プロローグ
「あー!メルちゃん、今日もまた難しい顔してる!」
窓の外からひょっこりと顔を覗かせ、頬を膨らませているストロベリーブロンドの美少年に私――メラニー・トレランスはついつい顔が緩んでしまうのを感じていた。
本人は怒っている様なのだが、ぷっくりと頬を膨らませている姿は小動物の様に愛らしくてとても可愛い。
「テオ、あなたこそまた勝手に入ってきたのね」
私は手紙を認めていたペンを文机に置くと窓をそっと押し上げる。初夏の爽やかな風が私の緩やかなブルネットの髪を揺らし、どこからか香る甘い花の香りが鼻腔を擽った。
「だって南側の塀、また少し崩れてたよ。僕みたいな子供なら簡単に通れるくらいの穴がね」
「えぇ?嘘でしょう?昨日頑張って直したのに……」
テオの言葉に私は大きな溜息を漏らす。
我が家は一応子爵家であり邸の敷地だけは広いものの、財政は火の車という没落一歩手前の貧乏貴族だ。
私が10歳の時に優しかったお母様が馬車の事故で亡くなってからというもの、お母様が全てだったお父様はそれからお酒と賭博に逃げ、我が家の事業は傾くばかり。
この4年で大勢居た使用人達のほとんどに暇を出し、今では好意で残ってくれている古参の者数名しかいない有様なのだ。当然邸の全てを手入れするには人手が足りず、荒れていくばかりという訳なのである。
私だって本当なら来年にはアカデミーに通える筈だったのだが、今ではその学費の捻出すら難しい。家庭教師を雇い続ける費用すら無く、それからは邸にある膨大な書物で得た知識だけを頼りにどうにか独学でここまで頑張ってはきたものの、成人前の私に出来る事は殆どなく、日に日に眉間に皺は寄るばかり。
そんなある日、突然邸に現れる様になったのがテオだ。肩ぐらいで整えられた、さらさらとした美しいストロベリーブロンドの髪に、宝石みたいに綺麗なペリドットの瞳。年は9歳位だろうか、まだ幼さが残る絵に描いたような美少年だ。
服装はかなり上等な事からも、きっとどこか羽振りのいい商家辺りの息子なのだろう。探しものをしていて迷い込んだという彼を初めて見た日、あまりの可愛さに神が遣わした天使なのだと思った程だ。
『うわぁ!お姉さんみたいに綺麗な瞳、僕初めて見たよ!夕陽みたいにキラキラしてるね!』
そんな天使が私の顔を一目見て目を丸くし、花が綻ぶ様に微笑むのだからこれに落ちない者はいないだろう。きっと弟が居たとしたら、こんな風に可愛いんだろうなと思わずにはいられなかった。
それからというもの、何故か私に懐いたテオは私の事を今はもう誰も呼ぶ事の無い愛称で呼び、こうして毎日の様に遊びにやってきているのだ。
今の私にはテオとの時間だけが、ホッと息をつける唯一の癒しだといえるだろう。それを知っているのかいないのか、テオはいつだって私が疲れている時に現れて、私を笑顔にしてくれるのだから。
「せっかく来たんだもの、お茶でも飲んでいく?今なら私が作ったクッキーもあるわよ」
「えっ!?メルちゃんの手作り!?それは絶対に食べたい!」
ぱぁっと途端に嬉しそうな顔になる彼に、私も釣られて笑みが溢れる。時々大人びた事も言うけれど、甘いお菓子が好きな所は年相応といった感じで可愛らしい。
「ふふっ、ハーブが入っているから風味に少し癖があるけれど大丈夫?」
「メルちゃんが摘んだハーブなんでしょ?それなら寧ろ大金を出して買う価値がありすぎる物だよ!というか本当にお金出すから全部僕にちょうだい」
そんな風に至極真面目な顔で力一杯言うものだから、冗談でも本当に嬉しい。
ローズマリーは疲労回復に良いから最近はよく料理やお菓子に取り入れているのだけれど、私が摘んだハーブを初めて見たテオは大きな目を丸くして本当に驚いていたのを思い出す。一見するとただの草にも見えるから、草を食べなくてはならない程に困窮していると思わせてしまったのかもしれない。
それからというもの、テオは私が手摘みしたハーブが使われた物にやたらとお金を払いたがるのだから、きっとかなり心配させているのだろう。
私は彼の頭にそっと手を伸ばす。さらさらとした美しい髪はいつだって触り心地が良くて、ずっと触っていたくなってしまうのだ。
「大袈裟な子ね。お金なんて要らないわよ。あなたが美味しそうに食べてくれたら、それだけで私も幸せになれるんだから!」
「メルちゃんは本当に自分の事を全然解ってないよ……そんなだから僕は……」
ぎゅっと拳を握り締め、俯いてしまったテオに小首を傾げていれば、暫くして彼は勢いよく顔をあげる。と、私の両手をぎゅっと握り締めた。
「メルちゃん!あのね、今から少しだけ出られる?メルちゃんに見せたいものがあるんだ」
「見せたいもの……?」
ここに持ってきていないという事は、恐らく大きなものか景色なのだろう。私が好きそうな何かを見つけたから見せたいというその気持ちが嬉しくて、自然と頬が緩む。
「解ったわ。クッキーだけ包んだら外に出るからそこで待っていてちょうだい」
何となく予想はつくものの、そこは知らない振りで笑顔を向ければ、はにかんだ様な天使の笑みが返ってくるのだから本当に心臓に悪い。にやけてしまいそうな顔を引き締めつつ、私はクッキーを手頃な布で包むと玄関ホールへと向かった。
「おや、お嬢様。お庭に出られますか?」
「コンスタン、少しだけテオと息抜きしてくるわ。何か私に見せたいものがあるんですって」
玄関ホールには長年執事を務めてくれているコンスタンが穏やかな笑みを浮かべていた。お祖父様の代から仕えてくれていて、殆どお給金が出せない今もここに残ってくれているのだから本当に頭が下がる。
「あぁ、テオくんとですか。あの子はお嬢様より余程しっかりしていますから安心ですね」
「ちょっと、それはどういう事なの」
「あの年頃のお嬢様は、もっと活発でいらっしゃいましたから」
好々爺然とした彼をじとりとした目で見やれば、彼はほほほと笑いながら懐かしそうに目を細めた。更に幼い頃の事なんて持ち出されたら藪蛇でしかない。
私はこほんと一つ咳払いをすると表情を引き締める。
「とにかく出掛けてくるわ。たぶんそう遠くまでは行かないでしょうから、心配しないで」
「お気をつけていってらっしゃいませ」
外に出ると、ぐるりと邸沿いに執務室のある方向へと歩いて行けば、先程まで私が居た窓の下辺りでそわそわとした様子で待っているテオの姿が見える。誰かが私を待っていてくれるというのは、やっぱりどこが心が温かくなるものだ。
「テオ!お待たせ」
「メルちゃん!忙しいのに、出てきてくれてありがとう!」
私の顔を見ると途端に瞳を輝かせる様子は、なんだか子犬みたいで愛おしくて堪らない気持ちになってくる。
本当はぎゅっと抱き締めてしまいたいのだけれど、それを前にした所、『まだ子供だけど、僕だって男なんだよ!?そういうのやめてよね……!』と顔を真っ赤にして怒られてしまったから自重するしかない。
心の中で拳を握り締めて自分を戒めつつも、それを悟られないように精一杯の笑顔を浮かべた。
「テオと一緒にいると私も息抜きになるから気にしないで。それで、どこに連れて行ってくれるのかしら?」
「それはね、ついてからのお楽しみだよ!」
にこにことした顔で私の方へと手を差し出す彼に、くすりと笑みを溢しながらその手を取る。まだ私の腰より少し上くらいしかない小さな体で、私を引っ張って行こうとしている姿はなんとも微笑ましい。
思わず頬が緩んでいく中、どうやらテオは庭にあるお母様の薔薇園の更に奥の方に向かっているらしい。
「あ……」
「メルちゃん……?あ、もしかして僕が急かしすぎちゃった!?ごめんね、メルちゃんはドレスなのに……もうちょっとゆっくり歩くね」
「ううん、そうじゃないわ。お母様の薔薇……忙しくて全然お世話できていなかったのに、こんなに綺麗に咲いてるのねって今更気付いたのよ」
庭師もいなくなってしまって、最初は私が手入れをしていたものの、最近は忙しくてあまり手を掛けてあげられていなかったのだ。枝葉が伸びすぎている所はあるものの、それでも花は以前と変わりなく美しく咲いていた。そんな事にも気付いていなかった事に、今頃気付いたのだ。
「私、自分で思っているよりも余裕がなかったのね……」
そっと触れた薔薇の花弁は、思っていたよりもしなやかで強い。どれくらいそうしていただろうか。私のもう片方の手がぎゅっと握り締められた事にハッとしてテオの方を見やれば、彼は泣きそうなのを耐える様な、そんな表情をしていた。
「テオ……?」
「っ……そんなの当たり前だよ。メルちゃんだってまだ成人前の子供なんだよ!?母親を亡くしたのはメルちゃんだっておんなじなのに、メルちゃんに全部押し付けて、自分は酒と賭博に逃げるなんて……僕、メルちゃんの父親じゃなかったらあんな人の事なんてとっくに――」
ペリドットの瞳からぽろぽろと雫が溢れ落ちた瞬間、私は反射的に彼を抱き締めていた。テオが一瞬身を固くした事に気付いたのだけれど、私はそれを知らない振りをした。
「……ありがとう、テオ」
「っ……!メルちゃんは我慢しないで、もっと怒って、泣いた方がいいよ……!」
「そうね。でも、今はテオが私の代わりに怒って泣いてくれたから、それだけで救われたわ。ね、私は笑っているでしょう?」
少しだけ体を離し、涙が止まらないテオと視線を合わせると優しく微笑む。
自分の事で精一杯で、私の存在なんて忘れてしまったお父様に腹が立たないと言えば嘘になる。それでも私には子爵令嬢としてやるべき事があったし、支えてくれる使用人達やこうして私以上に憤慨してくれるテオがいるのだから恵まれている方だと思う。
私はこの世界に独りぼっちではないのだから。
「……メルちゃんのお人好し」
「あら。でも、お人好しじゃなかったら、不法侵入してきたあなたと仲良くなんてなってなかったと思うわよ?」
「そ、れは……そうだと思うけど……」
ばつが悪そうに視線を逸らした彼は、ごしごしと涙を拭うと、気を取り直した様子で私の手を握り直した。
「薔薇もいいけど、もっと先にいいものがあるんだ。行こう、メルちゃん」
「ふふっ、そうね。楽しみだわ」
先程よりもゆっくりと歩くテオに笑みを漏らしつつ、薔薇園を抜けた先には古いレンガ造りの塀が続いていた。塀伝いに少し進むと、私でも通れる位に崩れてしまっている所があった。
「まぁ……こんな所も崩れていたのね……」
「実はこの穴を抜けた先なんだ」
「えっ!?この先に行くというの……?」
穴の向こうには鬱蒼とした森が広がっている。この辺りに危険な魔物や動物はいない筈だけれど、森になんて入った事がないからどうしても躊躇ってしまう。
そんな私の不安に気付いたのか、テオが気遣わしげに私を見上げる。
「メルちゃん、もし何かあっても僕が必ず守るから。僕を信じて」
「うっ……わ、解ったわ……!女は度胸よね!」
「それでこそメルちゃんだよ」
ぐっと拳に力を込める私に、彼は何故か自分の事の様に誇らしげだ。そもそも年齢的に守るのは私の方だろうに、この自信はどこからくるのだろうか。
妙に嬉しそうなテオは私の手を引き、道なき森へと踏み入っていく。入ってみれば森は空気が澄んでいて、木々に遮られた日差しは心地良く清涼だ。初夏の日差しは少しだけ暑かったので過ごしやすいともいえる。
時折葉や花の間をきらりと黄金色に光るものが飛んでいるのが見えるけれど、あれは蝶か何かなのだろうか。
「ねぇ、テオ。あれは――」
何かと問う前に、視界が一気に開ける。そこだけぽっかりと木々が無い為に、降り注ぐ光で目が眩む様だ。少しだけ目が慣れた所で、目の前に広がる光景に息を呑む。
「これが僕がメルちゃんに見せたかったものだよ」
「う……わ……これ、全部ブーゲンビリアね?なんて綺麗……」
日差しが注ぐ広場の周りを取り囲む様に、オレンジと赤が混ざり合った色の花をつけるブーゲンビリアの木が植っていたのだが、それは日の光を受けてまるで燃える様に輝いていた。
華やかで美しい、その光景はまるで夢の様だとも思う。
「これを見つけた時、メルちゃんの瞳みたいに綺麗だって思ったんだよ。キラキラして眩しくて……」
眩しそうにブーゲンビリアを見ていたテオは、その視線を私の方へと向ける。綺麗なペリドットの瞳は、少しだけ揺れていた。
「あのね、メルちゃん……今日は暫く会えなくなるって言いにきたんだ」
「えっ……」
思ってもみなかった言葉に、私はまるで頭を殴られた様な衝撃を受ける。会えなくなるとはどういう事なのだろう。その言葉の意味が解らず、思考は空回りするばかりで何も考えられない。
毎日の様に遊びに来ていたから、私はこの先もずっとこれが続くのだろうと勝手に思っていたのだ。
「暫くって……どれくらい?どこかに行くの?」
絞り出した声は自分が思っている以上に震えていて、テオはそれを聞いて悲しげに目を伏せた。
「実はね、隣のエガリテ王国のアカデミーに飛び級で入学する事になったんだ。今の僕じゃメルちゃんを本当の意味で守れる力が無いから。だからその為に少しだけ……少しだけ、離れないといけないんだけど……」
言葉を紡ぎながら、テオの瞳からはぽたりぽたりと涙が零れ落ちる。くしゃくしゃと顔を歪める彼の表情が、何故か霞んで見えない。
「メルちゃんは、僕の事では泣いてくれるんだね」
「え……やだ……私泣いて……?」
毎日大変で苦しくても、泣いてる暇なんてなかった。泣いた所で現状は何も変わらないから。だからずっと前だけを向いて走り続けてきたというのに、テオがいなくなると思っただけで涙は溢れて止まらない。
慌てて涙を拭う私に、テオがぎゅっと抱きついてきた。その温かな温もりに、涙は余計に溢れてしまう。
「父上にも僕が本気だって認めてもらえる様な功績をあげないといけないから、もしかしたら5年くらいかかっちゃうかもしれない。でも必ずメルちゃんの所に帰ってくるから、だからその時は僕と――――」
その時、ざぁっとタイミング悪く吹いた風の音のせいで、テオの最後の言葉がよく聞こえなかった。私を見上げる彼の瞳はどこか不安気に揺れていて、私の言葉を待っているのは明白だったのだが、これはどう考えても聞き返せる空気では無い。
妙な緊張感に涙が引っ込む中、私は優しく微笑むと、少し屈んでテオの事をぎゅっと抱き返した。
「……何年でも、テオが無事に帰ってくるのを待っているわ」
帰ってきたらどうしたいのかはよく解らなかったものの、まだ10歳にもなっていないテオが飛び級でアカデミーに通う事は凄い事だし、知らない国で苦労する事も多いだろう。とにかく無事に帰ってきてほしいというのは、私の紛れもない本心だ。
「うん!それじゃあ約束したからね!」
見事なブーゲンビリアさえも霞む程の眩しい笑顔を向けたテオは、そっと私の頬に口付ける。はにかみながら頬を染めるテオはとても可愛らしくて、私はほっこりとした気持ちになっていたのだが、この時私が何を約束してしまったのか、もう少し気にしておくべきだったと気付くのはずっと先の話だ。
ただ、この日見たブーゲンビリアの美しさと、テオの笑顔はきっと生涯忘れる事はないだろう。
新連載始めました!
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