86. 二つの戦い /その⑪
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刀を振るうことに全てを注ぎ込んだファルハルドに受け身はとれない。
断ち切り刀を振りきった姿勢のまま、地面に激突する。左鎖骨は折れた。肘、膝、脛、腰、背筋も傷め、おそらくそれ以外の箇所も無事ではない。
動けない。指一本、動かせない。勝負は、雪熊将軍はどうなったのか。
ファルハルドは懸命に身体を動かそうとする。言うことを聞かない。歯を食い縛り、なんとか身体を回した。
見えた。すぐ横に立つ人物の足が。そのまま目を動かし、見上げる。
雪熊将軍は立っている。その首から止めどなく血を流しながら立っている。雪熊将軍はファルハルドを見ていた。楽しげな笑みを浮かべて。
雪熊将軍の身体が揺れる。左手から大剣が滑り落ち、雪熊将軍は膝をついた。
何者かが近づいてくる。その人物はファルハルドにいかなる時も揺らぐことのない力強い声を掛けた。
「なにを無様を晒している」
やってきたのはダリウス。そして、他の立会人たちも決闘の終わりを見て取り、集まってきている。
ファルハルドが瀕死の重傷なのは誰が見てもわかる。だが、ダリウスは甘い言葉など掛けはしない。口にするのは戦士としての覚悟。
「お前が無様を晒せば、雪熊殿の末期を汚すことになる。立て。戦士であるのならば、立て」
ファルハルドは立ち上がろうと藻掻くが、どうしても立ち上がることはできなかった。ファルハルドの立ち上がらんとする意思を確認したダリウスは肩を貸す。ファルハルドは呻き声を漏らしながら、立ち上がった。
「お前が終わらせるのだ」
戦士の心意気を知るダリウスは、自らの手で決着を付けろとファルハルドを諭す。
どれほど辛くとも関係ない。ここで雪熊将軍を放置し死なせては、戦士としての最後を全うさせることができない。
それは他の者が介錯しても同じこと。雪熊将軍を降したファルハルドが止めを刺すことだけが、雪熊将軍に名誉ある最後を贈ることができる。
ファルハルドは逃げない。一人の戦士として、この偉大なる戦士の、そして己の憧れた英雄の最後を汚すことなど考える筈もないのだから。
ファルハルドは雪熊将軍と向かい合う。
雪熊将軍は声を出さないまま、歯を見せて大きく笑う。
今、雪熊将軍の胸を満たすのは充実感。生涯最高の相手と最高の戦いを行えた。明らかに自分に劣る実力でしかなかったファルハルドが、戦いの中で自らに届く実力を発揮し、こうして自分を降して見せた。
満足だ。この上もなく満足だ。良き戦士との良き戦い、その果てにある満ち足りた死。これに勝る幸福はない。
人が弱さを克服する姿をこの目で見られた。そうしなければ乗り越えられない壁として、自分は立ちはだかれたのだろう。
そう、自分はもう、あの日のような情けない存在ではなくなっていたのだ。
雪熊将軍は素直にそう思えた。
故郷が蹂躙されてより、ずっとその胸に巣食い続けた自責の念は洗い流された。
明鏡止水。清明なる境地に至る。数十年に及ぶ憎悪と殺戮、後悔だけの人生の果て、手に入れたのは静かなる心。
雪熊将軍はこの幸福を与えてくれた人物を見る。まさに襤褸襤褸、まさに瀕死の状態。それでも心折ることなく、闘志を失わず、敬意をなくすこともない。なんと見事な男か。
雪熊将軍は幼少期のファルハルドに会ったことはない。しかし、デミルがイシュフールのナーザニンを捕らえ、慰み者としていたことは知っていた。そして、子供が産まれたことも。
その子供が悲惨な幼少期を送ったことは容易に想像がつく。生き残ることは難しく、仮に生き残ることができたとしても、真っ当な人間に育つことはそれ以上に難しい。
だが、その子供はこうして素晴らしき若者へと成長していた。強き意志と真っ直ぐな気性を持ち、困難に挑む良き戦士に。弱さを乗り越えられる強き戦士に。
善き哉。この見事なる戦士を讃えよう。この上なく幸福な時を与えてくれた恩人への礼として。未来ある若者へ、この世を去る年寄りがせめて残せるものとして。
そして、この若者が血と争いを好むイルトゥーラン王家の濁った血に呑まれることがないように。
己より弱い者を苛むことに喜びを見出すベルク王のようにならないために。
雪熊将軍の死期はすぐそこ。大量の血を流し、もはやその身に力は残っていない。途切れがちになりながら、懸命に声を絞り出す。
「汝、の、宙を舞う、その、戦い、方は、無二、に、して、秀、麗。見、事だ。汝を、『飛天』、と、称、えよう」
雪熊将軍はデミルより受け継ぐ剣才ではなく、ナーザニンより受け継ぐイシュフールとしての特性を讃えることで、ファルハルドをイルトゥーラン王家の血の狂気から遠ざけようとする。
ファルハルドも瀕死。声を出すのも辛い状態であるのは同じ。それでもファルハルドは応える。
「俺は、慈愛の、母、ナーザニンの子、そして、パサルナーン、迷宮、挑戦者。俺が、背負う、名は、それだけだ」
迷うことなく言いきった。
それもまた良し。雪熊将軍は満足する。揺らぐことなく己が道を行くのなら、狂気の血に呑まれることもないだろう。
雪熊将軍は立会人たちに遺言を残す。
「ケ、マル。あとの、ことは、頼む」
イルトゥーラン側の立会人、初老の男ケマルは応える。
「はっ。お任せを」
もう一人のイルトゥーラン側の立会人である、白い毛皮を被った人物に柔らかい目を向けた。
「エレ、ム。心の、ままに、生き、よ」
白い毛皮の人物エレムは頭から被っている白い毛皮に手をやる。毛皮を外す。豊かな長い髪が零れ落ちた。
ファルハルドたちは驚いた。この白い毛皮の分隊長は女性。遠くでオリムが変な声を上げている。
エレムはファルハルドたちの様子を気に掛けることなく、雪熊将軍に応える。
「はい、父上。ジュスールにも、そのように」
雪熊将軍はダリウスにも目を向ける。すでに顔からは血の気が失せている。それでも、その目の力は失われていない。
「ダ、リウ、ス、殿。良き、戦、いだっ、た」
ダリウスは重々しく頷いた。
「ああ。雪熊殿。貴公は俺の知る最高の戦士だ」
雪熊将軍は最後にファルハルドに目を向ける。
「若、き勇、士、ファル、ハルド、よ。汝、に、栄、光と、武運、が、あら、ん、ことを」
ファルハルドは無言で頷いた。
「送、って、く、れ」
ダリウスは力の入らぬファルハルドの腕に手を添える。断ち切り刀を高く掲げ、ファルハルドは告げる。
「雪山の、勇者、オルハン。あんた、のことは、忘れない」
雪熊将軍は微かに笑んだ。
それは小さな、だが万感の想いが籠められた笑み。全てを肯定し、全てに満足した者だけが浮かべること能う表情。ファルハルドによって齎された想いの表れ。
雪熊将軍を満たす想いは見る者全ての胸へと届く。
刀は振り下ろされる。後には偉大なる戦士の冥福を祈る、ファイサル神官の祈りの言葉だけが残された。
次話、「謁見」に続く。
来週、再来週は更新お休みします。次回更新は1月15日予定。
いやー、なんとか、この話を今年中に終えることができました。まったく、書くほど延びて全然終わらないこと。一話が十一回分になるって。いやいや、焦りました。ほんと、終わって良かった(;^_^A。
えーと、これで二章の残りが後三分の一か四分の一くらいになる、のかな? 二章開始時の予定では今頃は三章の半ばくらいの予定だったんですが、ま、まあ、ね。そこは、ね。いろいろあったということで……。
なんのかんのとありながら、書くことを継続できているのはお読みいただいている皆様のお陰でございます。感謝、感謝でございます。
では皆様、善いお年を。




