91. 悲壮 /その②
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ニースが泣きじゃくっている。
なにがあったかを、アレクシオスがファルハルドたちに話して聞かせる。
春先にファルハルドたちが出兵してから、スィヤーは外に遊びに出かけることが徐々に増えていったという。数日戻らないこともあったが、動物のことなので皆も特には気にしていなかった。
それが今回は十日前から帰ってこない。さすがに心配になってきた。
とはいえ、怪物たちが徘徊する盆地に、わざわざ犬一匹を探しに出かける訳にもいかない。皆は見回りを行う際、普段より熱心に見回り、スィヤーの手懸かりがないかと探すようにしていた。
そして、今日。突然に、悪獣と化したスィヤーが西村に襲いかかってきた。
ファルハルドはアレクシオスの話を聞き終わると、突然地べたに這いつくばり、嘗めるように地表を調べ始めた。
その肌に粟が生ずるような様に、誰も声を掛けることができない。ダリウスやオリムですら躊躇してしまう。
そして、ファルハルドは見つけた。求めた手懸かりを。その場で立ち上がり、一方向を見詰める。急に駆け出した。衰えている身体とは思えぬ速さで。
ダリウスたちが止める暇もなかった。柵を跳び越え、すぐに木立の間に姿が消える。
唯一反応できたのはアレクシオスのみ。「私が行きます」とだけ言い残し、アレクシオスは自分の騎馬に飛び乗りファルハルドを追いかけた。
二人が帰ってきたのは、五日が経った後だった。
ファルハルドは馬の背に揺られている。馬に跨がっている訳ではない。気を失い、鞍の前に荷物のように載せられている。
アレクシオスからファルハルドを渡された本隊隊員たちはぎょっとした。
ファルハルドの全身は、頭の上から爪先までその全てに乾いた血がこびりついていた。
アレクシオスは空き家にファルハルドを休ませ、ダリウスへとなにがあったのかの報告を行った。
ファルハルドはイシュフールとしての目の良さ、感覚の鋭さを発揮し、地面に残されていたスィヤーの足跡を辿った。そして、その先にあった悪獣使いたちの痕跡を見つける。
そのまま痕跡を辿り、悪獣使いたちを追いかけた。痕跡は何度かの乱れがありながらも、北へと続いていた。そう、北の山々へ。闇の領域へと続いていた。
闇の領域への遠征は、通常は最小でも百人規模の隊を組んで行われる。たった二人で足を踏み入れるなどあり得ない。ダリウスですら、そんなことは行ったことがない。
幸運と特性が味方し、奇跡的に生きて帰ってこられた。
悪獣使いたちが闇の領域の比較的浅い場所に留まっていたこと、イシュフールの特性を強く持つファルハルドは天地自然の力が強い場所で一層感覚の鋭さが増し、怪物たちの接近を常に先に気付くことができたこと、さらに素早く移動ができる二人だったからこそ、怪物たちの襲撃を避けられたこと。
以上の理由で初めて可能となった。一つでも条件が変わっていれば、生き残ることは不可能であった。
悪獣使いたちとの戦いは凄惨なものとなった。それはアレクシオスですら慄くほどの惨たらしい虐殺。
悪獣使いは三人、従える悪獣は四十頭はいた。それをファルハルドは一人で、一方的に殺していく。抵抗など許さない。逃すこともない。
アレクシオスが手を出す隙もなかった。アレクシオスにできたのは、血の臭いに惹かれてやって来る怪物たちを排除することだけだった。
ファルハルドは全ての悪獣を斬り捨て、悪獣使いたちの首を落とした。全ての敵を倒し、初めてファルハルドは止まった。動きを止めたファルハルドは、身体から力が抜け、糸が切れたように血溜まりのなかに倒れた。
衰えた肉体の限界はとうに越えていた。アレクシオスはファルハルドを抱え上げ、一目散に闇の領域から離脱し、西村へと帰ってきた。
ファルハルドは丸一日を眠って過ごし、次の日の昼過ぎ目を覚ました。
目を覚ましたファルハルドは全員から懇々と説教を受けた、訳ではない。誰もなにも言えなかった。目を覚ましたファルハルドが一筋の涙を流したから。
たかが犬一匹のことで、などと言う者はいない。
笑うことも少ないファルハルドが、スィヤーの相手をする時はずっと笑顔なのを見ていたのだから。愛するものを失う悲しみに人も犬も関係ないのだから。
傭兵たちは皆、失う痛みを知っている。ファルハルドの心情を思いやり、皆は言葉を控えた。
それでもファルハルドが落ち着いたあとで、オリムとダリウスは言うべきことは言った。
オリムは「一人で飛び出すんじゃねぇよ、この馬鹿が」と叱り、ダリウスは「俯くな、胸を張れ」と叱咤した。
ファルハルドはぼんやりとした返事をすることしかできなかった。二人もそれ以上は言わなかった。
二日が過ぎ、ファルハルドはなんとか気持ちを立て直した。相変わらず、体力、筋力は落ち、気力に欠けた状態ではある。それでも、いつまでも落ち込んだままではいられない。
ファルハルドのなかに新たに一つの決意が生じたために。
今までも暗殺部隊と戦ってきた。それはファルハルドにとって、降りかかる火の粉を払う意味でしかなかった。
これからは違う。
スィヤーに手を出した者たちを許さない。スィヤーが悪獣へと変えられたのは裏で暗殺部隊が手を引いた以外に考えられない。
悪獣使いは殺す。全て殺す。暗殺部隊も殺す。わざわざこちらから狩り出すことはせずとも、姿を見せた追手は滅殺すると決意する。
暗殺部隊は国の機関。剣の腕を磨くだけでは殲滅することなどできない。それでも、弱い者にできることなどなにもない。強くなれなければ、足掻くことすらできない。
その決意に従い、ファルハルドは気を張り鍛錬を再開することにした。身体を動かす以外、スィヤーをなくした寂しさを紛らわす術を知らないからでもある。
二、三日、一人で身体を動かし、調子を取り戻していく。体力、筋力はすぐには戻らない。しかし、今の状態に合わせ、不自由なく動けるようにはなっていった。
ダリウスやオリムに誘われ、久しぶりに手合わせも行ってみる。
ファルハルドは動きにきれがなく、独特の張り詰めた気迫も鳴りを潜めていたが、それなりに善戦することができた。雪熊将軍との死闘を経て、相手の行動を把握する力が上がっていたのだ。
今まで以上に相手の攻撃を見極め、動きを捉えることができるようになっていた。
以前は全く捉えることができなかったアクレシオスの動きの秘密も少しは理解できた。
巧みな緩急と気付きにくいほんの掌一つ分程度のわずかな移動を組み合わせることで、相手が予想し頭に思い浮かべる動きと実際の動きをずらし、予想を狂わせ間合いを外す。
それがアレクシオスの技法の神髄だった。
「たいしたものだ」
アレクシオスは満足そうに笑う。ダリウスとオリムは感心している。訓練に参加している他の団員たちは驚いている。
「驚かされる。まさか、この私の動きを把握できるとはな。しかも、魔法剣術まで身に付け、さらにはあの雪熊将軍を倒したとは……。なにからなにまで、驚かされることばかりだ」
アレクシオスは自慢の弟を見るように、誇らしげな目をファルハルドに向ける。背中がこそばゆくなる。そんな目で見られては、ファルハルドとしては落ち着かない。
ダリウスたちはそんな二人を少しにやつきながら、生暖かい目で見ている。
「ならば、もう充分だな」
アレクシオスのまとう気配が変わる。
その気配を感じ、ダリウスは目付きを厳しくし、オリムは眉根を寄せ、ファルハルドは身構えた。その気配とは。
「ファルハルド。私と戦え」
紛うことなき殺気。明確な殺意を剥き出しにする。
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ファルハルドに動揺はない。他者から殺意を示されることには慣れている。
しかし、わからない。なぜ、アレクシオスがファルハルドに殺気を向けるのか、が。
嫉妬、あるいは名誉欲のためとは考えられない。アレクシオスはそんなくだらない人物ではない。
向けられている殺気もそんな濁ったものではない。どちらかといえば、どこか焦ったような微かに追い詰められたような気配がある。
いったいなぜ、そしてなんのためなのか。ファルハルドにはまるでわからない。
だが、ファルハルドは戦士。己が認める相手から戦いを申し込まれるのならば応ずるのみ。理由になど拘らない。余計なことも言わない。無言で腰に佩く剣に手を伸ばす。
ただ、ファルハルドが小剣を抜く前にオリムが口を挟んできた。
「オイ、こら。寝惚けてんのか、手前ぇ。勝手ぬかすなよ、コラ。うちは粛正以外の団員同士の殺しは御法度だろうが」
アレクシオスはファルハルドから目を離さないまま、オリムに応え、ダリウスに告げる。
「済まんな。処分は如何様にでも」
アレクシオスの意志は変わらない。言い訳をしようともしない。オリムは顔を顰め、ダリウスは目を細めた。
「アレクシオス」
ダリウスは重々しく、呼びかけた。
「戦士の誇りに悖ることはあるか」
「ありません」
アレクシオスは迷うことなく、答える。ダリウスは続けてファルハルドに話しかける。
「断るのは自由だぞ」
ファルハルドはちらりとダリウスに目をやり、そして剣を抜いた。
「いいだろう」
ダリウスは認め、オリムは苦い顔になり、見ていた団員たちは騒ぎ始める。
アレクシオスとファルハルドは向かい合ったまま、ダリウスたちから距離を取る。
両者はその手に抜き身の剣を持つ。アレクシオスがまとうは鋭利な殺気。ファルハルドを満たすは静かな闘志。
「なぜと問わないのだな」
アレクシオスは穏やかに口にし、ファルハルドは淡々と答える。
「訊いたところでやることは変わらない」
「たいしたものだ」
アレクシオスは微かに笑い、同じ言葉を繰り返した。
「一つ教えておこう。私はイルトゥーランの暗殺部隊と関わりがある」
ダリウスの目は険しくなり、オリムや団員たちは驚きの声を上げた。ファルハルドは変わらない。ただ、告げる。
「同じこと。襲われれば倒す。ただそれだけだ」
「さて、できるかな」
言葉を交わすのはここまで。ここから先に言葉は要らない。




