138. 安らぎの場所 /その②
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バーバクたちはファルハルドとナイイェル、二人の間で何度も瞳を行き来させる。レーヴァは考え込んだ様子でじっと二人を見ている。ナイイェルは静かな強さを湛えた顔で、真っ直ぐにファルハルドを見詰めている。
そして、ファルハルドは。わずかに目を伏せ、短く息を吸った。それから全ての感情を己の内に納め、ただ一言を述べた。
「そうか」
ファルハルドの応えに男たちが顔色を変える。
「おい、馬鹿野郎!」
バーバクが右手でファルハルドが着込んでいる鎧の喉元近くの部分を掴み上げ、そのまま押し込み壁に激しくぶつけた。
「そうか、じゃないだろうが。なんであっさり受け入れてるんだ。それでいいのか。止めろ、じたばた見苦しくて構わん。行かないでくれと懇願しろ」
左腕もあればそのまま殴りつけているだろう。顔を真っ赤にし、怒鳴り上げる。
ジャンダルたちもバーバクを止めようとしない。全員が憤りを面に表し、ファルハルドに尖った目を向けている。
ファルハルドはなにも言い返さない。抵抗もしない。黙って為すがままにされている。
「おい、なんでなにも言わない。おい!」
「バーバク」
レーヴァがそっと袖を引いた。バーバクはちらりとナイイェルに目をやり、ファルハルドから手を放した。バーバクとレーヴァは下がり、二人に場所を譲る。
ファルハルドとナイイェルは互いを見詰める。その内にある感情を露わにすることなく見詰め合っている。
「いつ、発つんだ」
ファルハルドは問いかけ、ナイイェルは静かに答える。
「すぐ、かな」
「そうか」
今度はナイイェルが問いかけ、ファルハルドは静かに答える。
「これからどうするの」
「変わらない。パサルナーン迷宮に挑む」
「なんでっ」
ナイイェルはファルハルドの返答に動揺を見せた。ファルハルドにはナイイェルが動揺する理由がわからない。そのまま自分にとっての当たり前の答えを告げる。
「神殿遺跡で君の延命を願う」
「なんでっ!」
ナイイェルは金切り声を上げた。
「なんで、なんでなの。そんなっ。あなたを捨てていなくなる女のために、なんで命を懸けようとするの。なんで」
「なぜもなにもない。為すべきことを為す、それだけだ」
「べきだなんて誰も決めてない。そんな必要なんてないじゃない」
ファルハルドはナイイェルの手にそっと自らの手を添えた。
「必要など関係ない。これが俺の望みだ」
「な、なんで……」
「君がどこにいようとも、誰と共に生きようとも構わない。君が幸せであるのなら、それでいい。そのためにできることをする。それだけだ」
「そんな……、なんで」
ナイイェルの瞳から、堪えきれない涙が溢れ出す。ファルハルドはナイイェルの濡れた頬に触れる。
「レイラ、どうか心痛めないでくれ。そんなことは望んでいない。君を大切だと、誰よりも大切だと思っている。君に生きて欲しい。幸せになって欲しいんだ。
俺は母を城から助け出すと決意しながら、救えなかった情けない男だ。二度目はない。もう二度と、あんな思いは繰り返さない。
君を助けたいと思ったから。必ずや神殿遺跡で君の延命を願うと誓った。これこそが俺の生きる理由。どうか、俺に誓いを果たさせてくれ」
「ファルハルド……」
バーバクとレーヴァが二人に歩み寄る。
バーバクは穏やかな表情でファルハルドに話しかける。
「まったく、お前には敵わないな。平然とした顔をしときながら、その後ろでそれだけの覚悟を決めているとはな。
だがな、敢えて言うぞ。お前は馬鹿だ、大馬鹿野郎だ。大切だと言うのなら、愛しているのなら、決して手を放すな。共に在れ。幸せになって欲しいと思うなら、自分の手で幸せにしろ。
潔さなどいらん。そんなものは犬にでも喰わせろ。本当の勇気とは己の本心を正直に晒すことだ。お前には口にしなきゃいけない言葉があるだろう」
ファルハルドは迷い、頼りなげな目をバーバクに向ける。バーバクは力強く頷いた。
レーヴァはそっとナイイェルの背中に触れた。レーヴァは慈愛に満ちた目で話しかける。
「素直になるべきじゃない。相手のことを思って身を退くのが悪いなんて言わないわ。私だって考えた。私のような身の上の女が一緒にいるべきじゃないってね。
でもね、私たちだって幸せになって良いのよ。一緒にいたい人には、一緒にいたいって言って良いの。一緒ならどんな困難だって乗り越えられる、そう思える相手になら素直に一緒にいたいって伝えて良いのよ」
「レーヴァ姐さん」
ナイイェルは一瞬迷いを見せ、それから迷う心を振り払うように強く首を振る。
「ナイイェル……」
レーヴァの目に悲しみが宿る。レーヴァがさらなる言葉を発する前にナイイェルは言った。
「私は一緒にはいられない。いちゃいけない」
「レイラ」
ファルハルドはナイイェルに呼びかけ、再びナイイェルへとその手を伸ばす。ナイイェルはその手を拒んだ。身を退き、首を振りながらナイイェルは応える。
「ファルハルド、私はあなたといてはいけない。私なんかのためにパサルナーン神殿遺跡を目指さないで。
迷宮に挑む人たちは、皆が迷宮の闇に呑み込まれていったわ。数限りない腕自慢たちが挑んで、辿り着けたのは三百年も前の英雄たちだけなのよ。無理よ、できる筈がないわ。
お願いだから、私のためにそんなことをしないで。
ファルハルド、あなたこそ幸せにならないといけない人なのよ。あなたの御母堂様はそう願って、あなたに『ファルハルド』と名付けた筈。
私のことは忘れてちょうだい。あなたと出会えた。私はそれだけで充分だから」
ファルハルドは一歩を踏み出し、ナイイェルと触れ合う距離に。
「レイラ、いや、ナイイェル。君を忘れるなどできない。君を愛している。君のために生きられないのなら、そんな生に意味はない。どうか、俺と、俺と生きて欲しい」
「ファル、ハルド……」
ナイイェルの目からはより一層の涙が零れる。
その涙には多くの色が混ざっている。戸惑い、悲しみ、諦め、献身、そして、願いと喜び。
ナイイェルはファルハルドの目を見られない。迷いのままに、ナイイェルの視線が宙を彷徨う。
その視線をレーヴァが捉えた。レーヴァは変わらず慈愛に満ちた目で、再び繰り返す。
「ナイイェル、幸せになって良いのよ。一緒にいたい人には、一緒にいたいって言って良いの」
ナイイェルの瞳に不安と迷い、そしてその奥に抑えても抑えきれない切望が過ぎる。
レーヴァは温かな微笑みで頷いた。ナイイェルは頷く。何度も何度も頷いた。ナイイェルは涙を流しながら、しかし、見る者誰にでも伝わる喜びを宿した表情でファルハルドに応える。
「はい」
高級娼婦のレイラとして多くの者の胸を焦がせたナイイェルの容姿は、当然男たちを虜にできるほどに優れている。
だが、娼婦として磨き抜いた外見の美など、今のナイイェルの輝く美しさの足下にも及ばない。
愛する者のためなら己が想いに蓋をし身を退く健気さと、決死の思いで固めた決意も覆す純粋な愛情、なにより愛し愛される者だけが持ち得る心からの幸福はナイイェルを輝かせ、見る者全ての気持ちも明るく照らす。
神官であるペールは進み出る。威厳のある顔で厳かに告げる。
「壽ぐべし。互いを想い、互いのため、己が幸福を諦めようとした清らかなる心根を。互いを思いやる心こそ、真の愛情であるが故に。
壽ぐべし。遠く離れようとも苦難の中であろうとも、変わらず互いを思い続けた愛情を。苦難に枯れぬ愛情こそ、人の心に咲く花であるが故に。
壽ぐべし。今またここに、新たなる喜びが生まれたことを。人々の間に生まれる喜びこそ世を照らす光であり、闇を払う光であるが故に。
壽ぐべし。これぞ嘉きこと、神々の恵沢なり。壽ぐべし、壽ぐべし」
バーバクは、ジャンダルは、カルスタンは、ペールは知っている。ファルハルドとナイイェル、二人が味わった辛苦を。乗り越えてきた苦難を。互いを思うその愛情を。やっと得た暖かな喜びを。
バーバクたちは、二人に心からの祝福を送る。
ファルハルドとナイイェルは互いのその手を取り合い、見詰め合う。二人は仲間たちの祝福の言葉に包まれ、堅く抱きしめ合った。
「第三章」に続く。
次回更新は五月予定。
ここで一区切り。
ここまでお読みいただきありがとうございます。やっと物語が半分まで終わりました。いやー、長かった。全然予定通り進まないので、本当困ったものでした。
で、問題は三章でして。一応、ラストのイメージは固まっているんですが、さて、始まりをどうしたものか。
予定では物語上、メインになる章と想定しているだけになかなかに迷います。
あと、五年も同じ話を書いてるので、そろそろ別のお話も書いてみたいような……。
なにかと悩みは尽きませんが、一歩ずつ主人公と共にこの物語を綴っていくことを楽しんでおります。全てはお読みいただいている皆様のお陰。感謝、感謝でございます。
さてさて、では慈悲深き皆々様方。この物語がご満足いただけましたなら、どうか温かいお言葉を。叶うならば、喝采を。
では、また第三章でお会いいたしましょう。




