獣人王女エルヴィールは、離宮から逃げる
閣下から貰ったドレスを着て逃げるわけにはいかないので、離宮にやってくるときに着ていた簡素なワンピースをまとい、それに合わせて支給された靴を履く。
本当はツークフォーゲルに到着した日に着ていたお仕着せがよかったのだが、手元には戻ってきていない。事故当時に着用していたので、おそらく証拠品として押収されたのだろう。
私物はまったくない。
ドレスも、帽子も、リボンもハンカチも、すべて閣下に贈られたものだ。
私個人の持ち物ではないため、持って行くことはできない。すべて、ここに置いていく。
ただ、ヴァイスの餌となる木の実の植木鉢だけ持って行くのは許してほしい。
逃走中に土が零れてしまわないよう、ヴァイスの寝床に使われている布で鉢を包んでおく。
一応、誘拐を疑われないように、手紙を書かなければならないだろう。
だが、ペンが握れないのでどうしたものか……。
『ジュ!』
ヴァイスがペンを握り、掲げる。もしや、代筆してくれるというのか。問いかけると、元気よく『ジュー!』と鳴いた。
もちろん、ヴァイスは文字を書けない。私が指先で書いた文字を、真似して書いてくれるようだ。
さっそく、練習してみる。
ミミズが這ったような文字だが、読めなくもない。
一緒に頑張ろうと目と目で会話し、さっそく置き手紙の作成に挑む。
手紙には、これ以上ここにいたら迷惑をかけてしまうので、出て行くということ。挨拶もなしにでていってしまい、申し訳ないと思っていること。それから、ヴァイスを連れ出すことを書くよう頼んだ。
最後に、〝ルヴィ〟と署名してもらう。
これまでたくさん親切にしてもらったのに、逃げ出すなんて恩を仇で返すような行為だろう。私がいなくなったことにより、ウルリケが責められるかもしれない。
それでも、やるしかない。このまま離宮に残ったら閣下は私を守るために、本当に結婚をしてしまうから。
私はアルノルト二世と結婚するためにツークフォーゲルへとやってきた。他の男性との結婚など、許されるわけがない。
それに王族の結婚は、政略的な意味合いが強い。益をもたらさない私なんかと結婚したら、周囲から悪く言われるだろう。
益――という言葉で、ふいに記憶が甦った。以前、母が私に話してくれた獣王国アレグリアの秘宝について思い出す。
なんでも母が育った〝スアリル〟という土地にある山では、大量の金が採れるらしい。少女時代の母が偶然、発見したようだ。金を隠すために、呪文を唱えないと金のありかがわからないようになっているようで、呪文をこっそり教えてくれた。母は「もしも困ったときは、この金のありかを獣王国との外交の手段として使いなさい。さすれば、誰もあなたを軽んじないでしょう」と言っていた。
母は自分を守るために金を使わず、私に託していったのだ。
ファストゥにいる間、酷い目に遭い続けていたのに金の話をしなかったのは、自分の保身のために使うのはもったいないと思ったから。
閣下のためならば、まったく惜しくない。
金を通じて獣王国アレグリアとの繋がりが強くなれば、ツークフォーゲルはさらに大きな国となるだろう。
獣王国はこれまでどこの国とも交流せず、独裁政権を続けていたようだけれど。閣下の手腕があれば、きっと上手くいくに違いない。外交を成功に導いたら、閣下のことを悪く言う人もいなくなるはず。
金のありかを示す土地と、呪文についてヴァイスに書いてもらった。鳥翰魔法を使ったら、まっすぐ閣下のもとへ飛んでいってくれるだろう。送るのは離宮から逃げ出したあとでいい。
バルコニーへ続く扉を開く。夏の熱を含んだ風が頬を撫でた。
離宮を離れることを考えたら、不安で胸がぎゅっと押しつぶされそうになる。
けれども、行くしかない。
満天の星を仰ぎ、即座に腹をくくる。
ヴァイスは私の腕にしがみついていた。腕に植木鉢を抱きしめ、バルコニーの手すりに足をかける。
正直、怖い。二階から飛び降りるなんて、生まれて初めてだから。
けれども、地面はふかふかと生えそろった芝生だ。ケガしたとしても、軽い捻挫程度だろう。
私は山猫獣人だから、きっとこの高さからでも着地できる。そう自分に言い聞かせつつ、手すりを強く蹴った。
「――!!」
くるりと体が回転し、空の星々が視界いっぱいに広がる。きれいだ……なんて思ったのは一瞬で、もうひと回転したのちに、地面に着地する。
受け身を取ったつもりだったが、勢いがあってゴロゴロと転がってしまった。木の幹にぶつかり、止まる。
ケガはない。ヴァイスもしがみついたまま、離れていなかった。
臆病なヴァイスは鳴き声を上げずに、耐えてくれたようだ。
ホッとしている場合ではない。離宮には夜間、見回りを行う者達がいる。彼らに気づかれないように、脱出しなければならない。
幸い、夜目が利くため、灯りは必要なかった。気配を遮断させ、耳で周囲の様子を窺いながら進んでいく。
想定以上に、離宮の庭にはたくさんの人達が配置されていた。
さすが王族が住まう、幻獣保護施設だ。
私が山猫獣人でなかったら、すぐに捕まっていたに違いない。
山猫獣人は人里離れた集落で暮らす、少数民族だ。めったに麓の里に現れず、絶滅したのではと囁かれるほどだったらしい。
そう言われるくらい、気配を消したり、身を潜めたりするのが得意な種族なのだろう。
生まれて初めて、山猫獣人であることが役に立ったような気がする。それが、閣下がいる離宮から逃げるために利用されるというのが、悲しい現実であるのだが……。
見回りする人の中に、果樹園の人達もいた。
果樹園の人達――特にお世話になったネリーにお別れの言葉も残せなかった。なんて薄情で、恩知らずな奴だと思われるかもしれない。
本当に、心から申し訳なくなってしまう。
息を潜め、存在感を殺し、なんとか離宮を囲む塀に辿り着く。だが、ここであることに気づく。
塀には侵入者を防ぐための結界魔法がかけられているようだ。
このまま塀を跳び越えることは不可能だろう。
どうすればいいのか、頭を抱えてしまった。




