獣人王女エルヴィールは、嘘をつく
案内されたのは閣下の執務室ではなく、休憩するための私的な部屋だった。
そこにあった長椅子に、私は下ろされる。
閣下は隣に腰かけ、深いため息をついていた。私のせいで、閣下にまで誹謗中傷が及んでしまった。本当に申し訳なくなる。
室内の空気は重く、陰鬱になっていたが、ヴァイスが元気よく『ジュー!』と鳴いた。どこに隠し持っていたのか、アンズの実を閣下に差し出したのだ。
「ヴァイス、これを僕にくれるのかい?」
『ジュ!!』
「ありがとう。ちょうど、小腹が空いていたんだ」
閣下はウルリケにアンズを差し出す。すると、彼女は器用に皮を剥き始めた。部屋にあったガラスの小皿に切り分けられたアンズが盛り付けられる。
「ああ、そうだ。閣下、ルヴィ様が焼かれた、サクランボのペストリーもあるのですよ」
「そうなんだ。それを差し入れるために、ルヴィはわざわざ王宮までやってきてくれたんだね」
閣下は私の行為を怒らなかった。それどころか、「ありがとう、嬉しいよ」と言ってくれた。ここでも、涙が溢れてくる。
「ああ、ルヴィ、泣かないで。君が感情表現できるようになったのは嬉しいけれど、できたら笑ってほしい」
閣下の言葉に頷きながらも、涙が止まらなかった。そんな私に、閣下はアンズの実を差し出してくる。
「ルヴィ、おいしいアンズだ。食べたらきっと、元気になるよ」
ヴァイスがそうだ、そうだと言わんばかりに『ジュ!』とひと鳴きする。
アンズを受け取ろうとしたが、果汁で手がベタベタになるからと言って、閣下は食べさせてくれた。下ろされた手を、ヴァイスがチロチロ舐める。その様子を、閣下は目を細めて見守っていた。
ハッと我に返ると、とんでもなく恥ずかしいことをされたのではないかと思う。
手ずから果物を食べさせるなんて、恋人ではあるまいし。
頬がだんだん熱くなっていくのを感じていく。
その後、ウルリケが部屋の棚からフォークを発見し、小さなアンズをふたりと一匹で分け合うこととなった。
ざわついていた心が、ヴァイスと閣下のおかげで穏やかになっていく。
けれども、根本的な問題が解決したわけではなかった。
まさか私を保護したことにより、閣下を悪く言う人達がいたなんて……。
閣下は私が何か話したいと思っていることに気づいたのだろう。そっと手を差し伸べてくる。その手に、思いを書き綴った。
「僕への中傷? ああ、気にしなくてもいいよ。もともと社交場に顔を出さないから、ルヴィがやってくるより前から好き勝手言われていたんだ」
それでも、私がいなかったら堕落させられていたなんて噂話を囁かれていなかっただろう。
「僕も、アルノルト二世も、味方がいない。呪いのせいもあるけれど、獣人を支持した件もあるし、社交界での交流を拒絶していたから」
閣下とアルノルト二世は従兄弟同士であるが、本当の兄弟のように育ったらしい。考えることも似ていて、もうひとりの自分のように思っているのだとか。
「だから、ルヴィが酷い目に遭ってしまったのも、僕が社交界で軽んじられているからかもしれない。申し訳なく思っているよ」
そんなことはないと、首を横に振る。そんな私を見て、閣下は消え入りそうな声で「ありがとう」と言ってくれた。
「ずっと、ルヴィを守るにはどうしたらいいのか、考えていたんだ」
閣下には十分なくらい、守ってもらっている。これ以上の庇護は、望んでいない。そう訴えても、閣下は首を横に振るばかりである。
「王族に生まれた以上、勝手な行動は許されない。けれどもルヴィ、君については、ひとりの男として、守り抜きたいと考えているんだよ」
閣下はずっと迷っていたのだと打ち明ける。答えを出すのは簡単だが、この先続けていくには大きな覚悟がいるものだったらしい。
「でも、先ほどの事件を受けて、ようやく覚悟ができたよ。もう少し早く判断していたら、防げたことかもしれないけれど――」
閣下は立ち上がると、改めて片膝をつく。
私の手を握ると、驚くべきことを口にした。
「ルヴィ、僕と結婚してほしい」
「!?」
閣下は熱烈な視線を向けながら、私に求婚する。
聞き間違いかと思ったが、閣下は重ねて「僕の妻になってほしい」と言った。
なぜ、私が閣下の妻に選ばれるのか。頭の中は疑問符でいっぱいである。
閣下はきっと、愛をもって求婚したのではない。私を保護する目的で、結婚しようと提案してくれたのだ。
そんなことなど、許されるわけがない。
そもそも、私はアルノルト二世と婚姻を結ぶためにここへとやってきたのだ。ツークフォーゲルでは誰も私を王女エルヴィールだと思っていないが、だからと言って閣下との結婚なんて許されるわけがない。
私は首を横に振り、結婚はできないと意思表示する。
「ルヴィ、どうして僕と結婚できないの? もしかして、ファストゥに好きな人や婚約者がいた?」
好意を寄せる相手も、婚約者も、ファストゥにはいない。けれども、閣下とは結婚できないのだ。
ここで気づく。閣下を納得させるためには、好きな相手がいたと嘘をつけばいいのだと。閣下は優しいので、結婚を強要するわけがない。そう思い、閣下に嘘を伝えてしまった。
「ルヴィはファストゥに、好きな人がいるんだね。そうか……」
心がズキズキと痛む。
本当は今すぐにでも閣下の胸に飛び込んで、求婚してくれたことを喜びたかった。
私を哀れんで結婚を申し込んでくれたことは、百も承知である。そこまでしてくれる、閣下の思いが何よりも嬉しかったから。
でも、これ以上閣下を私という鎖で縛りつけるわけにはいかない。だからこの嘘は、正しい嘘なのだろう。
ごめんなさいと重ねて謝罪しようとしたそのとき――閣下の瞳がキラリと輝いた気がした。
「ルヴィ、困った娘だ。好きな人がいるなんて、嘘だね? 僕はね、〝解る〟んだよ」
見透かされているような目に、胸がどくんと大きく跳ねた。




