獣人王女エルヴィールは、離宮でアレクシス閣下と会う
そこは広い庭に豪壮な宮殿が佇む、洗練された場所だった。
これだけ広い敷地と宮殿を与えられているということは、閣下は王族で間違いないのだろう。
そんな人物がなぜ、私の身柄を騎士隊に渡さず、自ら引き取ったのか。
最大の謎であった。
辿り着いたのは離宮の裏口だった。誰にも会いたくないだろうと話しながら、ウルリケは宮殿内へと案内してくれる。
離宮は床も壁も天井も、白い大理石でできており、どこもかしこも贅が尽くされていた。
美しいとしか言いようがない建物だが、行く先は王城と変わらない。薄暗い地下の牢屋だろう。
そう思っていたのに、辿り着いたのは瀟洒な家具が並ぶ客間だった。
どう振る舞っていいのかわからず、呆然と立ち尽くしていたら、椅子を勧められてしまった。
大人しく座ると、続けざまに話しかけられる。
「私はウルリケ・フォン・ザイファートと申します」
会釈を返すと、「以後お見知りおきを」と丁寧な挨拶を受けた。
「あなたはルビーさん、でしたっけ?」
違う。ルビーではない。
否定しようとしたものの、体が硬直したように動かなくなってしまった。
文字を書こうとしたらペンが吹き飛ばされたことを考えると、ルビーに不利な証言や動作ができなくなっているのだろう。
反応がない私をウルリケは追及せず、優しい言葉をかけてくれる。
「ここにに来てから何も召し上がっていないそうですね。食事を用意しましょうか?」
ツークフォーゲルの王城に連れられてから水しか飲んでいなかったが、依然として食欲はなかった。
首を横に振ると、ウルリケは眉尻を下げ、困った表情を浮かべる。
「ここにあるサンドイッチやジュースは、お好きなときに召し上がってくださいね」
閣下がくるまで、しばしゆっくりしておくようにと言われる。
ウルリケはそのまま、客間から去ってしまった。
信じがたい気持ちになる。見張りはつけないようだ。
気になって客間のドアノブを捻ってみたが、鍵なんてかけられていない。
いつでも逃げられるような状況である。
まさか、逃走防止の魔法でもかけているのか。だとしたら、今の状況も納得できた。
このような中で落ち着けるわけもなく、刻々と時間だけが過ぎていった。
ウルリケが出て行ってから一時間半ほどで、客間の扉が叩かれる。
「失礼」
一言断ってから中へと入ってきたのは、閣下だった。
素早く立ち上がり、彼のほうを見つめる。すると、あろうことか閣下は柔らかく微笑んだ。
「大丈夫、緊張しないで。僕は、君にとっての敵ではないから」
味方ではないが、敵ではないと言いたいのか。その言葉の本意はまだ見えない。
大公は向かい合った位置に腰かけ、ジッと私を見つめる。
見透かされているような、心地悪い感覚を味わう。
遅れてやってきたウルリケを見つけた瞬間、安堵してしまった。
「あの、閣下、そのように見つめては、彼女も緊張されるのでは?」
「ああ、そうだね。すまなかった」
閣下は長い足を組み、リラックスした様子で自らを名乗る。
「僕はアレクシス・フォン・アルムガルドという。陛下の筆頭秘書官を務めている」
アルムガルドという家名は覚えがある。王家の傍系だ。やはり、彼は王族の一員だったようだ。
「気軽に、アルと呼んでも構わないよ」
アレクシスだから、愛称は〝アレク〟か〝アレックス〟なのではないか。なぜ、家名からアルを取るのか謎でしかない。
「君は王女殿下の侍女で、ルビー・ド・ボワデフル、だったかな?」
違う。私はルビーではない。けれども、否定する手段は持たなかった。
「――君は、ルビーではない?」
そう問いかけられた瞬間、閣下を見つめてしまう。
「そうなんだね。だったら、本当の名前を教えてくれるかい?」
閣下は立ち上がり、何を思ったのか私の隣に腰かける。そして、大きな手を差し出してきた。
握手を求めているのではないことは、かろうじてわかる。
この手はいったいなんなのか?
顔を見上げると、閣下は再び柔らかく微笑んだ。
「僕の手のひらに、指先で名前を書いてごらん」
そうだ! ペンは掴めなくても、指先だったら邪魔されずに書けるはず。
だが、ここで本名である〝エルヴィール〟と書いても、また嘘をついていると言われるかもしれない。もう、犯人扱いされるのはこりごりだった。
私は閣下の手のひらに、自らの名前を書く。
「――〝ルヴィ〟! そうか。発音はルビーではなく、ルヴィなんだね?」
そうだと頷いた。
どうせ、エルヴィールと名乗っても信じてもらえないだろうし、呪いの力で邪魔される可能性があった。ペンが弾かれたように、指先が吹き飛んだら大変だ。
だから、幼少期の愛称であった〝ルヴィ〟を名乗る。
「ルヴィか。品があって、いい名前だね」
母しか呼んだことのない愛称である。そう言われると、照れてしまった。
閣下は私の手を両手で包み込むように握り、噛んで含めるように言った。
「僕はね、君が王女の襲撃事件の犯人だとは思っていない。だから安心して、ここに滞在するといい」
「――、――!?」
声が出せないのがもどかしい。そう思っていたら、閣下は手を差し出してくれる。ここに書け、と言いたいのだろう。
好意に甘え、閣下の手のひらに「それはどうして?」と書く。
きちんと伝わったようで、私が書いた言葉を復唱し、間違いがないか確認してくれた。
頷くと、閣下は話を続ける。
「あの事件は、不審だと思う点しかないからだよ」