51. 幻想迷宮 /その⑥
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ファルハルドはフィルーズの生を追体験した。過去の自分であり、もう一人の自分の生を。
それは重なり合う部分と異なる部分のある人生。
だが、とファルハルドは思う。根幹となる価値観は同じであると。異なる部分もまた、決して受け入れられないものではなく、むしろ自分に欠けている部分を補い広げてくれるものであると。
フィルーズの魂が目覚めてより、ファルハルドとフィルーズの魂はぶつかり合い、ファルハルドは存在が揺るがされる痛みを感じていた。今、その痛みは和らいでいる。
元々、目覚めたフィルーズはファルハルドと取って代わろうなどとは望んでいなかった。
自分はすでに過去の存在、ただの魂の欠片。今世を生きるのはファルハルド。
どれほど重なり合い、魂を受け継いでいたとしても別の人生を生きる別の人間。
望むのは今を生きるファルハルドが試練を、困難を、悲劇を乗り越えられるよう力を貸すこと。ファルハルドが自分の人生を全うできるように、と。そして、叶うなら自分ができなかった分も幸せになり、愛する者を幸せにして欲しい、と。
存在が揺らぐほどの痛みが生ずる魂のぶつかり合いが起こっていたのは、ファルハルドがフィルーズの魂を異物として拒絶していたから。
もはやファルハルドは拒まない。その思いと人生を我が事として受け入れる。フィルーズの闘志を、充実感を、喜びを、悲しみを、無念を受け入れる。為せなかったその全てを今世で為すと決意して。
二つの魂が接するその箇所で隔てる境が解け、ファルハルドにフィルーズの魂が流れ込む。
二つの魂は一つとなり、重なり合う部分は強化され、異なる部分は補う。ファルハルドはフィルーズの意思を、知識を、経験を我が物として得る。
ただ、ファルハルドがフィルーズの魂を引き継いだ生まれ変わりであっても、所詮は別の人間。異なる自我を持つ以上、全てが完全に解け合うことはない。
解けない部分。それは極めて個人的で、とても大切な思い。誰を愛するのかであり、その愛する相手へ向ける想いのこと。
解けない部分があることで、その箇所が違和感を生み、違いを強調し、次第に存在を揺るがす痛みが甦ってくる。解け合った筈の箇所が緩み始め、このままではいずれ魂はばらばらとなり崩壊する。
「まったく、仕方のない人たちね」
呆れるような、温かく見守るようなセリアの声が唐突に掛けられる。
「二人とも、どれだけ我が強いのかしら。こんな時くらい、もう少し融通を利かせなさいな」
呆れたような口調でありながらどこか嬉しそうなのは、どうしても手放せぬ想いの一つがフィルーズがセリアに向ける想いであるからだろうか。
「仕方がないから、私が手助けしてあげるわ」
蜂蜜色に透き通っている状態で保たれていたセリアの形が、端から光の粒子となって解けていく。
「セリアッ!」
セリアは微笑んだ。それは慈愛に満ち、全てに満足した幸福の笑み。
「私は満足よ。貴方のお陰で望みは叶った。それにこれでこの人と真に一つとなれる。だから、私は幸福者だわ。ありがとう、フィルーズ。ありがとう、ファルハルド」
ファルハルドにセリアの魔力が流れ込む。それは剣を胸に突き立てた時とは似て非なるもの。
セリアの魔力や魂が区別できる状態ではない。完全にファルハルドの魂と一体となる。そして、それはフィルーズの魂とも。
それは幻影だったのか。微笑み、セリアへと手を差し伸べるフィルーズが姿が見える。
セリアはフィルーズの手を取り、その胸へ身を預けた。フィルーズはセリアの頬に触れそっと口付けを交わし、二人は固く抱きしめ合った。
二人の姿は解け合い光の粒子となり、ファルハルドへと流れ込む。フィルーズは、セリアは、わずかな違和感も残さずファルハルドと一つに解け合った。
ファルハルドは感じる。己が内が満ちていることを。欠けたる不安定さが消えていることを。半ば蜂蜜色に透き通っていた身体も通常の状態に戻っていた。
ファルハルドは目を上げる。その視線の先では二人の姿があった。フィルーズとセリアが肩を並べ、幸せそうに微笑み合っている姿が。
ファルハルドは二人に頷いた。二人は優しい目で頷きを返す。
次第に二人の姿は宙に溶けていくように薄ぎ、フィルーズとセリアは姿を消した。ファルハルドは胸に手を当て、二人の幸せを願った。
ファルハルドは静かな目を周囲全てを埋める黒い霞の集まりに向ける。
黒い霞は一斉にファルハルドに襲いかかってきた。次々とファルハルドに触れる。負の感情が引き起こされる。しかし、それはさざ波。わずかな感情の揺れを生じさせるのみ。
ファルハルドが静かに歩き出せば、黒い霞はファルハルドに道を空けた。
身の回りから光の粒子が舞い上がり、集まっていく。光の粒子は一つの形を形成する。
その姿を見、ファルハルドは泣き出しそうになった。それはずっと会いたいと願っていた大切な相手。
「スィヤー……」
スィヤーは嬉しそうに吠えた。
ファルハルドは手を伸ばす。残念ながら、今のスィヤーは光り輝く霞のようなもの。この不思議な世界であっても触れることはできなかった。
それでもスィヤーはファルハルドの手に戯れついてくる。
「君がいてくれて、どれほど心救われたことか。ありがとう。そして、守れなくて申し訳なかった」
ファルハルドは深々と頭を下げた。スィヤーは触れられないが、尻尾を振り振りファルハルドの頬を嘗める仕草をした。
スィヤーは大きな声で二度吠え、ファルハルドを促す。スィヤーは歩き出し、ファルハルドはそのあとを付いていく。
その歩みに迷いはない。スィヤーが案内してくれるのなら、たとえ行き着く先が悪神の住処であっても構わない。
何度も分岐点を曲がり、とても長い距離を歩く。スィヤーは時々振り返ってはファルハルドの姿を確かめる。その度にファルハルドはスィヤーに追いつき、頭を撫でる仕草をする。スィヤーは機嫌良く鳴き返す。
いつまでもこうしていたい。ただ、やがて終わりが見える。視界の先に、最初に見えた呆れるほどに大きな大樹の姿が現れる。
大樹が見えてからも何度も道を曲がり、迂回を繰り返し、やっと大樹の下に辿り着いた。
そこにいる存在にファルハルドは軽く目を見張った。大樹の下には闇の怪物たちが群れを成して屯している。
そこにいる闇の怪物は『貪る無機物』から『忌まわしき悪竜』まで各種一体ずつ。悪魔の姿は見当たらない。
ファルハルドは身構えることなく群れに近づいていく。大樹の下に屯する怪物たちからは敵意が感じられないために。先を進むスィヤーが平然と案内しているために。
怪物たちはスィヤーとファルハルドに道を譲る。間近で見れば、この怪物たちの身体も半ば透き通っている。
スィヤーは大樹の根元まで進み、ファルハルドに振り返った。追いついたファルハルドに甘えるように身体を擦りつけ、一声鳴いた。
スィヤーは真っ直ぐ大樹に向け進み、そのまま大樹に溶け込むように消えていった。
ファルハルドも根元まで進み、一度見上げた。
樹冠は見えない。根元からでは視界全てを大樹の枝葉が覆っている。その樹高は山よりも高く、その枝葉の広がりは街よりも広い。
ファルハルドはそっと大樹の幹に触れた。その瞬間、精霊たちの持つ知識や感覚が流れ込んできた。
次話、「王都戒厳」に続く。
しばらく更新お休みで、次回更新は10月25日予定です。済みません。




