66. 死戦 /その④
この物語には、残酷な描写ありのタグがついております。ご注意下さい。
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レイラの声が届いた。それはあり得ぬ出来事。
そのあとに起こったことは暗殺者にとっては予想外。バーバクたちにとっては起こるべくして起こった出来事。
レイラの声に反応し、ファルハルドの心臓が強く脈打つ。
目を見開く。未だ完全には意識は戻っていない。しかし、元々感覚が鋭く暗殺部隊に追われ続けたファルハルドは、意識が途切れた状態でも周囲の状況を把握。自らに迫る危機を感知する。
だが、半ば意識が途切れた状態。そして、体力は限界まで消耗し、左腕は全く動かず、全身はわずかに動かそうとしただけで激痛が走る。
反撃など不可能。躱すことも難しい。
鉄杭が振り下ろされる。
肉を貫く鈍い音が響く。血飛沫が舞う。
暗殺者は瞠目した。
ファルハルドは迫る鉄杭に右手を翳し、その右掌で鉄杭を受け止めた。
醜い風穴が開き、鮮血が腕を伝う。
それは重傷。だが、単なる重傷。致命傷にはほど遠い。
暗殺者の執念はファルハルドの命には届かなかった。
暗殺者は自分の見ているものが理解できない。なにが起こっているのか。闇に生きる男には理解することができなかった。
暗殺者にとって、今回の作戦は理解できないことの連続だった。己の目論見は全て外れた。
暗殺者は数々の追手を退けてきたファルハルドを確実に仕留めるため、時間を掛けファルハルドの周辺を調査した。
そして、その過程でファルハルドに嫉妬し、悪心を募らせる禿男に目を付け作戦を組み立てた。
当初の計画では、禿男を誑かしファルハルドを襲わせる。そして、禿男を目眩ましとし、その闘争の隙を衝き、ファルハルドに忍び寄り刺殺する予定であった。
なのに禿男は勝手にレイラに迫り、口論の果てに斬り捨てた。そのため、充分な準備のできぬまま騒動が起こる。
いざ騒動が始まれば、ファルハルドは暗殺者にも付け入る隙を見出せぬほどの狂乱状態となった。
バーバクが動きを止めたことでやっと隙を見出すが、バーバクの拳を避けようとしたファルハルドの無意識の動作により、心臓を狙った暗殺者の剣は左肩を貫くに留まった。
毒を塗った刃で貫き、ひとまずはこれで充分と場から離脱しようとすれば、無関係な筈のカルスタンたちに邪魔をされる。
カルスタンたちを降し、ならばと確実にファルハルドに止めをさそうとすれば、ジャンダルたちが駆けつけ深手を負わされた。
全ての邪魔者を排除し、ファルハルドの命を取れるところまでくれば、気絶していた筈のバーバクに妨げられる。
そしてついには、死にかけていた筈のファルハルド自らが暗殺者の攻撃を防いだ。
暗殺者にとって一連の出来事は悪い夢のようだった。こんな現実があっていい筈がない。
暗殺者の心は乱れに乱れ、思考は停止。もはや呼吸も儘ならない。
バーバクたちにとってカルスタンや自分たちが暗殺者に立ち塞がったのは当然のこと。考えるまでもない当たり前のことだった。
レイラに名を呼ばれたファルハルドが起き上がったのも驚くことではない。愛する相手が願いを込めて名を呼んだのなら、どんな状態からでも立ち上がってみせる。それを不思議とは思わない。
不思議なことはただ一つ。バーバクたちの理解を超えたことはただ一つ。
なぜ。なぜ、戦士でもないレイラが、致命傷になるほどの深手を負いながらこの場に姿を見せることができたのか。
それだけが理解できなかった。
バーバクたちに理解できていなかったのはレイラの強さ。戦士たちとは違う、人としてのその強さ。
彼女にとっての譲れぬ二つの想いがレイラを衝き動かした。相反し、同時に同じだけ大切な二つの想いが。
一つは培ってきた娼婦としての誇り。そして、もう一つは一人の女性としてファルハルドに向ける想い。
重傷を負ったレイラは多くの神官たちの懸命な祈りにより、生死の境でぎりぎり踏み止まることができているに過ぎない。今も変わらず危険な状態のままにいる。
それでもファルハルドを追いかけた。追いかけずにはいられなかった。
高級娼婦としての誇りにより、真摯に自分を求める客には必ず満足と喜びを与える。自分の状態も相手が何者なのかも関係ない。誰であったとしても、自分を求めた者、皆にせめてひと時の安らぎを与える。自分といるその時は全ての悩みを忘れさせ、深い安らぎを与える。例外はない。
それが娼婦としての誇り。
自分のため苦しみを背負ったファルハルドをそのままにして、一人安静にするなど娼婦としての誇りが許さない。
そして一人の女性としても。
自分を娼婦としてではなく、ただの一人の女性として扱い、見下げるでもなく見上げるでもなく対等の存在として誠実に向かい合う。
そして、自分が傷付けられたと知れば正気を失うほどに狂う。そんな男をそのままになどできなかった。
自分の無事な姿を見せ、安心させたい。荒れ狂う理由などないのだと、もう大丈夫なのだと伝えたい。
なにより。その手を取りたい。その顔を見たい。話したいことがある。伝えたい言葉がある。だから、どうか。どうか、無事で。
だから、追いかけた。動かぬ身体を館の者たちに支えられ、広間を横切り白華館の入口に辿り着いた。ほんのわずかな距離を移動するだけで、途中何度も意識を失いかけながら。
そして、見た。ファルハルドに迫る敵を。ファルハルドの危機を。
レイラは無我夢中で叫んだ。彼女は瀕死の状態。夢中の叫びはか細く、弱々しい声でしかなかった。
だが、届く。ファルハルドには。狂気に至るほどの哀しみを見せたその男には。
そして、ファルハルドは応えた、レイラの声に。
暗殺者は、闇に生きる男は人の想いを見誤った。
ベルク王の命を受け、策を練り、立ち塞がる者たちを降した凄腕のイルトゥーランの追手は、人の想いを見誤った。
故に、あと一歩が届かない。ファルハルドの積み重ねた出会いと時間、人の縁が暗殺者の刃を届かせなかった。
思考停止した暗殺者には、次の一手が思い浮かばない。どうすべきかわからず、身動きもできない。
その鉄杭を握ったままの暗殺者の拳を、ファルハルドが上から堅く握り締める。バーバクが起き上がり、重い身体を動かし暗殺者を逃がさぬようにきつく抱え込む。ハーミは決着の刻を見守る。
そして、一人の人物が歩み寄る。足を引き摺りながら地面に落ちたナイフを拾い、一歩ずつゆっくりと暗殺者に近づいていく。
暗殺者の傍らに立ち、静かに告げた。
「追手さん。今日、あんたの命を奪うのは、おいら、さ」
ジャンダルが敵の喉を掻き切った。




