01. 時世時節 /その①
過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目になります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危機に陥りやすいのです。
- リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー -
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今は二の月の昼下がり、五の刻を回ったところ。パサルナーンの街の南区、表の大通りから二本奥に入った裏通りにある食事処は大勢のお客が詰めかけ盛況だ。
「はーい、いらっしゃいませ」
美人と評判の店員が職人風の二人組の客を出迎える。
「今、片付けますので、こちらへどうぞ」
店員は、前のお客が使った食器を片付け、手にした布で卓の汚れをざっと拭き取り案内した。
親方らしき年嵩の男性が肉と野菜の煮込みと茹でた腸詰め肉、麦酒を二人前注文し、連れの若者に他になにか頼むかと尋ねるが返事がない。若者はぼうっと店員に見蕩れている。年嵩の男性は苦笑した。
「おーい、ユースフ。ありゃ、人妻だぞ。惚れんなよ」
「え、あ、いや。ははっ、嫌だな親方。そんなんじゃないっすよ、ははっ、はははは、は」
若者は笑って誤魔化すが、どこからどう見ても誤魔化せていない。年嵩の男性は苦笑するだけで、それ以上は言わなかった。なんせ、自分も覚えのあることなのだから。
この店の店員は美人揃い。狭く小汚い店ながら繁盛している理由は、料理が旨くて安くて量が多いことだけではないのだろう。
余所の街であるならば、食事処の女給に小銭を払えば食事以外にそちらのほうでも満足させてもらえるが、この街ではそれはない。そちらの売り買いは娼館のみと厳格に定められている。
ただそうは言っても、美人を見れば考え違いをする馬鹿は必ず出てくるもので。
店内に木皿が床に落ちた音が響き渡った。昼から大酒を喰らい、顔を赤くした男が店員の腕を掴み熱心に口説いている。
常連客たちは可哀想にと哀れんだ。店員を、ではない。その馬鹿な酔客を、だ。
店員の腕を掴みしつこく言い募る酔客の顎に警棒が当てられた。
「止めておけ」
「あーん、なんじゃい」
酔客は酒に濁った目を制止してきた人物に向けた。それは衛兵と似た、だが少し身に着けている武具や衣服が華やかな人物。この街の要人の警護や重要設備の警備、重大犯罪の捜査をその主要な役割としている保安隊の隊員だ。
この店は保安隊の者や街の治安維持をその主要な役割としている衛兵たちもよく利用している。そのため、揉め事が起こりそうになれば、大事になる前にこうしてすぐに止められる。
ただ。
「んだぁあ。お前、人の恋路を邪魔しようってのか。あ゛ぁ、保安隊だからって図に乗んなよ。おうぅ」
酔客は顎に当てられた警棒を手荒く払い除け、熱り立つ。
常連客たちは揃って溜息をついた。なぜ、保安隊隊員や衛兵がこの店に出入りするのか。なぜ、揉め事を芽のうちに摘もうとするのか。あの馬鹿は全く理解できていない。
この店の店主は左腕がなく、左脚を引き摺っている。それでいながら、並の兵士なら、五人相手でもまとめて伸せるほどに腕っ節が立つ。この店で暴れようとするなど、馬鹿過ぎる。
いや、店主に取り押さえられるのならまだ良い。確か今日はあの人が店の手伝いに来ていた。食材の買い出しに出掛ける姿を見た者がいたらしい。もし、運悪く今帰ってきてしまったら。
常連客たちが、拙いことになる前に自分たちでこの酔客を取り押さえるかとそわそわし始めた時。
店内にいる客たちは言い様のない恐怖に凍りついた。凄まじい殺気に指一本動かせず、息をすることすらできない。
単に店にいるだけの客たちですら、それほどの恐怖を覚えているのだ。対象となる酔客にいたっては。声を上げることもできず、気を失いその場に崩れた。
それは幸運なことだった。もし、万が一。倒れることなく立っていたのなら、店員の腕を掴んでいる手を斬り落とされていたことだろう。
いつの間に現れたのか、酔客の横に剣を帯びた若い男性が立っていた。十人に訊けば、まず九人までは端正な顔立ちだと答えるその人物は、今刺すような殺気を放っている。すぐ傍に立つ保安隊隊員は気圧されている。
静まりかえった店内で、店主と店員から呆れたような声が掛けられる。
「おい、不細工な殺気は引っ込めろ。営業妨害だぞ、この大馬鹿野郎が」
「まったくよ。これくらいでいちいち腹を立ててどうするの」
「あ、ああ……」
その人物は注意され、殺気を抑えた。店の客たちはほっと息を吐く。ただ、まだ完全にはその人物の機嫌は直っていないようだ。微妙な不機嫌さが漂っている。
ありがたいことに、この場に救いの神が現れた。
「ちょっと兄さん、なんで荷物放り出すかな」
入口から入ってきた、食材を詰めた袋を両手いっぱい、なんだか妙に鈍く輝く右手にも抱えた小柄な男性が抗議する。
そちらに目を向けた端正な顔立ちの人物から不機嫌さが霧散した。荷物を抱える小柄な男性の背に天使が負ぶさっているからだ。
「ちちうえ、ははうえ」
天使はにぱっと笑い、舌足らずな明るい声で呼びかける。
途端に、端正な顔立ちの人物と店員は相好を崩した。二人の頭にはすでに酔客のことなど残っていない。店主はやれやれと頭を振り、保安隊隊員と客たちは安堵した。
店主は「買い出しありがとな。食事用意してるぞ」と話し、保安隊隊員は酔客を表に運び出した。端正な顔立ちの人物と小柄な男性、幼子は店主と共に荷物を持って裏に回り、店員はささくれた雰囲気をなだめるようにお客一同ににこりと微笑んだ。店内は通常を取り戻す。
「お騒がせしてごめんなさい。良かったらどうぞ、こちらはお詫びです」
店員は注文の品と一緒に串焼き肉を一本ずつ職人風の二人組に給仕した。
若者は麦酒を一息で煽り、大袈裟に息を吐く。顔を顰めて、年嵩の男性に訴えた。
「さっきのあれ、なんなんですか」
「酔っ払いか」
「いや、そっちじゃないっすよ。あのなんか凄ぇ怖い奴っす。ほら、ちちうえとか呼ばれてた。ん、あれ? 『父上』って……」
年嵩の男性は笑った。
「ああ、そうだ。あれが、あの美人の亭主な」
笑いながら、店員を目で示した。若者は口があんぐりと開いたままになっている。
「うわー、畜生。やっぱ、美人は美男とくっつくのかよ。やってらんねえ」
若者は大声を上げながら、両手で自分の髪をぐしゃぐしゃに掻き乱した。近くの席の客たちもその気持ちが良くわかるのか、若者の発言に頷いている。年嵩の男性は呆れている。
「あんなやばい殺気に当てられといて、気になるのはそっちかい。お前、意外に図太いのな」
「親方はもう子供もいるから、関係ないっすけど。俺は今まさにその年齢です。大事なんですって」
「へーへー、そうですか」
年嵩の男性はもう若者を訴えを聞いていない。軽く聞き流し、腸詰め肉に齧りつき、麦酒を楽しんでいる。
若者は口を尖らし不満を零すが、いつまでも愚痴を言っていても仕方がないと気付いたのか、少し荒っぽい匙使いで煮込み料理を掻っ込んでいく。煮込み料理を空にし、ちびちびと腸詰め肉を囓り始めた。
「そういや、さっきのあれは殺気ですか。まじでやばかったですね」
「今更か」
「いや、まあ、はあ」
若者は笑って誤魔化し、年嵩の男性は白けた目を向けた。
「まあ、あの人にとっちゃあ、あんなのは軽い脅しだ。もし本気だったらこの店にいる人間、全員今頃死んでるよ」
「うげっ、まじっすか」
若者は顔を引き攣らせた。
「んー、まあなあ。嫁さんと子供に妙なちょっかいさえ出さなきゃ、穏やかで物静かな人なんだがな。
前にお袋が足を挫いて道端で難儀してた時に、たまたま通りかかったあの人が家まで負ぶって運んでくれたこともあったしな。無愛想過ぎるせいで誤解されやすいけど良い人だぞ」
「へえ、そりゃ確かに良い人っすね。でも、あの殺気はただ者じゃないでしょ」
年嵩の男性はこの発言に声を上げて笑った。
「お前、『飛天』って人の話を聞いたことはないか」
若者は急に顔を明るく輝かせた。
「あるある、ありますよ。あるに決まってるじゃないっすか。
六年前にあの雪熊将軍を決闘で破ったっていう凄い人でしょ。それにとんでもない悪獣の大群から村を守ったり、今じゃあパサルナーン迷宮の八層目に挑んでるっていう生きる伝説じゃないですか。
詩にもなってるし、この街に住んでて知らない奴なんている訳ないじゃないですか」
年嵩の男性はなんだか妙ににやにやしている。
「おぉー、良く知ってるなぁ。なに、お前会ったことあんの」
「ある訳ないじゃないっすか。この街にどれだけ人がいると思っているんすか。そりゃ、会えるもんなら会ってみたいすけどね。
確か、あれでしょ。見た目はどちらかって言えば華奢な感じで、びっくりするほど綺麗な、顔立ちの、男前、だ、って……。…………。え、それってまさか」
若者は調子良く話すうちに気付いた。年嵩の男性がなにを言いたいのかを。
「え、あの、親方……」
「そ、あれがその生きる伝説。『飛天』のファルハルドさんだ」
「ぅえぇぇぇっぇぇー」
若者は立ち上がり大声を上げた。魂を飛ばしたように目と口を大きく開けて固まっている。明らかな奇行だが、常連客たちは誰もが悟った表情で受け入れている。この店ではちょくちょく見かける光景だからだ。
年嵩の男性は悪戯が成功したと喜んでいる。思った通りの反応を見せる若者の様子が可笑しくて堪らないようだ。
しばし固まっていた若者は、そわそわきょろきょろと挙動不審になる。椅子に腰掛け、年嵩の男性にぐっと顔を近づけ囁いた。
「ちょっと裏に回って握手してもらってきてもいいっすかね」
「駄目に決まってんだろ。お前、本当に図太いのな」
年嵩の男性は半眼になっている。
「馬鹿なこと言ってんじゃないぞ。ほれ、仕事が詰まってんだ。さっさと食って戻るぞ」
「へーい」
二人は残った料理を平らげ店をあとにした。
次回更新は明日です。
後、章タイトルがしっくりきていないので、いずれ変更するかもしれません。悪しからず。




