獣人王女エルヴィールは、涙する
閣下は優しく私に触れ、ゆっくりと抱き起こしてくれた。
ウルリケが追いつき、剣の柄を握って私を周囲から守るように立つ。
「ルヴィ、いったいどうしたんだい?」
ぴりついた空気の中、閣下が私に問いかける。
それは問い詰めるような一言ではなく、いつもと変わらない穏やかな声色だった。
ウルリケに事の次第を聞いたほうが早いのに、閣下は私に報告するように言ってくれた。いつもいつでも、閣下は私という存在を尊重してくれる。
差し出された手のひらに、事実だけを書いていった。
ヴァイスが私の感情に同調し、他人を引っ掻いてしまったこと。それにより、ヴァイスが処分されそうになってしまったこと。転んだのは、ヴァイスを連れ去った騎士の腕に無理矢理しがみついた結果であると。
「なるほど。そういうわけだったのか」
閣下は背後を振り返り、ヴァイスを掴んだ状態で硬直する騎士に指示した。
「そこの騎士、手にしている幻獣をこちらに渡すように」
「しかしこちらのリスは、エルヴィール殿下の額を引っ掻いた獰猛な奴でして」
「報告を聞いているんじゃない。こちらに渡せと言っている。命令だ。聞けないのか?」
「は、はい!!」
騎士は操り人形みたいにぎこちない動きで閣下に近づき、ヴァイスを差し出す。
騎士に強く握られていたからか、ヴァイスはぐったりしていた。
閣下から差し出されたヴァイスを、手のひらに迎える。
ヴァイスは僅かに顔を上げ、『ジュ……』と力なく鳴いた。
涙がこみ上げてくる。ポロリと頬を伝って落ちた涙は、ヴァイスの口元へと落ちていった。すると、ヴァイスが元気よく起き上がる。
『ジュ!?』
ヴァイスは手を握ったり、開いたり、尻尾を振ったりと動作の確認をしていた。
「これは――なるほど。ルヴィの涙から、魔力を得て元気になったというわけか」
『ジュー!』
閣下の呟きに、ヴァイスは返事をするように鳴いた。
元気になったようでよかった。安心したら、余計に涙が溢れてくる。
ずっとずっと、悲しいのに泣けなかった。けれども、離宮での穏やかな暮らしの中で、私はきっと感情を出せるようになったのだろう。
「ルヴィ、ゆっくりできるところに移動しよう。ここは、人の目が多いから」
閣下が私の肩を抱き、去ろうとした。その瞬間に、背後からルビーの叫びが聞こえる。
「アレクシス閣下、ちょっとお待ちになってくださいませ! そのリスは、わたくしを引っ掻いたのです!」
閣下はルビーを振り返り、冷たく言い放った。
「それがどうしたんだい?」
「どうしたって――その獰猛なリスは処分すべきですし、飼い主であるその娘は、わたくしに謝罪し、誠意を見せてもいいかと思うのですが?」
「処分? 謝罪? 誠意? バカなことを言う」
閣下の声色は、これまで耳にしたことがないくらい冷え切ったものだった。
傍で聞いている私ですら、ゾッとするくらいである。
「この幻獣は、驚くほど臆病なんだ。そんな中で、君を引っ掻いたとしたら、この幻獣をとてつもなく怒らせた、ということになる。幻獣は人間に愚弄されたくらいで怒らない。怒るとしたら、大切な誰かが攻撃されたときだろう」
ヴァイスにとって大切なのは、契約で結ばれた存在――。つまり、ルビーは私に酷い言葉をぶつけたのではないか。閣下は冷静に指摘する。
「誰か、ウルリケ以外で、ルヴィと彼女のやりとりについて、証言できる者はいないのか?」
ウルリケは身内なので証言は参考にならないが、目撃者はたくさんいたので、他にできる者もいるだろう。
だが、ここにいるのはルビーの味方だらけ。そう思っていたが、ルビーを取り巻いていたうちのひとりが挙手する。
ブルネットの髪を優雅にまとめた、エナメルブルーのドレスをまとう、気弱そうな雰囲気のご令嬢である。
「あ、あの、エルヴィール殿下は、そちらのお嬢様が閣下を堕落させるみだらな娘だと言い、さらに母君を愚弄する言葉を口になさいました。それを聞いた幻獣が、お嬢様の代わりに怒って引っ掻いた、という流れです」
「なるほど、そうだったのか」
言い終えたあと、ルビーは女性の腕を掴んで睨んでいた。女性は小さく「ヒッ!」と悲鳴を上げる。
それを見た閣下は傍付きの騎士に、証言した女性を別室へ案内するよう命じていた。
「僕たちも行こう」
そう口にしたあと、閣下は驚くべき行動に出る。私を横抱きにし、騎士達の間を通って颯爽と歩き始めたのだ。
私は歩ける。腕をぽんぽんと叩いて主張しても、閣下は「こうやって移動したほうが早いからね」なんて言うばかり。
羞恥に耐えながら、早く目的地に到着するよう願ったのだった。