90. 悲壮 /その①
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「お、なんかできてるじゃねぇか」
オリムは開拓地を見下ろす山の上から東村を見、愉快そうに声を上げた。
六の月半ば過ぎ、出兵したファルハルドたちはおよそ四箇月ぶりに開拓地へと帰ってきた。
畑仕事をしている東村の村人たちと挨拶を交わし、新しく造られた防衛柵と堀を確かめながら進んでいく。さすが軍の手により造られただけはある。実にしっかりとした造りとなっている。
一つ欠点を挙げるなら、元の防衛柵よりも長い距離で囲っているため、村人だけでは全体に配置するには人手が足りないことが考えられる。
ただ、こればかりは仕方がない。防衛の本命は元の防衛柵と空堀、土塁とし、新しく造られた柵や堀は予備として考えるぐらいにしておけばよいだろう。
「おいー、やっ。よお、クズども。達者にしてたか」
オリムが声を掛け、東村に駐在する団員たちがファルハルドたちを出迎えた。
ダリウスたちが出兵していた間の闇の怪物たちの出没頻度は去年と同程度であったそうだ。本隊隊員一名とラグダナから連れてきた困り者一名が戦死している。他には困り者が一名、悪さをしようとしたため粛正したということである。
ダリウスは報告を聞き、内容を認めた。
ワリドとも少し話をした。
農耕神の神殿から派遣されるという神官はすでに赴任していた。ただ、どうやらこの開拓地の両村、さらには南の山々を越えた先にある開拓地の村々に派遣されている神官たちの取りまとめ役も兼ねているらしく、月の半分は東村にいない状態だという。
今も神官は留守にしている。そんな状態だが、それでも神官が派遣されてきたことをワリドはとても喜んでいた。かなり優秀な人物らしく、強い法術も使いこなせば、農業知識も豊富なのだそうだ。
それはファルハルドたちにとっても喜ばしい話だった。
出兵した団員たちの半数はこのまま東村に残し、休ませる。ダリウスとオリムはアレクシオスからも報告を聞くため残りの半数を連れて西村へと向い、スィヤーの姿が見えないことからファルハルドも一緒に西村へ向かうことにした。
大勢がまとまって移動しているせいか、途中での怪物たちの襲撃はなかった。
そして、西村に辿り着き、畑に出ている村人たちに声を掛けた時。村の中から叫び声が聞こえた。
ダリウスたちは村内に駆け込む。が、人々の姿は見えない。南西の方角が騒ついている。現場へと急行する。
そこにいるのは数名の腰を抜かした村人、武器を手に立つ傭兵たち、クーヒャール神官。
そして、その視線の先には。黒毛の犬の悪獣。いや、犬ではない。それは狼犬。
ファルハルドは愕然とする。スィヤーが悪獣と化している。
─ 2 ──────
アレクシオスが牽制し、荒れ狂うスィヤーの動きを止めている。
スィヤーは新たな人間を見つけ、激しく牙を剥き出し唸り声を上げる。咆吼と共に跳びかかろうとする。しかし、クーヒャール神官が光壁を展開し、妨げた。
クーヒャールならば、動きを封じたまま浄化することも可能だ。だが、クーヒャールは躊躇った。クーヒャールもスィヤーを可愛がっていたが故に。
スィヤーが西村に遊びに来た際には、よく自分の分の食糧を取り分け与えていた。ある時などは大真面目な顔で農耕神の教えを説いていたこともあった。
どうしても、情を断ち切れない。
それは周囲を取り囲む傭兵たちも同様だ。殺し殺されるしかない殺伐とした日々のなかで、すくすくと成長する仔犬の姿は皆の心を癒やしていた。厳ついおっさんたちにとっても、無邪気なスィヤーの姿は愛くるしかった。
だが、躊躇うことに救いはない。悪獣と変じた獣は二度と元に戻ることはないのだから。
たとえ額の赤い第三の目を潰したとしても、それは生存本能を取り戻すだけ。凶暴性が減じはすれども、人を襲うことを止めることはない。
光壁が消えればこの場にいる者たちを襲い、万が一ここから逃げ出すことがあれば、別の場所で新たな犠牲者を生むだけなのだから。
悪獣は倒さなければならない。それが人としての、戦う者としての務め。
団員たちの躊躇いを見て取り、ダリウスが進み出た。
ダリウスもまた、スィヤーをとても可愛がっていた。それでも誰かが遣らなければならないのならば、辛い選択を引き受けるのは団を率いる者の責任なのだから。
肚を括り、足を踏み出したダリウスを一本の腕が遮る。
それはファルハルド。スィヤーを殺させはしない、という意味ではない。スィヤーを救う方法がないことはファルハルドも理解している。
だから、スィヤーの命を奪うのならば。それは自分の役目。他人に行わせることも、他人に背負わせることも、あり得ない。襲われていたスィヤーを助け、最も多くの時間を共に過ごし、最も懐かれていた自分が行わなければならない。
ファルハルドはそう考えた。
ダリウスもできるのか、などと馬鹿なことを尋ねはしない。ファルハルドの想いを汲み取り、団員たちへ指示を飛ばす。
「場所を空けろ」
スィヤーを囲む団員たちを下がらせた。広く場所を空けさせ、同時にもしもの逃走を防ぐため囲んだままの待機を命じた。
ファルハルドは進み出る。
ファルハルドはなんとか怪我からは恢復した。しかし、体力、筋力が格段に落ちている。最も危険であった時は頬骨や肋骨が浮き上がるほどに痩せ細っていた。
今はその時よりはましにはなっている。が、まだまだすぐに息は切れ、存分には身体は動かない。
そんな状態であっても、ファルハルドなら一対一で悪獣に負けることはない。そう、躊躇いなく剣が振れるのであるならば。
ファルハルドは進む。
スィヤーは狂ったように光壁に身体をぶつけている。光壁を挟み、ファルハルドはスィヤーと向かい合う。
スィヤーは自らの過剰な強力により、動けば動くほど己の身体を損なっている。
吠え声を上げる口では牙が剥き出され、絶えず唾液を撒き散らしている。額に裂けた第三の目は深紅に染まっている。瞳には知性も、意思も感じられない。
見て取れるのは、ただ一つ。狂った凶暴性。他にはなにもない。
ファルハルドはその猛り狂う様を言葉なく見詰める。深く深く息を吐く。肺を満たす空気を最後の一絞りまで全て吐ききり、息を止める。
瞳を閉じる。思う。スィヤーとの出会いを、共に過ごした時間を。
出会いは偶然だった。
凶暴化した狼の群れにスィヤーとその母犬が襲われていた。てっきり人が襲われていると勘違いしたファルハルドが助けに向かえば、そこにいたのは犬。
一瞬、そのまま放っておこうかとも考えたが、母が仔を庇い、仔が母を庇う姿を、そして仔犬が狼犬であることを見て取り気が変わる。
そして、スィヤーはファルハルドに懐いてくれた。負傷と疲労により倒れた際には、傍を離れることなくずっと付き添ってもくれた。その振る舞いに、どれほど心癒やされたことか。
そう、人と犬。種族は違えども、スィヤーはもう一人の自分であり、間違いなく家族であった。家族であったのだ。
だからこそ。スィヤーに人を襲わせなどしない。憎しみから、苦しみから解放してやらねばならない。
瞳を開く。息を吸う。剣を抜いた。スィヤーを見詰めたまま告げる。
「光壁を消してくれ」
クーヒャールは光壁を消した。スィヤーは迷うことなくファルハルドに襲いかかる。
ファルハルドは一言、語りかけた。
「済まない」
ただ一振りで、その首を刎ねた。




