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深奥の遺跡へ  - 迷宮幻夢譚 -  作者: 墨屋瑣吉
第三章:巡る因果に決着を

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48. 幻想迷宮 /その③



 ─ 3 ──────


 不安、悲しみ、怒り、憎しみ、恐怖、後悔。一気に湧き上がる負の感情にファルハルドは息もできない。


 黒いかすみたちは次々と現れ、襲い来る。


 その内の何体かはファルハルドをり抜ける。それでも数多くの黒い霞に触れられ、その度に負の感情は強まっていく。

 ただ一つだけで心を全て塗りつぶす強烈な負の感情の連鎖に、心は掻き乱され揺さぶられる。



 いつしか、取り囲む茫洋とした黒い霞たちの問いかけが頭に響いていた。


 どこまでいっても辛い出来事ばかり。大変だな。きついだろう。いっそ、全て忘れて楽になれば良い。


 ふざけるな。その反発は怒りとなり、ファルハルドを掻き乱す。


 子が攫われて一月半。もう生きてはいない。諦めろ。


 ふざけるな。その反発は不安となり、ファルハルドを掻き乱す。


 妻としなければ、斬られることもなかった。きっとあのまま助からないだろう。


 ふざけるな。その反発は恐怖となり、ファルハルドを掻き乱す。


 お前さえ生まれてこなければ、母親は今も良い暮らしをしていただろうに。


 ふざ……。その反発になりきれない感情は、ファルハルドの自我を根底から揺さぶる。


 いくら、『あなたは私の喜び』、と呼ばれたからと言って、それは本当に本心からのものだったと思うか。絶望的な暮らしから目をらすために自分自身にいた偽りだったのだ。


 そ、……な、……こと……い。


 お前は忌み子。呪われた存在。誰からも必要とされない。誰も幸せにできない。お前さえいなければ誰も不幸とならなかったのだ。


 …………。


 辛いな。苦しいな。わかるとも。もう重荷を抱え込まずとも良い。全て忘れてしまえ。


 駄目だ。忘れない。忘れたくない。忘れることなど許されない。


 そんな気張ってどうする。お前は充分に頑張ってきた。もう良い。もう充分だ。さあ、楽になれ。


 駄目だ。俺には為すべきことがある。為すべきことを為す。為さずに立ち止まることは許されない。


 なにを言っている。誰になにを言われてたところで良いではないか。頑張る必要などない。楽になれ。


 そうだ。確かに誰になにを言われても知ったことではない。そうだ。確かに、そうだ。


 そうだろう。さあ、楽になれ。


 誰になに言われようとも関係ない。これは俺の望み。俺の意思。これが俺の生き方。俺という存在。

 楽になどなる気はない。俺は為すべき事を為す。


 …………。これだけ言ってもわからないか。もう良い。消えよ。


 膨大な数の黒い霞が一斉にファルハルドに襲いかかった。これまで以上の負の感情が、強く、激しく、数多く、湧き起こる。



 それは人に耐えられるものではない。ファルハルドは懸命に抵抗する。しかし、抵抗虚しく、次々に湧き起こる負の感情に思考も記憶も自我ですら塗り込められていく。


 アレクシオスの救出に間に合うかだろうか。大丈夫だ。

 母が死んだ。感情を抑えろ。ナイイェルが斬られた。心気を静めろ。

 イルトゥーラン王は許せぬ。糞が。

 自分がいる限り皆が不幸になる。だが。

 母を助けられなかった。しかし。

 できないかも知れ、なぜ救、許さ、憎い憎い憎、自分さえ……。いなければ。それなら。いっそ。無理だ。なら。それは。で。なる。そう。だ。だ。だ。あ。だら。


 激しく心掻き乱され、心は軋み悲鳴を上げる。

 高まる負の感情にいよいよファルハルドが耐えきれず、心がばらばらに引き裂かれそうになった時。声が聞こえた。


「情けないわねぇ」


 な、ん、だ。ファルハルドは負の感情に押され閉じていた目を薄らと開く。


 人影が見えた。透き通っているためわかりにくいが、おそらくは女性。それも以前に会ったことがある。

 ただ、負の感情に掻き乱され、上手く頭が回らない。それが誰であるのか思い出せない。


「はあー、まったく」


 女性は大袈裟に溜息をつき、指を鳴らした。途端にファルハルドを取り囲んでいた黒い霞が消え去った。


「立ちなさい、ファルハルド」


 ファルハルド? それは誰であったか。


「立ちなさい、ファルハルド」


 女性は同じ言葉を繰り返した。床に倒れ込んでいたファルハルドはその言葉にうながされ、おずおずと立ち上がった。


 女性の人影と目の高さが合う。それが誰であるかを知っている。だが、その名が思い出せない。


「酷い人ね」


 女性は悪戯っぽく笑い、顎を上げ表情を変えた。途端にがらりと雰囲気が変わる。


わらわを忘れるとは薄情な男ぞ」


 口調よりも、その唯一無二の圧倒的な存在感で思い出す。


 セリア。三百年前の英雄の一人にして亡者の女王。自らの胸に剣を突き立て、ファルハルドの中に魔力となって消えた女性。


 記憶や感情の断片が残されているとは感じていたが、はっきりとした意思や自我は感じたことがなかった。

 この不思議な世界の作用でこうして形を取ったということだろうか。


 ファルハルドはセリアのことを思い出すと同時に自らのことも思い出す。


 自分はファルハルド。今は攫われた我が子アレクシオスを助け出すため、イルトゥーランの王城へ乗り込む途中。


 待ち受けるファルハルドとアレクシオスの命を狙っているという『調和を乱すもの』に対抗する手段を手に入れるため、精霊たちの世界、『無形界』で精霊の試みを受けている最中。


 負の感情に掻き乱され、危うく自我が塗りつぶされかかっていた頭がはっきりとした。



 セリアは安堵の表情でそっとファルハルドの頬に手を当てる。


「自分を取り戻したようね。まったく、私には『俺はファルハルド。慈愛の母ナーザニンの子。そして、ナイイェルの夫、アレクシオスの父親であるファルハルドだ』なんて宣言しておきながら、このていたらく。情けない人ね」


 その言葉は少しきついが、表情はとても柔らかかった。


「とはいえ……」


 セリアは厳しい表情で周囲に視線を巡らせる。視線の先には、再び姿を現した黒い霞たちがいた。


 黒い霞たちはセリアがいるためか、ファルハルドに近づくことができないが、続々と数を増やし続けている。


「このままでは良くてさっきの繰り返し、悪ければ瞬く間に完全に自我を塗りつぶされるわね」


 ファルハルドも対策を考えるが、どうにも上手い方法が思いつかない。


 一体や二体なら跳び越え振りきることもできたかも知れないが、もはや黒い霞は何体いるか数えることもできないほど。魔法剣術で斬ったところで意味はない。

 できるとすれば、歯を食い縛り、黒い霞の群れを突っ切ることぐらいか。


「無理に決まってるじゃない」


 セリアは呆れて言う。口に出した訳ではないが、どうやらファルハルドが頭に思い浮かべた考えは伝わるようだ。


 セリアはわずかに迷う素振そぶりを見せたあと、じっとファルハルドの目を見詰める。

 しばしそうして、不意にふっと力を抜き、微笑んだ。


「これしかないわよねぇ……。ファルハルド、愛しいあの人の生まれ変わり。貴方なら、必ず」


 セリアはファルハルドの胸にぴたりと手を当てた。


「貴方の中に眠るフィルーズとしての魂を呼び起こす」

「フィルーズであった頃の記憶や感情なら思い出しているが」


 セリアは首を振る。


「違うわ。それは私と会うことでフィルーズとしての魂の欠片が活性化し、余波が伝わってきた程度の話。

 行うと言っているのは、眠れるフィルーズの魂を完全に目覚めさせるということ。耐え、完全に混ざり合えば、きっと貴方は強靱な欠けたる所のない魂の持ち主となる」


 ファルハルドは目を細めた。


「耐えられなければ?」

「魂は砕け散り、貴方は崩壊する」


 相も変わらずの綱渡り。そして、ファルハルドの選択も変わらない。


「わかった。頼む」


 必要ならば、行う。ただ、それだけ。そして、ファルハルドは珍しく、にやりと笑い付け足した。


「『どれほど困難なことであったとしても、覚悟を決め挑むのなら、乗り越えられない試練などない』んだろ」


 セリアも笑う。


「ええ、そうよ。私は貴方を、貴方たちを信じている」


 セリアは不思議の言葉を唱え始める。それはフーシュマンド教導たちが使う言葉とも少し違った響きを持つ言葉。


 そして、その言葉と共に、次第にフィルーズの魂が形を取っていく。

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