38. 闇の領域を行く /その⑤
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皆にとって、老爺の口から発せられたのは未知の言語。その内容を理解することはできない。
しかし、流暢なその響きから、それが嘗て話されていた失われた四種属の言葉のいずれかなのだろうことは想像がつく。
そして、ファルハルドに向け話され、さらにその言葉を聞いてファルハルドが息を呑み目を見開いて微動だにしないことからも、それがイシュフールの言葉であろうと見当がついた。
「ちょっと、兄さん。あの人、知り合いなの?」
ジャンダルは尋ねるが、ファルハルドは答えない。未だ驚愕に包まれたまま答えることができない。
老爺は近づいてくる。危険なものは感じない。そもそも、その浮世離れした雰囲気に中てられ、警戒心を抱くこと自体ができないでいる。
それでも戦いに生きる者の本能に従い、仲間たちはファルハルドを庇うように進路上に立ち塞がった。
老爺は微笑む。
「我が孫は友に恵まれている」
「えぇ?」
老爺は今度は広く使われるオスクの言葉で話し、皆はやっと老爺がファルハルドを孫と呼んだことを理解した。
この老爺がファルハルドの祖父。初対面でありながら、会ったことがあるかのように感じた理由はそれかと納得した。
ファルハルドは変わらず無言で固まったまま。その胸中にどんな思いが去来しているのか、まるで想像もつかない。
「大いなる存在の意思とはなんだ」
沈黙の後、ファルハルドから呟くように出た言葉は、親しさを示すものでも出会いを歓迎するものでもなかった。
もっとも、この老爺が祖父であることを疑うものでもなかったが。
老爺は一瞬、感情を感じさせない無機質な笑みを浮かべたが、すぐに静かで穏やかな表情に戻った。
「大いなる存在とは外の人間の言葉で言う精霊。その意思とは、この世の調和を乱すものを糺す者として、大いなる存在がお前を選んだということ」
説明は為されたが、その全ては理解できなかった。
わかったことは、イシュフールの間では『精霊』を『大いなる存在』と呼び、それを重んじているのだということ。
精霊とは、『万物の母』により世界が創り出された時、人間に先んじて創られた存在。この世界に働きかけ、調和を保つ役目を果たしているとされている。
通常、その姿は見ることできず、声を聞くこともできないが、イシュフールのなかには姿を見、声を聞き、意思疎通を行える者がいると言われている。
ファルハルドは最初、『आत्मा』と言われた時、それが精霊のことであると理解できなかった。
ファルハルドは母であるナーザニンからイシュフールの言葉や暮らしを教えられていたが、少し間違って学習していたようだ。
それはおそらく、ファルハルドがまだ幼かったことやイシュフールの言葉を実際に使う機会がほとんどなかったこと、なによりイシュフールの言葉とオスクの言葉での用語上のずれに由来するのだろう。
昔、少しはイシュフールのことを知っていた戦神の神官たちが『イシュフールの人々は大いなる精霊を崇めている』と言っていた点からも、異なる言語間での正確な翻訳や理解が難しいことが良くわかる。
そして、わからなかったこととは、『この世の調和を乱すもの』とはなにか、さらになぜファルハルドがそれを糺す役目に選ばれなければいけないのかということ。全くもって理解できない。
ただ、イシュフールの血がそうさせるのか、この老爺の言っていることが真実であり、決して軽んじてはならないことであると、頭の片隅のそのまたどこかの部分でファルハルドは感じていた。
だが、その糺すという行為にどれほどの時間と労力が掛かるのかわからない。仮にすぐに簡単にできるとしても、今のファルハルドにはそのために割ける時間がない。
なによりも優先しなければならないことが別にあるのだから。
「済まないが、なにを言っているのかわからない。それに、俺には為さねばならないことがある。
今は仲間の助力の下、攫われた我が子を取り返しに行く途中。なによりも大切なことなんだ。他のことにはかまけていられない」
老爺はファルハルドの強い拒絶にも動揺を見せなかった。
「我が孫よ。これはお前が自分の子を取り返すためにも必要なこと。『調和を乱すもの』は力を得るため、お前たち父子の命を欲している」
全員が騒ついた。だとするなら、『調和を乱すもの』とは。
「イルトゥーランのベルク王のことか」
思い浮かぶのはファルハルドの命を狙う元凶。しかし、老爺は否定した。
「違う」
「なら、イルトゥーランの暗殺部隊のこと?」
ジャンダルが横から口を挟み、問うがそれも違うと言う。
この世の調和を乱すものという言い方から、他に思いつくものといえば、悪神の徒や闇の怪物たち。しかし、それも違うと言う。
「闇もまた、あるべきこの世の一部。『調和を乱すもの』は、人でも闇の怪物でもない。
それは未だ在ることなく、来るべき刻を求め胎動するもの。それがなにかを知るには大いなる存在の意思に触れる他ない」
皆、特に神官たちは今の老爺の発言に衝撃を受けた。
本筋の部分で、ではない。おそらくはこの老爺にとってはなにげなく口にした部分、『闇もまた、あるべきこの世の一部』という発言に。
それは価値観を根底から揺るがせる言葉。
誰に聞こうとも、誰と話そうとも、人と闇の怪物は対立する関係であり、闇を駆逐しこの世界を闇から守ることこそ人の役目と言う。それを疑う者はいない。
迷宮挑戦者として、まさに闇の怪物たちと日々戦う生活を送っているファルハルドたちならなおさらのこと。
なのに、この老爺は言った。『闇もまた、あるべきこの世の一部』だと。
皆それぞれが何事かを言おうと口を開きかけるが、言葉が発される前に老爺は一度後ろを振り返りファルハルドに向け話す。
「ただ、お前にはその前に待ち受けている宿命があるようだ。まずは火の試練を越えなければならない」
またもや理解できない物言いが為され、気が逸らされた。
「火の試練?」
「そうだ」
ファルハルドにもその癖があるが、この老爺の説明も言葉が足りない。本人は当たり前のものとして行う説明がどうにも理解しにくい。
「えっと、その火の試練っていうのはなんなの?」
ジャンダルがさらなる説明を求めた。
「燃え盛る生命を持つ者が、自らを焼きながら我が孫を待ち受けている。
その者と我が孫は打ち当たる宿命にある。いずれが生き残るのかは大いなる存在にもわからぬ。
心せよ。この試練の結末は世の行く末を変える」
「…………」
皆は絶句した。『世の行く末を変える』。あまりに大袈裟で、いくらなんでも信じられない言葉。
ジャンダルが両手でこめかみを揉みながら尋ねる。
「えっと、だから……、火の試練っていうのは、兄さんがその『燃え盛る生命を持つ者』とかいう奴と戦うことを指してるんでいいんだよね。それが『世の行く末を変える』っての?
うわぉ、駄目だ、全然理解できないんだけど。うーん、参ったなぁ。ねえ、せめて、その相手ってのがなんなのか。こう、特徴とかさぁ。なにかもうちょっと、わかるように教えてもらえない?」
老爺は少し上を見上げ、考える。そして、ファルハルドを見詰め、告げた。
「岩熊の黒い毛皮を肩からまとった大男だ」
待ち受ける者が誰なのか、ファルハルドにはわかった。戦う宿命にあるという、その意味も。
次話、「ジュスール」に続く。
来週、再来週は更新お休みします。次回更新は6月8日予定です。
※済みません。思いきり日付を間違えていました。次回更新予定は6月14日です。たいへん失礼しました。




