46. 幻想迷宮 /その①
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遠い地の端から朝日が昇る。
ここはイシュフールたちにとっての聖地の一つ。人界から遠く離れ、精霊たちの世界と最も近しい場所。
その高山でファルハルドは十日十晩を過ごした。
この場の空気は薄く、肌を切るほどに冷たく乾いている。息をするだけで肺は痛み、ただいるだけで身体は急速に消耗していく。
ある日には立っていられないほどの強風が吹き荒れ、ある日には低い位置にあった雲が見る見る間に高度を上げ、視界全てを埋め尽くす降雪があった。
老爺が作った雪の天幕はそんな過酷な環境でもびくともしない。
遮るものがない入口からは風も雪も吹き込むが、どれほどの強風でも壁が崩れることはなく、どれほど降雪があろうとも屋根が潰れることはない。
ファルハルドは老爺の言葉に従い、周囲の環境とその変化に同調するため、感覚を研ぎ澄まし目を凝らし耳を澄ませた。
雪の壁の向こうに吹く風を、雪の屋根に積もる雪を、吹きさらしの入口から見える光を把握しようとする。
ここは人界から遠く離れた高山の山頂。他には誰もおらず、他にはなにもない。
妨げるもののない環境で進む、極度の集中。天地自然の力が強い場で強まるイシュフールの特性が合わさり、ファルハルドは嘗てないほど敏感に周囲の変化を捉えた。
ただそれでも、わからなかった。どうすれば天地自然と同調できるのか。そして、一つとなれるのか。
ファルハルドは焦燥に駆られ、より深くより確かに周囲の変化を捉えようと、雪の天幕を出て寒風吹きすさび降雪積もる直中にその身を置いた。
ファルハルドは食事を摂ることも休息を取ることも忘れ、座ったまま身動ぎ一つせずただひたすらに感覚を研ぎ澄ます。
ついに風の、雪の、光の一つ一つまでを捉え始める。
その頃には疲れ果て、意識は朦朧とし、ファルハルドは自分が起きているのかも眠っているのかわからず、何日経ったのか、今が昼か夜なのかもわからなくなっていた。
いつしか、幻影が見え始める。吹く風がなにかを話す人の声のように聞こえ、降る雪がまるで遊び回る幼子たちのように見え、変化する光の中に人影が見えた。
幻影は語りかける。こんなことをしてなんになる。
幻影は誘う。ねえねえ、一緒に遊ぼうよ。
幻影は命じる。なにをしているの。早くアレクシオスを助けに行きなさいよ。
幻影は入れ替わり立ち替わり、絶えることなく現れる。
突然現れ祖父だと名乗る老人の言葉を信じるなんてどうかしているんじゃないか。
天地自然と同調し、一つとなるってなあに? 意味不明なんだけど。
こうしている間にも、アレクシオスは泣いているわ。一人、こんな山の上でぼおっとしている場合じゃないんじゃない。
ファルハルドは幻影に反発し、懸命に反論する、ことなどない。静かに受け流す。
幻影の語る内容はファルハルドの内にある迷い。だが、それは心の一部でしかない。
ファルハルドの思考は単純。老爺の言葉に従ったのは祖父だと名乗ったからではない。そのまとう気配を感じ取り、信じられると思ったから。
おそらくは老爺は精霊との交わりを得た者で、それをファルハルドに流れるイシュフールの血で感じ取ったから。
信じられると思ったのなら、信じる。アレクシオスを助けるために天地自然と同調し、一つとなることが必要だと言うのなら行う。できないのなら、なんとしてもできるようになるまで行う。それだけのこと。
もちろん人である以上、ファルハルドにも迷いも弱さもある。それが幻影を生んだ。
ただ、ファルハルドは戦士。為すべきことを為すため、妨げるとなるものを切り捨てるのは当たり前。幻影の話を邪魔だと感じた瞬間、ファルハルドは心を絞り、研ぎ澄ませた。
無意識下の迷いすら排除し、周囲の変化を捉えることだけに集中した時。
ほんの刹那、ファルハルドは自身と周囲を隔てる境が消え、周囲と一体となる感覚を味わった。
同時に声が聞こえた。それは先ほどまで聞こえていた迷いの幻影の声とは違う。心よりももっと深い部分、魂に響く声。
明確に言語化された声ではない。それでも、揺蕩うようなその声からは確かな意思が伝わってきた。
ファルハルドがその声をもっと良く聞こうと意識を傾ければ、たちまち周囲との一体感は消失した。
「今のが……」
ファルハルドは掠れた声で呟いた。
「आम्। ।(そうだ)」
すぐ傍から、静かで確かな声が掛けられる。いつの間にか老爺が傍に立っていた。ファルハルドは夢から覚めた心地で老爺に話しかける。
「今日が十一日目なのか」
老爺は微笑んだ。
「सद् कृत।……(よくぞ、この十日間でそこにまで辿り着いたな。お前は微かに入口を開け、その先を垣間見た)」
「先……」
ファルハルドは汚れを払いながら、ゆっくりと立ち上がった。
「आम्। ।(そうだ)」
老爺はそっとファルハルドの肩に触れた。ファルハルドは蹌踉めく。
「भोजनस्य……(食事を用意する)」
見れば、一方の手には食材の入った陶器の壺と薪や食器の入った袋を持っている。
ファルハルドを雪の天幕に促し、共に中に入る。陶器の壺には脚と棒や縄を通せる耳が付いている。
老爺が周囲に積もる雪から汚れのない部分を手に取り壺に翳せば、雪は水へと変わって壺の中に注がれ、壺の下に薪を組めば、それだけで薪に火が付いた。
不可思議な現象だが、ファルハルドは驚かない。今のファルハルドには、それらの現象が起こる際の力の流れが微かに感じ取れた。
壺の中が煮え、くつくつと音を立てる。
老爺が別に取り分けていた香草や香辛料を加え掻き混ぜれば、雪の天幕内に食欲をそそる匂いが広がった。
老爺は壺の中の煮込みを椀によそい、ファルハルドに差し出した。
ファルハルドは手にした椀から伝わる温かさにほっとする。
数日ぶりに口にする食事。まずは汁をゆっくりと啜った。初めて口にする味だ。なのになぜか懐かしかった。
イルトゥーランの王城、その地下にある部屋で母と二人暮らした日々の記憶が呼び起こされる。
ファルハルドの目に薄らと涙が滲む。
碌に日も差さず暗くじめじめした部屋。与えられる食事は城の者たちの残り物。母であるナーザニンが料理をする機会は一度もなかった。
それでも、ナーザニンは残り物を選り分け、ファルハルドのために最善を尽くした。
それが残り物による粗末な食事にどこかイシュフールの料理と似た味があった理由。
ファルハルドは改めて母がどれほど自分のことを思っていてくれていたのかを感じていた。
老爺の作った料理は身体を芯から温めてくれる。ファルハルドは眠気を覚えた。老爺は空になった椀を受け取り、優しく言う。
「अधुना……(今は休むが良い)」
ファルハルドはそのまま眠りに落ちた。
ファルハルドが目を覚ました時には、すでに日は西の空に移っていた。
太陽の位置から見るに、今は八の刻。半日以上眠っていたようだ。あと二刻もすれば日が暮れる。
ファルハルドが目を覚ましたのに気付き、老爺は声を掛けた。
「भोजनं कुर्मः ।(食事にしよう)」
朝の残りを温め直す。ファルハルドは食事をしながら外を眺めた。これまでとは少し見え方が変わっている。世界がより鮮明に見えていた。
「पूर्वापेक्षया……(これまでとは異なって見えるだろう)」
なにも言わずとも老爺には全てがわかっているようだ。老爺はそのまま話を続ける。
「आत्मापरीक्षां……(大いなる存在の試みを受けるため、お前は自分の力で無形界に赴かわねばならない。
本来、無形界に赴くことは、長い年月、天地自然の中で純化と同化を行い初めて行えること。今のお前はそのためのきっかけを得た段階に過ぎない。
今回、大いなる存在がお前を望んでいることから実現しやすくはあるのだが、それでもあと数年は必要だ)」
ファルハルドは眉を顰めた。刹那の刻だけ得たあの感覚から考えても、老爺の言っていることは正しいと理解できる。
だが、まさに今この時、アレクシオスは囚われているのだ。年数を掛けてはいられない。
老爺は憂い顔で石椀を取り出した。その石椀にはなにやら異臭を放つどろりとした錆色の液体が入っている。
「इदानीं……(今すぐお前が無形界へ赴ける方法が一つだけある。このヴァラルシャ草の汁を飲めば、今のお前でも無形界への扉を開くことができる。ただし……)」
老爺は言い淀み、一度言葉を途切れさせた。ファルハルドは視線で続きを促す。老爺は深く息を吸い続ける。
「तथापि……(ただし、ヴァラルシャ草の汁を飲み無形界に赴いた者は、無形界に取り込まれやすくなる。もし、取り込まれれば、お前は無形界の一部となり、二度とこちらには還ってこられない)」
ファルハルドは煮込みが入っていた椀を床に置き、無言で石椀へと手を伸ばした。
老爺は目を細める。ファルハルドは老爺の目を見詰めたまま頷いた。老爺は軽く溜息を吐き、石椀を渡した。
ファルハルドは躊躇うことなく、石椀を煽った。途端に視界が歪み、感覚が、認識が変化し始める。
「आत्माभिः……(大いなる存在によってどのような試みが行われるのかは、その都度異なる。よって、なにが待ち受けているのかはわからぬ。
ただ、これだけは覚えておけ。ファルハルド。己が何者であるかを忘れるな)」
老爺の声が遠くなり、気付けば世界が変わっていた。
見えるのはあらゆるものが蜂蜜色に透き通った不思議な光景。無形界、ファルハルドは精霊たちの世界にいた。




