獣人王女エルヴィールは、護衛役をつけてもらう
「ルヴィ、ここの警備を通常よりも増やすつもりだけれど、それでも安全とは言えない。警戒を怠らないように――と言っても、無理があるか」
残念ながら私は獣人であるものの、虎獣人みたいに鋭利な爪はもっていないし、狼獣人みたいに鋭い牙も持っていない。
持っているのは、人より少しだけ優れた嗅覚と聴覚だけだ。視覚と触覚、味覚に関しては人並みである。
山猫獣人である私は、自分自身を守る手段なんて何もなかった。
「君の傍にはウルリケを付けておこう。彼女は国内でも三本指に入る優秀な騎士だから、安心して過ごすといい」
壁側で気配を絶ち、佇んでいたウルリケを振り返る。目が合うと、軽く会釈をしていた。
閣下の護衛を務めるような優秀な人材を、私なんかにさいてもいいのだろうか? なんて思ったものの、私は事件の重要参考人である。今後命を狙われる可能性もあるため、貴重な人材を付けたに違いない。
「君は、ウルリケに少しだけ気を許しているようだからね」
ウルリケを付けてくれたのは、私が彼女に対して警戒を緩めているように見えたからだという。
閣下はなんて優しい人なのか。よく知らない、事件の嫌疑がかかった私に対して、ここまでしてくれるなんて。じんと心が震えた。
「他、僕に聞きたいことはある?」
今は聞くべきことでさえわからない状況だ。それを感じとってくれたのか、閣下はウルリケをちらりと見ながら言った。
「彼女、ウルリケは乳姉弟なんだ。僕に言えないようなことは、彼女に伝えるといいよ」
閣下はウルリケを手招き、私との会話方法を伝授する。
「ウルリケ、彼女、ルヴィはなんらかの理由で喋れないし、ペンを握れないので筆談もできない。唯一、できることは手のひらに文字を書くことだ」
ウルリケに何か話しかけてやってくれと言われる。ウルリケは黒革の手袋を剥ぎ取り、私のほうへ手を差し出してくれた。
突然話しかけろと言われても困るのだが……。
これからお世話になるので、よろしくお願いいたしますと書く。だが、誰もが想像していなかった問題が発生した。
「あ、あひゃひゃひゃひゃひゃ!!」
私が彼女の手のひらに文字を書き始めた瞬間、笑い始めたのだ。
動きを止めると、ウルリケの笑い声もぴたりと止まる。
「ウルリケ、もっと上品に笑えないのか? いや、そういう問題ではないな」
「すみません」
なんでも私が手のひらに文字を書くと、とてつもなくくすぐったいらしい。
「その、閣下は平気なのですか?」
「平気だね。別にくすぐったくないよ」
「そうでしたか」
ウルリケは眉尻を下げ、困った表情を浮かべる。けれどもすぐにキリリとした表情に戻り、覚悟を口にした。
「ルヴィ様、わたくしめのことは気にせず、お伝えしたいことがありましたら、遠慮なく書いてくださいませ」
ひとまず、様付けは止めてほしい。ここでは、王女エルヴィールではなく、ただのルヴィだから。
それを伝えようと、ウルリケの手のひらに指先で文字を書く。だが――。
「あひゃひゃひゃひゃ!!」
「……」
「……」
シーンと静まり返る中、閣下は呆れたようにため息をつく。
「どうやら、ウルリケにこの仕事は難しいようだね」
「いえ、そんなことはないかと思うのですが」
「そうは見えないな」
代わりにウルリケがアルノルト二世の秘書官を務めてくれないか。そんな言葉に対し、ウルリケは「絶対に無理です!」と焦ったように言葉を返していた。
「あの、その、笑うというのは、とても健康にいいそうで、その、ルヴィ様とお喋りするたびに、私は健康になるんだと思います」
胸を張り、堂々とした態度でいたので、なんだかおかしくなってしまう。
声をあげて笑いたかったのに、その瞬間に私の表情は凍り付いてしまった。
これは魔法のせいと言うよりは、これまで笑っていなかったせいもあるだろう。
ここにいたら、私はごくごく普通に笑えるようになるのだろうか?
わからない。けれどもここの人達が、親切で獣人差別をしないことはわかっている。
閣下が言ってくれたように、しばらくここで心と体を休ませてもらおう。
少し元気になったら、恩返しをしたい。
「じゃあ、ルヴィ。僕は仕事に戻るから」
何を思ったのか、閣下は私の指先を掬い取り――そっと口づけをした。
唇が軽く触れただけなのに、そこから火が噴き出しているのではないかと思う。
これは貴族の挨拶だが、された覚えがないので盛大に照れてしまう。
顔が異常に熱い。きっと、呆れるくらい真っ赤に染まっているだろう。
わかりやすく赤面する私を見て、閣下は淡く微笑んだ。
「ルヴィ、いいこにしているんだよ」
そう言って、閣下は去っていった。
客間に取り残された私は、顔を手で扇いで熱が引くようにと努める。
ウルリケが「どうかなさいましたか?」と聞いてきたので、パクパクと口を動かしながら伝えた。
「閣下はいつも、あのような感じですか? とおっしゃっているのですか?」
そうだと頷く。どうやらウルリケは、読唇術を使えるようだ。
「閣下は、そうですね。あのような挨拶をされたのは初めてかと」
どういうことなのか。指先への口づけする動作は、貴族間で行われる挨拶だ。
閣下は王族で、高貴な御方である。そのため、普段はしないとか?
「それはそうと、お食事がまだでしたね」
空腹感も、食欲もまったくない。そう伝えたが、それではいけないと言われてしまう。
「そうだ! オートミール粥を作ってもらいましょうか。閣下がご病気で食欲がないときに、よく召し上がっていたものです」
パンなどの固形物は喉を通りそうにないが、オートミール粥くらいならば食べられるかもしれない。
頭を深々と下げて、お願いした。
ウルリケは懐から正方形の紙を取り出し、さらさらと美しい文字を書き始める。それは、オートミール粥を作るようにという、厨房にいる料理人への指示だった。
書き終わると、ウルリケは紙を折っていき、鳥の形を作った。それを手のひらに載せ、ふっと息をふきかける。
紙でできた鳥は翼をはためかせ、飛んでいった。
どうやらあの紙は魔法が仕込んであるようで、息をふきかけることによって発動させるのだろう。
私が不思議そうに眺めているのに気づいたからか、あの不思議な魔法について説明してくれた。
「あれは、鳥翰魔法という、閣下が独自に作った魔法なんです」
離宮で働いている使用人は宮殿の規模に比べて少ないため、円滑に連絡が取れるように作ったものらしい。
「そんなわけで、使用人とのやりとりは手紙を通じて行っているのです」
なんだか楽しそうな魔法だが、私は文字が書けないので使えない。
指先にインクをつけて書いたらいいのではないかと思いついたものの、指が吹き飛んだら怖いので止めておいたほうがいいだろう。
「オートミール粥ができるまでの間、ここの離宮についてご説明させていただきます」
なんでもここは、ただ閣下がのんびり過ごすだけの離宮ではないという。
暗殺部隊を育成する施設だとか、王族の不正を取り締まる諮問機関だとか、想像したもののすべて外れた。
「ここは、幻獣を保護する施設でもあるんですよ」
幻獣――それは妖精でも精霊でも魔物でもない、賢く気高い生き物の総称である。




