53. 望まぬ再会 /その④
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ファルハルドはなにも言えない。
ダハーとラーティフが死んだ。悲しい出来事だと思う。だが、二人の死と、ヴァルカが賊へと成り下がった理由が上手く結びつかない。
ファルハルド自身、母の死により生きる意味を見失ったことはある。レイラが斬られた姿を目にし、怒りに我を忘れたこともある。
だが。だからといって、無辜の民を襲おうとなどと考えたことはない。
あの明るくいい兄貴分となっていた男が、なぜ賊になど身を堕としたのか。ファルハルドには理解することができなかった。
それでも感じる。まとう荒んだ気配が、暗さを増した瞳が、ダハーとラーティフの死を告げた生気のないその声が、二人の死こそが理由であると間違えようもなく示している。
「ヴァルカ」
ファルハルドはヴァルカの名を呼ぶ。
「二人はなんで」
「煩ぇ! 煩ぇ、煩ぇ、煩ぇ、煩ぇ、煩ぇ、煩ぇ、煩ええぇー!」
ヴァルカは喚きながら、大きく拳を振りかぶる。
ファルハルドがダリウスと手合わせをして過ごした日々は、わずか十日足らず。それでも豪勇無双のダリウスとの濃密な訓練の日々は、ファルハルドを拳を用いる相手との戦いに慣れさせていた。
それでなくとも、冷静さをなくし、ぶんぶんと振り回すだけの拳などファルハルドにとって避けるに容易い攻撃。
だが、ファルハルドは避けなかった。鍛えているとはいえ、筋力に劣り細身のファルハルドの耐久力は低い。それでも敢えてその身でヴァルカの拳を受ける。
ヴァルカは滅茶苦茶に腕を振り回し、所構わずファルハルドを打ち据える。
拳を振るいながら、馬鹿のようにひたすら煩ぇと繰り返す。怒気に満ち、狂気にさえ感じられるその言葉は、ファルハルドには悲鳴に聞こえた。
経緯はわからない。詳細もわからない。だが、そこにある感情は、痛みは、苦しみはわかる。確かにそこにある自責の念は、自身を壊してしまいたいと願う衝動は、嘗てあり今もファルハルドの奥底にあり続けるものと同じもの。
ファルハルドは受け止める。ヴァルカの拳を、想いを受け止める。ファルハルドが自責の念を、絶望を乗り越えられたのは自分の力ではない。愛する人と仲間のお陰。
ファルハルドにはできない。レイラのように全てを受け入れ、優しく包み込むことなどできない。
ファルハルドにはできない。バーバクやハーミのように厳しく教え諭し、正しく導くことなどできない。
ファルハルドにはできない。ジャンダルのように全てを見抜き、素知らぬ顔で気持ちに寄り添うことなどできない。
だから、ファルハルドは己にできることをする。真っ向から受け止め、真摯に返す。ヴァルカの想いに赤心をもって向かい合う。
ヴァルカの拳にファルハルドも拳をもって応じる。
ファルハルドは素手で戦うには向いていない。筋力が足りず、体重が足りない。どれだけ拳を繰り出そうとも、相手の芯にまで届く打撃を繰り出すことは難しい。
だから、ファルハルドは届かせる。拳でなく、言葉を。
「いったい、なにがあった」
「煩ぇ」
「二人はどうして死んだ」
「煩ぇ」
「二人が今のあんたを見たらどう思う」
「煩えぇぇぇぇ」
顔面を狙ってヴァルカが振り回した腕を絡め取る。肩と肘を決め、ヴァルカを引き倒した。腕を固めたままヴァルカを地面に押しつけ、その背を膝で押さえる。
「あんたは言った。故郷に戻り、畑を耕し生きていくと。それがなんでアルシャクスで賊働きをしている」
「煩ぇっつってんだろが」
ヴァルカは怒りにまかせ、激しく身を捩り暴れる。腕を決められたままで立ち上がろうとする。関節は音を立てる。
折れる寸前、ファルハルドは腕を放した。ヴァルカは上に乗るファルハルドに再び頭突きをくらわし、撥ね飛ばす。
両者は荒い息を吐きながら、向かい合う。
ファルハルドは迷う。自分の言葉では届かないのか。このままヴァルカを賊として退治するしかないのか。
……いや、違う。ああ、そうだ。届く筈がない。当たり前だ。自分は踏み込んでなどいなかった。自分は単に問うていただけだった。こんな言葉で届く筈がない。
本当はわかっていた。最も言わねばならない言葉を。そう、最初から。
ファルハルドは静かに深く息を吸い、肚に力を籠める。覚悟を決め、決定的な言葉を告げる。
「ヴァルカ。あんたは友の死を穢している」
ヴァルカの目の色が変わった。暗く沈んだ瞳が灼ける怒りを湛えたものと変わる。
「煩ぇぞ。おたおたしてた糞餓鬼が偉そうに説教垂れてんじゃねぇ。ご大層な人間にでもなったつもりか」
ファルハルドはヴァルカの言葉に取り合わない。静かに言葉を続ける。
「ヴァルカ。なにがあったのか俺にはわからない。
だが、わかる。あんたは逃げている。苦しみから逃げ、自らの弱さから逃げ、立ち向かうことから逃げている。友の死を言い訳に利用している。
あんたはそれを知っている」
「手前」
ヴァルカの顔は憎悪に歪む。ファルハルドに掴み掛からんと、前に踏み出した。
「俺も同じだった」
ヴァルカの足が止まる。
「俺は囚われていた母を助け出すためだけに生きていた。だが、助け出せず母は死んだ。
その時から俺は死にたいと願い続けた。母は俺が生きることを望んでいたのにだ。絶望に呑まれ、安易な道に逃げようとした。それが母の願いを踏み躙ることだとわかっていながら」
ヴァルカはなにも言わない。
「俺が立派な人間の筈がない。俺はただの卑怯者だ。そして、それはあんたもだ!」
ヴァルカはなにも言わない。沈黙だけが場を支配する。
「……お前と一緒にするんじゃねぇ」
ヴァルカは力なくわずかに目を伏せ、呟くように声を絞り出した。ファルハルドは揺るがない。真っ直ぐにヴァルカを見詰め返す。
「そうだ。同じである訳がない。人は皆違い、苦しみも皆違う。同じ体験をしたとしても、その苦しみは皆違う。村々を襲い、他人に同じ苦しみを与えようとしていい筈がない」
ヴァルカは俯き、両の拳を堅く握り締める。爪は掌に刺さり、握り締めた拳からは赤い血が滴り落ちた。
ヴァルカは肩を震わせる。激しく頭を振り、上半身を震わせた。吠え声と共に真っ赤な顔を上げた。
「煩えぇぇぇぇー!」
ヴァルカは走り寄り、固めた拳を繰り出した。大振りの、しかし今までとは違う拳。それは今のヴァルカの全てが籠められた全霊の拳。
ファルハルドは逃げない。迎え撃つ。踏み込み、拳を繰り出した。両者は真っ向から、互いの拳をぶつけ合う。
ファルハルドが拳で渡り合って勝てる筈もなし。
だが、しかし。一点の読み違いがあった。ファルハルドはこの時までに散々にヴァルカの拳を受けていた。そして、ファルハルドの肉体の耐久力は高くない。
踏み出した膝は力なく折れた。腰は落ち、ファルハルドの顔面を狙ったヴァルカの拳は空振り。結果として、ファルハルドは低い姿勢でヴァルカに全体重を載せた体当たりを浴びせかけることとなった。
ヴァルカは弾き飛ばされ、激しい音を立てて立木に叩きつけられた。よたつくファルハルドの足は止まらず、強かに立木に身体を打ちつけ、やっと止まった。
ヴァルカは手足を投げ出し、地面に横たわる。身動ぎ一つしない。ファルハルドはぎこちなく歩み寄り、ヴァルカを覗き込んだ。
「生きてるか」
「……ああ」
「まだ、やるか」
「いや」
「そうか」
ファルハルドはその場に手をつき、腰を下ろした。ヴァルカは顔を両手で覆い、嗚咽を漏らす。ファルハルドはヴァルカから目を逸らし、空を見上げた。
しばらくそうして過ごし後、ヴァルカは落ち着きぽつりと零した。
「俺らは使い捨てられた」




