85. 二つの戦い /その⑩
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ファルハルドが飛ばされ、地面に叩きつけられた場所には多くの骸が転がっている。
それは昨日までの戦場となっていた場所。戦死者が横たわり、使っていた装備が転がっている。足場は悪い。ファルハルドが戦うには不利な場所となる。
雪熊将軍は地面に転がる大剣から右腕を引き剥がし、剣を拾い上げた。大剣は半ばから断たれている。左腕一本でも充分に振るうことができる。
ファルハルドは体当たりをくらった際に、手に持つ短剣を飛ばされていた。
問題ない。この場は昨日までの戦場、代わりの武器などいくらでも転がっている。大半は刃毀れした剣やファルハルドにとって使いにくい斧ではあるが。
右腕を失おうとも、雪熊将軍は止まらない。ファルハルドへと迫る。
ファルハルドは立ち上がろうとする。が、一時の高まりはすでに止んでいる。傷は深く、身体に力が入らない。足下に転がる武器や骸に足を取られ、何度も転びかけなかなか立ち上がれない。
足下に転がる剣を掴み、剣を支えに立ち上がろうとする。膝が震える。吠える。雄叫びを上げ、立ち上がった。
魔力の残滓は体内を巡っている。しかし、初めての魔法剣術の発現の負担は大きかった。二度目の発現は不可能。震える膝、倒れそうな身体、慣れぬ剣で雪熊将軍を迎え撃つ。
雪熊将軍は右腕を失い、その身体は不均衡。身体の軸はずれ、思うように動けない。繰り出せるのは、技能などまるでない大きく振り回すだけの斬撃。
しかし、力は失っていない。間合いは短くなり、狙いは大雑把になりながらも、剣の威力は衰えない。左腕一本で、短くなった大剣を振り回す。
ファルハルドは戦うどころではない。立てたことが奇跡。剣を避けようとする動作は身体を傾げさせ、そのまま倒れかける。
肉体はとうの昔に限界を迎えている。今のファルハルドを支えているのは精神。極限まで高まった闘争心と生きて帰るという堅い決意がファルハルドを支えている。
身体は満足に動かない。しかし、雪熊将軍の剣筋は見えている。振られる軌跡が、繰り出される位置が、仕掛けられる瞬間が、まるで一呼吸先の未来が見えているようにはっきりと把握できている。その理解だけが、限界を迎えた肉体での回避を可能とする。
両者とも重傷。時間を置けば二人共が死ぬ。それでも、雪熊将軍もファルハルドも戦いを止めることなど考えない。倒す。この敵を倒す。戦士として、戦いの果ての結末を。
立会人たちにも止めることなどできない。立会人たちは他者からの決闘への介入を、どちらかが降参した後も続こうとする戦闘を防ぐためにいる。
どちらからも降参の申し出はなく、継戦の意思を示されれば、立会人たちに止める権利はない。いずれか、あるいは両者の死による決着が訪れるまで見守ることしかできない。
雪熊将軍の剣が唸る。ファルハルドには見えている。しかし、回避が間に合わない。手にする剣を翳した。
剣は弾かれ、飛ばされる。剣が弾かれた勢いに身体も傾ぐ。身を掠めはしたが、なんとか雪熊将軍の剣を避けることだけはできた。
蹌踉めくファルハルドは倒れそうになる。足がよたつき、斜め後ろに下がっていった。
立木に身体を打ちつける。息を吐いた。動けない。
雪熊将軍は追い縋る。多くの血を失った雪熊将軍の顔色は青い。しかし、その力はまだ失われていない。言語にならない咆哮を上げながら剣を振る。
ファルハルドは幹を回り込んだ。雪熊将軍の剣は幹に当たる。勢いを減じながらも幹を両断し、刃はファルハルドに達する。革鎧を刻み、ファルハルドの胸に、一筋の新たな傷を付けた。
ファルハルドはもう自らの身体を支えられない。支えられるだけの力がない。崩れ、仰向けに地面に横たわる。
地面に身体をぶつけた衝撃に閉じかけたファルハルドの目に映る。
わずかに離れた場所に横たわる見覚えのある二人の姿が。黒い毛皮をまとった分隊長に斬り殺されたアキームとザリーフが骸を晒す姿が。
その時、ファルハルドを動かしたのは、思考ではなく衝動。親しき者たちが骸を晒すその姿が、ファルハルドの生存本能を激しく刺激する。
湧き上がる衝動。命を燃やす。
魔力とは『始まりの人間』に由来する光であり、この世にある全てのものを成り立たせる根源となる力。
その存在の根源となる魔力を使い尽くせば、人の身は塵となって崩壊する。そこにあるのは完全なる消滅、永遠の無。二度と生まれ変わることもなければ、その魂に救いが訪れることもない。
知ったことか。あるのはこの瞬間。乗り越えるべきはこの試練。
戦いの中で習い覚えた魔力を操る感覚を道標に、根源の領域にある魔力を探り出す。今、ファルハルドは人の身に宿る最後の力を原動力とし、その身を動かす。
襲うは存在そのものが揺らぐ痛み。それは存在の危機を意味する警告。嘗て感じた痛みを何倍にも強めた痛み。
ファルハルドは止まらない。止まる理由も、止める理由もない。己が存在の全てを危険に曝そうとも、この敵を倒す。幼き日、憧れたその相手を。出会った最強の敵を。
痛みを無視し、見覚えのある武器へとその手を伸ばす。それはザリーフの使っていた断ち切り刀。
掴む。迎え撃つのではなく、自ら攻める。断ち切り刀を手に、雪熊将軍へとその足を踏み出した。
雪熊将軍は迎え撃つ。本懐を遂げんがために。
雪熊将軍は故郷を蹂躙したデミルを倒すことを宿願としていた。
復讐のために。違う。弱さ消すために。故郷を滅ぼされながらなにもできなかった、情けないあの日の自分を消し去るために。
デミルこそが生涯を懸けて倒す敵だと思っていた。求め続け、目指す宿敵だと考えていた。
だが、違う。間違いない。この若者こそが真に自分が望んだ相手。目の前で弱さを乗り越える姿を具現するこの若者こそが求めた存在、生涯最高の好敵手。この若者こそが生涯最後の戦いを飾るに相応しい至高の敵。
雪熊将軍は全霊をもって迎え撃つ。
ファルハルドが最も色濃く受け継ぐ特性は、イシュフールの身軽さ。本能に衝き動かされるファルハルドは、その本能のままに跳ぶ。
身を満たす魔力は雪熊将軍の背丈を越える跳躍を可能とした。頭上を取った。この一振りに全てを懸ける。
雪熊将軍はファルハルドの動きを捉えていた。
あるいはファルハルドの姿を見失っていれば結末は違ったかもしれない。永年の執着に縛られず、冷静に判断してれば勝者は違ったのかもしれない。
雪熊将軍はファルハルドを目で追った。跳躍し、頭上を取ったファルハルドの姿を。それが意味するのは。
頭上を見上げた雪熊将軍の兜と鎧の間に隙間が生じる。それは通常ならば存在しない空白。頭上を見上げる、その行動によって初めて生まれた一筋の空間。
ファルハルドの目は見逃さない。その一筋の隙間を狙い、断ち切り刀を振り下ろす。
断ち切り刀。ダリウス率いる傭兵団で好まれる、刺突には向かぬが切断力に優れた頑丈な武器。
雪熊将軍は避けない。大剣をもって迎え撃つ。雪熊将軍の大剣はファルハルドにより半ばから断たれている。
そう、雪熊将軍が長年愛用し、身体の一部の如く把握していた大剣の長さは変わっている。
ファルハルドの振るう断ち切り刀を迎え撃った雪熊将軍の大剣は、刀を掠めるに止まった。折ることも止めることもできず、わずかに軌道をずらすのみ。
素早く、空間把握能力に優れるファルハルドは、瞬間的に軌道を修正。
刃は雪熊将軍の首元へ。




