気にしているでしょうか……何かあればシエルが知らせてくれるでしょうし、神殿は安全な筈ですが……」
見える距離にいないというのは、こんなにもどかしい気持ちになるのだという事を知らなかった。今は夢であるお花屋さんの為に頑張っているだろうけれど、無理をしていないかと心配になってしまう。
彼女の所に早く帰る為にも、やらなくてはいけない執務を早く済ませてしまわなくては。
私はもう一度ヘリオトロープに視線を向けた後、そっと書斎の窓を閉めた。
読んでくださってありがとうございます!
作者のやる気に繋がりますので、面白かったと思って頂けたら下にある☆を押して評価やブクマを宜しくお願いします!
ちなみにヘリオトロープの花言葉は『献身的な愛』です。




