獣人王女エルヴィールは、離宮での暮らしに慣れていく
それから数日もの間、ゆっくり過ごさせてもらう。
私の人生の中で、もっとも平和でのんびりとしている時間だったのではないのか。
ツークフォーゲルに来るまでさんざん酷い目に遭ったものの、心の傷は癒えたように思える。
離宮の人々が、心優しいからだろう。
閣下は忙しい人なのに朝と晩、食事を共にし、会話する時間を作ってくれた。閣下はとても穏やかな人で、私がツークフォーゲルの言葉に詰まっても、笑顔で待ってくれた。
高価な贈り物に困っていたからか、翌日からは小さな砂糖菓子をひとつとか、王宮に活けられていた花とか、庭になっていた木の実とか、ちょっとした贈り物を持ち帰ってくるようになった。
どれもささやかな品で可愛らしく、いつも美しいハンカチに包まれていた。
そのハンカチを手洗いして、アイロンを当てて返すのが私のちょっとした仕事になっている。不器用ながらも、毎日頑張っているのだ。
閣下と過ごす時間は常に穏やかな空気が流れていて、私の荒んでいた心を癒やしてくれる。これから閣下に何を返せるのか。しっかり考えないといけない。
ウルリケは常に傍にいて、話し相手になってくれた。彼女の年齢は三十三歳で、姉のような、母のような存在である。
おそらく、彼女は閣下の護衛騎士なのだろう。ファストゥにいた騎士達のような、隙のなさがあった。私の傍付きでいることを申し訳なく思っていたが、ウルリケは「とんでもない」と優しく否定してくれた。
なんでも、閣下の傍で働くのはとてつもなく大変だったらしい。周囲の制止も聞かずに単独ででかけたり、危ない事件に首を突っ込んだり、突然姿をくらましたり――。
思い返しただけでも胃が痛くなるような出来事の連続だったそうだ。
今、私の傍付きをしていて、これまでにない安らぎを感じているという。本当かどうかはわからないが、今後もずっと私の傍付きをしたいと望んでくれた。
私と契約を交わした幻獣ヴァイスは、木の実をたくさん食べてやせ細った体がふっくらしつつある。毛並みもよくなり、毎日ブラッシングをするたびにツヤツヤになっていた。
ヴァイスは私が木の実を与えると嬉しそうに食べてくれる。そして、ヴァイスは閣下が用意してくれたベリーの木から実をちぎり、私へ差し出してくれるのだ。
閣下が私も食べられるベリーの木を用意してくれたので、ヴァイスと一緒に食べられる。おいしいと言うと、ヴァイスは嬉しそうに『ジュ!』と鳴いてくれるのだ。
今後、ヴァイスの木の実代くらいは稼げるようになりたい。
私のちょっとした目標であった。
◇◇◇
朝、窓の外でさえずる鳥よりも早起きする。
薄明性のヴァイスは起きていて、私が目を覚ましたのに気づくと頬をすり寄せた。
おはようと、口をパクパクさせると、『ジュ!』と片手を挙げて挨拶する。
これから眠るようで、ウルリケと一緒に作ったカゴの寝台に跳び乗って丸くなった。
よしよしと撫でてあげると、すぐに眠ってしまう。
カーテンを広げると、薄明かりが地平線に浮かび上がっていた。
朝と夜の狭間の美しさに、しばし見とれてしまう。
太陽が顔を出した瞬間、ハッとなった。ウルリケが来る前に、身なりを整えないといけない。
続き部屋にある洗面台は、陶器でできている。水の魔石が填め込まれた蛇口を捻ると、水がでてきた。
桶には呪文が描かれていて、水に触れるとぬるま湯になる。朝、顔を洗うのにちょうどいい温度にしてくれるのだ。
髪を軽くまとめ、前髪はピンで留める。薔薇の香りがする石鹸をもこもこに泡立てて、顔を洗った。
化粧水や乳液も用意されていて、ありがたく使わせてもらっている。肌との相性がいいのか、もちもちしっとりとした状態になるのだ。
丁寧に歯を磨き、ブラシで梳る。
ドレッサールームに行き、今日の一着を選ぶ。ここには閣下が贈ってくれたドレスや靴、帽子などの品々が丁寧に保管されていた。
以前見た分はほんの一部だったようで、ドレッサールームに案内されて大量のドレスを見た瞬間、目が飛び出てしまった。
ファストゥにいたときよりも、確実にドレスは充実している。
もしかしたら、ツークフォーゲルの貴族令嬢はこのドレッサールーム以上のドレスを所持しているのかもしれない。
そんなドレッサールームに保管されているものの中から、足首丈の比較的動きやすそうなドレスを選ぶ。
ピーコックグリーンの華やかな一着は、春の野草の色合いによく似ている。庭仕事をしていて植物の汁が飛び散っても、目立たないだろう。
髪は三つ編みにして胸の前から垂らしておく。閣下がくれた、ベルベットリボンで結んだ。
これはお客さんから貰った、お菓子の包みに結ばれていたリボンらしい。美しい金糸雀色に染められている。お気に入りのリボンとなっていた。
太陽が高く昇り始めるような時間帯に、ウルリケがやってくる。
「また、身支度をおひとりでされていたのですね」
今日は一緒にドレスを選びたかったらしく、ウルリケはしょんぼりと肩を落としていた。
「ですが、ルヴィ様がお選びになったドレス、とてもお似合いです」
ありがとうと伝えると、ウルリケは微笑みを返してくれた。
閣下はすでに食堂にいるらしい。
「ルヴィ様とお会いするのを、楽しみになさっているようです」
その様子を、孫に会いたいと切望するお爺さんのようだとウルリケは言っていた。
閣下はきっと、保護対象の観察をしたいだけなのだろう。懐かない幻獣と異なり、私は変化が目に見える。心を許しつつあるのを、閣下も気づいているのだろう。そのため、観察のしがいがあるに違いない。
食堂へ一歩足を踏み入れた瞬間、閣下が立ち上がる。「ルヴィ、おはよう。いい朝だね」とさわやかに言いつつ、急ぎ足でこちらへやってきた。
眩い美貌が迫り、目が潰れそうだった。慌ててウルリケの背後へと隠れる。
「ルヴィ、なぜ隠れるんだい?」
「閣下が勢いよく接近したからでしょう。私でさえ、ちょっと怖かったです」
「酷いな。僕ほど無害な男はいないというのに」
「ご自身の顔が破壊力抜群だってことを、ご自覚願います」
「難しいな。陛下みたいに、仮面でも着けようか?」
「そこまでする必要はないかと思いますが」
ウルリケの背中から少しだけ顔を覗かせると、閣下は笑みを浮かべたまま立っていた。
「怖がらせてごめんね」
そんなことはない。少しびっくりしただけだ。首を横に振って否定する。
「そう、よかった。そんなことよりも、ルヴィに見てほしい品があるんだ」
食堂のテーブルに、長方形の木箱が置かれていた。
「ルヴィが欲しがっていたエプロンを、買ってきたんだよ」
なぜ、エプロンが木箱に収められているのか。首を傾げつつ、閣下が開いた箱を覗き込む。
中に入っていたのはレースと刺繍がたっぷり施された、リネンのエプロンであった。
ひと目で高価な品だとわかる。
「ああ、ルヴィ、心配しなくてもいいよ。このエプロンは今日から、ここの離宮で働く女性全員に支給した物だから」
ウルリケを振り返ると、そうだと言わんばかりに頷いていた。
備品的なエプロンであれば、受け取ってもいいのかもしれない。
ただ、このように美しいエプロンを汚したら、罪悪感に苛まれそうだ。
「ルヴィ、気に入ってくれたかな?」
ありがとうと感謝の気持ちを伝えたが、顔が引きつっている自信があった。




