37. 闇からの紆濤 /その④
この物語には、残酷な描写ありのタグがついております。ご注意下さい。
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ファルハルドが初めて亡者と戦ったのは、話を聞いた二日後のことだった。
襲撃は凪の状態であるとは言え、完全に途絶えている訳ではない。やはり小規模な襲撃は続いている。話を聞いた日も、その次の日も闇の怪物たちとの戦いは行われた。
この二日間に中った怪物たちの群れはそう大きなものではなかった。ただし、話を聞いた次の日に中った群れには、ファルハルドがこの地では初めて見かける怪物が交ざっていた。
蜥蜴人。あの硬い鱗と素早い動きを持つ獣人が姿を見せた。
この時の群れには悪獣は含まれず、全て闇の怪物から構成されていた。猪人六体、豚人四体、そして蜥蜴人が黒い鱗を持つ個体が二体、朱色の鱗を持つ個体が一体である。
ファルハルドは自分に最も近い位置に姿を見せた猪人へと向かう。攻撃を躱し、斬りつけながら全体の動き、特に蜥蜴人の動きに気を払う。
黒い蜥蜴人一体と猪人一体がダリウスへと襲いかかる。アキームが朱色の蜥蜴人と戦い、ザリーフは豚人を相手取る。もう一体の黒い蜥蜴人は本隊隊員三名で立ち向かい、残る猪人四体と豚人二体は本隊隊員十二名が集団で交戦する。
猪人や豚人はなかなかに知能が高い。上手く連携を取り合い、本隊隊員は押されていく。ダリウスも敵を倒すのに手間取り、すぐに駆けつけられる状態にはない。
本隊隊員たちの受ける傷が増えていく。均衡が隊員たちの不利へと傾こうとした時、猪人を倒し終わったファルハルドが駆けつけ、背後から豚人を斬って捨てた。
この救援に本隊隊員たちは勢いづいた。敵を押し返す。ファルハルドと本隊隊員たちは猪人たちを攻め立てる。
一方、ダリウスたちはそれぞれがそれぞれに手間取っていた。
ザリーフは久しぶりの実戦。動きに多少のぎこちなさが残り、なかなか勝負を決められない。
アキームの相手は純粋に手強い。
蜥蜴人らしい大きな爪や顎、素早い動きに硬い鱗を持ち、さらに朱色の鱗が熱く発熱している。
炎を吹き上げこそしないが、近寄れば熱気は肌を炙り、兜や鎖帷子を熱していく。さすがのアキームも攻めあぐねている。
そして、ダリウスや本隊隊員三名が戦っている黒い蜥蜴人の鱗は、通常の個体よりもなお一層硬く頑丈だ。
それでもダリウスの拳であるならば、一撃で砕くことも、一撃で内の肉の身に相当の衝撃を与えることも可能だが、その拳がなかなか当たらない。
蜥蜴人は素早い。そして、共に戦っている猪人が邪魔をする。ならばと先に猪人を倒そうとすれば、その隙を蜥蜴人が衝いてくる。
素早い敵と巧みな敵、両者を同時に相手取れば如何なダリウスといえどもすぐには決められない。
本隊隊員三名掛かりでの戦いも攻撃が通りにくく苦戦している。
この日の戦いの決着には時間が掛かり、皆が消耗した。無理をせずその日の野営は中止し、討伐隊は東村に戻り休んだ。
そして、明けて翌日の戦闘で亡者たちが姿を現した。
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その時の群れは悪獣も加わった、久しぶりの規模の大きなもの。犬人、狼人を中心としながら、犬や狼、猿、兎などの悪獣が加わった群れだった。
このなかで猿と兎の悪獣が曲者だ。戦場は多少、立木が疎らになっているとはいえ、林の中。猿の悪獣は木に登り、立体的に攻めてくる。
そして、兎の悪獣は。悪獣化していても一体一体ならさほど怖れる相手ではない。だが、小さな身体、敏捷性に優れる動きと、他の悪獣、怪物たちとの戦いの最中に襲って来られればその攻撃を避けることは難しい。
猿の悪獣がいるために目の前の敵だけではなく全方位に注意を向けねばならず、兎の悪獣が加わったがために有利に進めていた戦況が何度もひっくり返される。
戦いは長引き、苦戦を強いられた。
苦戦を強いられ、多くの負傷者を出しながらも形勢はなんとか討伐隊の有利へと傾いた。
襲い来る狼人二体の首をまとめて落とし、次の敵へと目をやったファルハルドの視界の端に奇妙なものが映った。
それは人。おそらくは一般人の親子。ただし、なぜか親子は怪物の群れの中を平然と歩いている。
なぜ怪物たちがその者たちを襲わないのかはわからない。しかし、そのまま無事で済むとは思えない。
ファルハルドが助けに向かおうと駆け出そうとした時、あり得ない姿が見えた。
駆け出すため目の前の悪獣を斬り捨てた結果、悪獣によって塞がれていた視界の一部が開け、悪獣の陰に隠れていた部位が見えたのだ。
そこは腹。いや、腹があった部分。今はなにもない。腑は喰い荒らされ、乾いた血がこびりついた背骨が覗いている。
その姿が視界に映った瞬間、ファルハルドの背に冷たい汗が吹き出した。
あれは人ではない。亡者、嘗て人であった者が闇の怪物と化したもの。死人が地上を歩く。その忌まわしさに怖気が背中を駆け抜けた。
ファルハルドが亡者の姿に気を取られた隙を衝き、犬人が左から襲いかかる。反応が遅れた。躱しきれず、上腕を切り裂かれる。
そこにさらに悪獣が襲い来る。新たに襲い来る悪獣の牙は躱した。身を翻しながら、首を刎ねる。
追撃を狙ってきた犬人の手首を斬り飛ばし、返す刀で首を刎ねた。
ファルハルドを狙う敵は片付けた。一時的に戦闘の空白が生まれる。周囲では戦闘が続くが、この空白の時間を利用しファルハルドは左腕の傷を確かめる。
思ったよりも深い。幸い腕が動かせなくなることはなさそうだが、安心できる傷ではない。
腰の革袋からジャンダルが送ってきた血止めを取り出し、口の中で噛み潰したっぷりと傷口に塗り込んだ。
全体の戦闘はまだ続いているが、すでに形勢ははっきりと討伐隊の有利へと変わっている。あとは時間の問題だろう。このまま休んでいても支障はない。ない、のだが……。
ファルハルドは再び亡者へと目を向ける。生者の本能として、死した者が地上を歩く姿に恐怖を覚える。決して近づきたくない、離れたいと本能は訴えかける。心は揺れる。
ファルハルドは深く息を吸い、止める。目を伏せ、ゆっくりと全ての息を吐く。
亡者たちは迷宮の、その先にもいる敵。迷宮踏破を目指すなら、ここで避けようともいずれ必ずぶつかる相手。ならば倒す。逃げはしない。心気は落ち着き、心は定まった。
ファルハルドは駆け出した。立ち塞がる悪獣を跳び越し、一気に亡者たちへと迫る。
狙う。落下の勢いを載せ、肩口から心臓を貫いた。だが、亡者は止まらない。平然とファルハルドへとその腕を振るう。
剣を引き抜きながら後ろに跳び距離を取る。
確かに心臓位置を貫いた。それで変化がないのなら、亡者たちは痛みを感じず、同時に泥人形たちのような核となる部分はないと言うことだろう。ならば、どう対応すべきか。
無表情だった亡者たちの形相が一変する。怨嗟。生ける者への怨みにその顔を歪め、奇怪な叫び声を上げながら三体の亡者たちは襲いかかってくる。
ファルハルドは先に迫る男性の亡者の腕を剣で迎え撃つ。一撃で斬り飛ばし、遅れて迫る小柄な子どもの亡者を蹴り飛ばし、女性の亡者は肩からの体当たりで弾き飛ばした。
そのまま剣を振るい、男性の亡者の背骨の見える胴を両断し、返す刀で首を刎ねた。
目をやる。男性の亡者はその行動を停止し、ただの物言わぬ屍へと戻った。
刺突は無効、あるいは効き目が薄い。亡者たちには、貫くことよりその身を完全に切り離すことこそが効果的であるようだ。
再び、残された女性の亡者と子供の亡者が迫る。この亡者たちは動きも遅く、防御力は貧弱。攻撃手段も単調なもの。対応法さえ確立すれば倒すに容易い相手。
ファルハルドは余裕を持って子供の亡者の首を刎ねようとした。
その時。微かに、そしておそらくは偶然に。女性の亡者がまるで子供の亡者を庇うかのような動きを見せた。
その動きが目に映った瞬間、ファルハルドの剣は止まった。
剣を急停止させた負荷に体勢が崩れる。体勢が崩れたファルハルドに亡者たちが迫り、掴みかかってくる。
亡者たちの動きは遅い。体勢が崩れ、出遅れてなおファルハルドは避けられた。だが、その動きはぎこちない。
ファルハルドの心は再び乱れている。母が子を庇い、その母子に自らが剣を向ける。その状況にファルハルドの心は乱れに乱れた。
ファルハルドは力こそ劣るが、イシュフールの素早さと身の軽さ、目や耳の良さを持つ優れた剣士。
だが、今のファルハルドは。
ファルハルドにとって、力の弱さも動きの素早さもあくまでただの特徴。戦い方を組み立てる手懸かりであり、戦い方を構成する重要な部分であっても、詰まるところは単なる一要素に過ぎない。
強さの根幹となるものは別にある。それはなにか。
『己の死』に対する恐怖が薄いファルハルドは、『死』が間近に迫ろうとも思考を止めない。どれほどの危機であろうとも、平静な心理で最適な手段を見極める。
『己の死』をなんとも思わない、人として壊れているその部分こそが、こと戦いに於いては有利な部分となっている。
どんな状況でも冷静さを保っていることこそがファルハルドの強さの根幹。心を乱し思考が乱れれば、そこにいるのはただの凡庸な一剣士に過ぎない。
亡者たちの攻撃に押されていく。気持ちを立て直す切っ掛けが掴めない。ずるずると後ろに下がり、ついに大木を背に追い詰められる。もはや下がれない。
亡者たちは迫る。
女性の亡者がファルハルドの首に掴みかかり、絞め上げる。細腕に、人であればあり得ない強力。気管が潰され、血流は止まる。
子供の亡者はファルハルドの足に歯を立てた。腿を噛み千切らんとする。
首に掛かった亡者の手の冷たさが、肉が噛み千切られる痛みが、ファルハルドのその身に伝わった時。一つの思念がファルハルドを衝き動かす。
生きて帰る。交わした約束が今、ファルハルドを衝き動かす。
頭で考える前にその身は動いていた。剣を振るい、首を絞め上げる亡者の腕を斬り落とし、脚に噛みつく亡者を蹴り上げる。雄叫びを上げながら、乱雑に亡者たちを振り解く。
ファルハルドは何度も咳き込みながら、大きく深く息を吸う。痛みを感じない亡者たちは止まることなくファルハルドへと襲いかかる。
亡者たちの怨みに歪んだ表情を、常の人であればあり得ないその表情を正面から見詰めた。
この者たちは亡者。死んだ人間の、その亡骸が闇の怪物へと変質した存在。この者たちは、もはや人ではない。どんな反応を見せようともそこにあるのは人の意思でも、感情でもない。
すでに魂は失われ、残された身が闇に囚われ、闇に支配されている。人でないものを倒すことに躊躇う理由などありはしない。
そして、もし万が一、魂の一欠片でもその身に残っているというのなら、死した後も地上を彷徨わされているこの状態こそ、人としての尊厳が踏み躙られている状態。解放してやることこそが慈悲。
再び、ファルハルドの心は定まり、心気は鎮まった。
亡者たちは迫る。ファルハルドは前へと踏み出した。
ただ一振りで二体の首を刎ねた。
時を置かず、全体の戦いも終了する。




