43. それぞれの場所で /その②
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ファルハルドと老爺の旅はあっけなく、奇妙なものだった。どこからそうなったのか、その始まりはよくわからない。
最初は深い森の中。あまり日は差さない。周囲に生えるは大木。大人が両腕を回しても届かないほど太く、見上げるほどの高さがある。歳経た老木が倒れた場所では陽光が降り注ぎ、若木が競い合うように枝葉を伸ばしている。
老爺は前を歩き、ファルハルドはそのあとを付いていく。
二人はなにも話さない。無言で進み、無音で進む。ファルハルドの歩き方は静かだが、老爺はそれ以上。枯れ葉が積もる場所を歩こうが、まるで足音を立てることはない。
夜もそのまま歩き続けた、のだと思う。体感としては丸一日を歩いたのだから。
ただ、はっきりとしない。なぜなら、いつの間にかきらきらと明るく、あらゆるものが蜂蜜色に透き通った不思議な光景の中を歩いていたから。
その場所では地面の上を歩いていたのかも定かではない。足から伝わってくる感触は間違いなくしっかりとした地面。なのに目に映るのは、日の光を反射し輝く、薄い霞のように見えるもの。
ここは異界。確かなのは、前を歩く老爺の背を見失ってはいけないこと、ここでは口を開いてはならないこと。
その光景は唐突に終わった。明確な境を越えた訳ではなかった。ふと気付けば周囲の景色が変わっていた。光り輝く場所でもなければ、樹々の立ち並ぶ深い森でもなくなっていた。
完全に日は暮れ、あるのは月明かり。それもあり、ファルハルドは見える風景を非現実的なものと感じ、なにか別の異界の光景なのかと考えた。
そこは腰の高さまで雪が積もり、強風が吹く場所。それ以外にはなにもない。
そう、なにもないのだ。ファルハルドが立つ場所よりも上には月と星しか存在せず、今いる場所よりも随分下に雲が連なる景色が見渡せる。
老爺は振り返る。
「आगच्छत्」
「ここは?」
「तीर्थेषु ……(聖地の一つ。この大陸で最も高い山の頂)」
ファルハルドは釈然としない様子。老爺は少し考え、説明を付け足した。
「यत्र राक्षसाः ……(闇の怪物たちだけが暮らす場所、その中にある。火の試練の場所を出てより、二日半が経っている)」
ファルハルドは衝撃を受けた。なにもかもが想像外だった。
老爺の言葉が真実であれば、ここは『暗黒域』。その正確な位置も広さもファルハルドは知らないが、出発した場所からは、『闇の領域』内を移動した時に見えたより荒れた山々まででも五日は掛かる筈。
なのにおそらくはそれよりも遠い所である筈の場所に二日半で移動した、だと? しかも、体感では一日しか経っていないのに。
そういえば、奇妙なことは他にもある。一日中歩き詰めたと感じていたが、まるで疲れてもいないければ、腹も空いていない。
全てが奇妙で辻褄が合っていない。だとすれば。
「途中で見えた不思議な光景、あれは精霊たちの世界か?」
どう考えても、奇妙な現象の理由はあの光景にある。そして、それは精霊に関わることである筈。
「आम्।……(そうだ。あれが位相のずれた世界、無形界。大いなる存在の世界。お前は自らの力であの世界に赴き、大いなる存在の試みを受けなければならない)」
「どうすれば良い」
老爺がすっと手を翳せば、積もる雪は動き出し丸い天幕のような形を作った。
「प्रथमं ……(まずはここで十日十晩を過ごし、心身を純化するのだ)」
「純化?」
「आम्।……(そうだ。天を見詰め、地に触れ、風に耳を傾け、大気を嗅ぎ、天地の気を味わい、天地自然と同調し、一つとなれ。十一日後にまた来る)」
老爺が言い終わると同時に、より一層の強い風が吹き、舞い上がる雪にファルハルドは一瞬顔を背け目を瞑った。再び目を開いた時、すでに老爺の姿はなかった。
─ 3 ──────
決闘の場所より出発して五日。ジャンダルたちはラグダナへとつながる街道から少し外れた場所を歩いている。
昨日、森を抜けた。さらに半日ほど進めば細い街道に出た。進むうち、集落や村を見掛けた。
ジャンダルたちは敵地であるイルトゥーランの住人たちとどう接触するか話し合い、何通りかの方策も立てていた。なのにそれは全て無駄となる。
住人たちは見慣れぬ人間を警戒し、近寄らせなかったからだ。
戦時である以上仕方がないが、光の神々に仕える神官もいるからにはもう少し柔らかい対応がされるのではと考えていただけに当てが外れた。
不用意な接触を避けられるのは助かるのだが、このままでは水や食料、物資の補充ができず具合が悪い。町ならば少しは住人たちの態度も変わるかもとジャンダルたちは先を急いだ。
だが、国境近くまで進んでもこれといった町はなく、食料は手持ちの保存食を消費し水は川を流れる水を汲んだ。
街道を進んでいる途中で、巡回中の兵に呼び止められ多くの時間を取られる羽目になる。ジュスールの時とは違い暗殺部隊から情報は回っていないのだろう、ジャンダルたちは他の者たちと変わらぬ検めを受けただけだった。
今回はそれで済んだが、今後戦場や王都に近づけば次第に検問は増え、検めは厳しくなっていくだろう。面倒事を避けるなら、それこそ人のいない森の奥を移動するべきだが、そういう訳にもいかない。
差し当たり、街道を遠目で確認できる位置を進むことにした。
逆に見咎められる可能性もあるが、その時は学者でもある魔術師の学問上の理由か、神官の信仰上の理由を押し立てて誤魔化せないか試してみるつもりだ。
国境付近を進んで四日目。ジャンダルたちはやっと町と呼べる規模の居住地に辿り着く。戦時とはいえそれなりに人の往来はあるのだろう。住人たちはいくらかの警戒は見せるが完全な拒絶は行わない。
拒絶さえされなければなんとでもなる。ジャンダルが持ち前の人当たりの良さで警戒を解きほぐし、快活なカルスタンやラーナが好印象を与え、神官であるペールやアシュカーンが信用を得ることで残る警戒感も払拭し、買い物も情報を得ることも順調に進む。
アリマは役に立っていないが、邪魔をしないように静かにしている。
話してわかったのは、戦時と言ってもイルトゥーラン全土を挙げて戦に臨んでいる訳ではないということ。
明確な戦時体制となっているのは王都や戦場となる場所の周囲のみ。その他の場所は普段よりは多少警戒が高まり、物流が滞り気味になっているという程度。
ジャンダルたちが住人から拒絶されていたのは戦時だからと言うよりも、闇の領域方面からやって来たことで怪しまれていたからだった。
「なーんだ。じゃあ、普通に旅する分には問題ないんだ」
ジャンダルは酒場で杯を片手に仲良くなったおっさん相手に話をしている。
「ああ、そりゃそうだろう。検問所とか巡回はあっても、戦場とか王都の近くにさえ行かなけりゃ、いつもとたいして変わらんからな」
ジャンダルは大きく頭を揺らし、悩んでいるふりをする。
「うーん。おいらたちはその王都の方に行きたいんだけど、それってやっぱ難しいかなぁ」
おっさんはさも可笑しそうに大笑いする。
「はっはっはっ。無理無理。あんたらは他国者だろ。さすがにそりゃ無理だわ。検問所でどこに行くか訊かれて、王都に行きますって言ってみろよ。すーぐ、とっ捕まっちまってえらい目に遭っちまうぞ。悪いことは言わねえから、この戦が終わってから出直すんだな」
「あらまあ」
ジャンダルたちは宿で自分たちだけで話し合う。
町で聞き込みをして現在地や王都との位置関係、街道がどこを通っているかは把握できた。
王都までは直線距離で言えば十三日ほど。ただ、直線だと大森林に掛かるため、街道は大森林を迂回する形で通っており、およそ十六日掛かる。
そして重大な問題点として、街道が戦場予定地近くを通っている。当然、検問、巡回は多く、仮にそれらを避けられたとしても戦場に近づけば不測の事態に巻き込まれる確率が上がる。
となると、街道を往くのは危険性が大きい。
よって、ジャンダルたちは街道ではなく、大森林の周辺、あるいは大森林に少しだけ入った場所を進むことにした。
普通の旅人ならば、野獣や悪獣、闇の怪物に襲われる確率が高い危険な道行きだが、ジャンダルたちにとってはその点はなんの問題にもならない。
食料や水は可能な限りこの町で手に入れ、乏しくなってきたら大森林傍を離れ、村などで売ってもらえないか交渉を試みるつもりだ。幸いセレスティンに持たされた金はほとんど使わず残っている。
次の日、朝も早い時間にジャンダルたちは出発した。
そして、町を出て三日。立ち寄った村で、ついにアルシャクスとイルトゥーランが開戦したという噂を耳にした。
次話、「開戦」に続く。
しばらく更新お休みで、次回更新は8月9日予定です。済みません。




