21. 年の終わり /その⑤
この物語には、残酷な描写ありのタグがついております。ご注意下さい。
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ファルハルドは鞭を腰に納める。二人は同じ黒い小剣を向け合い、対峙する。
ファルハルドと敵は互いの様子を窺い合う。逃げ出すことなどあり得ない。隙を見せることなどあり得ない。考えることはただ一つ。二人ともこの場で相手を仕留めることだけを考える。
このあと訪れる決着の瞬間に向け、身体の力だけを抜き、集中力を高め精神を研ぎ澄ます。
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追手は後先を頭から消した。考えるのは今日ここでファルハルドを仕留めることだけ。
もはや暗殺部隊には別任務についている数名と部隊長を除けば、残りは訓練中の見習いしかいない。
自分たちこそが最後の切り札であり、絶対の切り札である筈だった。
悪獣使いに付いていた手の者の話から判断し、自分たち二人ならファルハルドを確実に始末できる筈だった。
だが、ほんの数箇月迷宮で戦っただけで、ファルハルドの実力は想定よりも上がっていた。
追い詰められた状況でも変わらぬ冷静さ、なにより視界から外れた場所の動きまで把握するその空間把握能力。
想定を越える粘り強さを見せ、戦況を有利に進めながらも追い込むことができなかった。
結果、仲間を倒され状況は変わる。
たとえ暗殺部隊の者全てが死に絶えようとも、あのベルク王がファルハルドの暗殺指令を取り消すことはない。
なんとしても今日この場でファルハルドを消さねばならない。先達の死を無駄死ににせぬために、後進を犬死させぬために。
たとえ、我が身がどうなろうとも。
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敵は懐から一つの袋を取り出した。その袋はなんなのか。ファルハルドはなにが出されようとも、敵がなにをしてこようとも対処できるよう意識を集中させ、同時に不意打ちに備えるため周辺一帯への意識の拡散を行う。
敵はその袋の中身を吸い込んだ。敵の様子が変わる。
それまで消されていた殺気が、弾けるように膨れ上がる。口からは止めどなく涎を流し、奇怪な唸り声を上げる。全身の毛穴が開く。筋肉が膨張し、皮膚が張り裂ける。目は血走り、理性の光が消える。
その変化を見たファルハルドの頭に獣人という言葉が浮かんだ。獣人はあくまで闇の怪物。間違っても人が獣人と化すことなどあり得ない。だが、その変化はファルハルドに獣人を連想させた。
その連想は半分当たっている。
敵が吸い込んだのは、獣人の脳髄を主原料とした暗殺部隊に伝わる秘薬。言わば人を悪獣化させる呪いの薬物だった。
服用した者は理性と思考の大半を消し飛ばし、二度と元に戻ることはできない。引き換えに身体に沁み込ませた人の戦闘技術を一定程度保ったまま、人の限界を越えた身体能力を得る。
人間としての自分と引き換えに、目的を果たす絶対の力を得る禁断の手段だった。
敵は身に着けている草臥れた革鎧を引き千切り、何度も自分の胸を叩く。雄叫びを上げ、その目がファルハルドを捉えた。
来る。疾い。その一歩目に先ほどまでの最高速度が乗っている。
真っ直ぐ剣で突きを放ってくる。荒い剣技だが、速く力強い。
ファルハルドは寸前で躱した。その時、逆側の脇腹に衝撃を受ける。視界がぶれる。鎧と厚い服越しでも息が詰まる。
敵は力任せに無理な体勢から蹴りを放ってきた。不自然な体勢から放ってきた筈の蹴りに、あり得ないほどの威力が載っていた。
ファルハルドは壁に叩きつけられ、蹲りそうになるがその余裕はない。敵は次々と剣と拳を繰り出してくる。
どちらも大振りだが、速い。
ファルハルドは蹴りの衝撃に目が眩み、息を乱しながらも必死に避ける。
剣はなんとか避けたが、意外な角度からくる拳を避けきれない。
肩を打たれ、そのまま左腕を掴まれる。敵はその圧倒的な握力で一気に腕を握り潰そうとする。
ファルハルドは自らの腕を掴む敵の腕に剣を振り下ろす。
硬い。与えることができた傷は浅い。
それでも拳を振り解き、逃れることはできた。
敵は傷を一切気に掛けず、再び無造作に剣を振るう。
ファルハルドはしゃがみ込む。
敵の剣は壁に当たる。壁を深く削り、剣は折れる。
ファルハルドは素早く距離を取り、深く息を吸い隅々にまで力を行き渡らせる。
意識を切り替える。
敵は人ではない。人間と戦っていると考えるべきではない。
ここは迷宮。相手は怪物。悪獣同様の力と凶暴さ。木人形や泥人形のような人とは違った動き。それらを併せ持つ怪物相手なのだと意識を替える。
思考を読み狙いを予想するのではなく、動きだけに注目し癖を把握し対応する。
敵は剣を失った。残るは自らの身体を使った攻撃。過剰な筋力で無理な動きをしてきたとしても、木人形のように腕が伸びる訳ではない。泥人形のように急に腕が増える訳ではない。
動きにだけ集中し、冷静に対応すればファルハルドなら避けられる。
だが、攻撃が通用しない。敵の攻撃を避け斬りつけるが、筋肉に阻まれ深く斬り裂くことはできない。鞭による打撃でも充分な損傷を与えることは難しい。
かといって、避けるだけではいずれ体力が尽き、躱しきれなくなる。強大な身体能力を持つ敵の体力が先に尽きることを期待するのは望みが薄い。
ならばどうするか。
悪獣相手には額の目を狙った。
石人形なら細く弱い部分を狙った。
ならば今回も。
筋肉に覆われず弱い筈の手首や顔、あるいは首を狙う。だが、敵は素早い。容易くは当たらない。少しでも機動力を奪えるよう足も狙うが、これは効果が薄かった。
拳が繰り出される。伸ばされる腕を剣で斬りつけ捌く。
袖を掴まれる。跳び、宙で回転。
堪らず敵は袖を放す。
着地したファルハルドの喉に掴みかかってくる。
剣を当てる。腕ではなく、伸ばされた指に。
予想より硬い手応え。指を斬り落とす。
それでも敵は怯まない。攻撃は当たっているが、敵は痛みが麻痺しているのか、傷を負っても怯むことはない。
握り締められた拳が、ファルハルドの顔面を砕こうと迫る。
剣を翳し受ける。敵の拳に刃が食い込む。
しかし、浅い。これも薬物の効果。秘薬が最初より深く浸透している。筋力の増大や身体能力の向上だけではなく、皮膚や骨の硬質化が進む。敵は時間経過と共に、より一層人からかけ離れていく。
攻防は続く。ほとんどの攻撃を避ける。避けられぬ場合も可能な限り逸らし、被害を抑えた。
まともにくらえば一撃で致命傷になりかねない。そしてファルハルドの攻撃は傷を与えているが、敵にあまり効いた様子はない。
ファルハルドは息が乱れ始めてきた。体力の限界が近づいている。
一方、敵の動きは最初から変わらない。少しずつ込み上げてくる焦る気持ちを抑え込む。
攻撃を続け、歯を折り片耳を落とす。
それでも敵に自らの傷を気に掛ける様子はない。
額に傷を負わし、流れる血で敵の視界を妨げる。わずかずつだが敵の動きも悪くなってきた。
もはや、はっきりとファルハルドの呼吸は乱れる。ファルハルドの回避行動が一瞬遅れ、硬質化した敵の爪が頬を切り裂いた。
敵は好機と感じたのか、身体全体でファルハルドの逃げ口を塞ぎ、体当たりをするように壁に押し潰そうと急襲する。
ファルハルドは左腕を真っ直ぐに突き出す。
敵の肩に触れた瞬間、残った体力を振り絞り、敵の肩を支点に回転。敵を跳び越え回避する。
ファルハルドが攻撃を躱し、敵は壁に激突した。異変が起こる。
敵の動きが止まる。
胸を押さえる。喉を血がせり上がり、吐血する。
振り返った敵は目や鼻、全身の穴から血を流している。
薬物の副作用か、限界を超えた動きを続けた反動か、あるいはその両方か。その強力過ぎる力と変化に耐えきれず、身体が悲鳴を上げている。
ファルハルドはここを勝負どころと見定めた。
敵は血を流しながらもまるで怯まない。長く尾を引く咆吼と共にファルハルドに迫る。
ファルハルドは深く息を吸い、止める。迫る敵を迎え撃つ。
敵は走り寄り、獣の如く鋭く変形した爪でファルハルドの胸を貫かんと低い姿勢から貫手を繰り出す。
ファルハルドは下から迫る貫手を、さらに低い姿勢で掻い潜る。
敵の背後を取る。
敵が振り向く。
二人の視線が交わる。
小剣を手放す。剣は地面に刺さる。
ファルハルドは鞭を抜き、振り向いた敵を横殴りに打つ。
伸びた腕を戻す動きでさらに打つ。
打つ。打つ。敵を打ち据える。
敵は目が潰れ、頭が割れるが倒れない。全身を己の血で赤く染めながら、雄叫びと共になおも向かって来る。
ファルハルドは鞭を捨て、地面に刺さった剣を抜く。
裂帛の気合と共に、叫び声を上げる口に剣を突き入れる。
剣は深く突き刺さり、脳髄を断つ。
それでも敵は動きを止めない。藻掻き、殴り、肉を裂こうとする。
ファルハルドは強引に敵の胸に足をかけ、全力で蹴り飛ばす。敵は倒れ、ファルハルドは壁に身体を打ちつける。
息が詰まる。懸命に息を吸う。すぐには動けない。
敵に目を向ける。敵は仰向けに倒れ、後頭部から飛び出した小剣の刃先が地面に刺さり、敵を縫い止めている。
もはや敵は立ち上がれない。両眼は潰れ、見ることもできない。それでも未だ唸り声を上げ、闇雲にその両腕を振り回し続けている。
すでに敵に戦う力は残っていない。放っておいても、朝までには息絶えることだろう。
だが、ファルハルドは鞭を拾い上げ、蹌踉めきながら一歩ずつ近づいていく。
自分をここまで追い詰めた敵を、人であることを捨ててまで使命に殉じた敵を、虚しく死なせはしない。闇に生きる兵士に、せめてもの戦士としての結末を。
呼吸を整える。一歩踏み出すごとに力強く、足取り確かに加速する。
跳躍。母譲りのイシュフールの身軽さを活かし、高く跳ぶ。
敵のその潰れた目を見詰める。確かに目が合ったと感じた。
落下。全てを籠め、鞭を突き出す。
狙い過たず、心臓を貫いた。
敵はついにその動きを止めた。
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ファルハルドは敵の生死を確認した。完全に息絶えている。多量の血を流し、その身体は一回り以上萎んでいるように見える。
もう一人の敵も確認する。こちらも冷たくなっている。
改めて路地を見回す。他に人影は見当たらない。明日になれば衛兵がこの二人の死体を見つけるだろう。
悪神の三日間の夜に出歩き、たまたま怪物に襲われた哀れな被害者たちと判断するだろうか。あるいは悪神の加護を受けた呪われた悪神の徒と、勇敢な挑戦者志望が相打ちになったと判断するだろうか。
襲われれば倒す。ただそれだけ。当たり前のこととしてそう考える。
だが、それでも。それでも、こいつらはこんな死に方をするために生まれてきたと言うのか。そんな訳がない。人はこんな死に様を見せるために生まれてくる訳がない。
冷たく横たわる骸を見下ろすファルハルドの胸を、凍てつく風が吹き抜ける。
いつしか、パサルナーンの街に雪がちらついていた。
次話、「光の神々の三日間」に続く。




