25. 牛人との戦い /その③
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「ファルハルド!」
オリムが叫ぶ。
オリムたちにも牛人の咆吼は届いていた。しかし、距離が離れていたことにより、その影響は軽微。一瞬身体が硬直したに過ぎない。
ファルハルドは懸命に立ち上がろうとしている。死んではいない。牛人の突進を受けたが、距離が近かったことから突進に充分な勢いは乗っておらず、盾で受け、さらには距離を取ろうと地を蹴り身体が浮いていたお陰で衝撃を逃すことができた。
それでも、身体がばらばらになるかのごとき一撃。内臓は揺さぶられ、骨は軋み、思考は掻き乱される。突進を受けた盾はばらばらに砕けている。
命は繋がったが、すぐには立ち上がれないほどの被害を受けている。
懸命に立ち上がろうとする。だが、膝に力は入らず、濡れた地面につく手は上体を支えることができない。激痛。身体が傾ぎ、再び倒れた。
ファルハルドは己の腕に目を向ける。左腕が折れている。盾で受け、浮いた状態で衝撃を逃してなお、左腕は完全に折れていた。
そのまま身体を見回し、被害の確認をする。獅子型の泥人形との戦いで受けた傷、地面に叩きつけられた時の擦り傷打撲はある。見た目上はそれ以外には目立った被害はない。身体内部はわからない。
ファルハルドの目は自分の状態に向けられながらも、その思考は別のことに向かう。突進を受ける直前の出来事を追う。突進を受ける直前、身体が動かなくなった。あれはいったいなんだ。
オリムと髭なしハサンが叫ぶ。二人もまた戦闘中。発せたのは短い言葉。それでも懸命に伝えようとする。
「ぼっとしてんじゃねぇ」
「避けろ」
咄嗟にファルハルドは地面を転がった。それまでファルハルドがいた場所を牛人が走り抜けた。牛人は四足歩行でさらなる突進を繰り出していた。
オリムたちに声を掛けられたことで思い出す。オリムは牛人と戦い始めた時に注意を促していた。「咆吼に気を付けろ」と。
あれか。耳では聞こえず、だが確かに身体で感じた。あれがその咆吼か。
なぜ身体が動かなくなるのか、その原理はわからない。だが、思い出す。迷宮内で出会った敵を。牛人の無音の咆吼と同様に、身体を硬直させる敵がいたことを。
『彷徨う鬼火』。あの闇の怪物と同じく、身体を動けなくさせる敵がいる。そういうことなのだろう。
ファルハルドはのんびりとただ考え込んでいる訳ではない。今は戦闘中。牛人は容赦なく攻め立てる。
なんとか立ち上がり、思考を続けながらも半ば無意識に身体を動かす。
左腕が痛む度にわずかに反応が遅れながらも、牛人の攻撃を避けている。
牛人は興奮し、何度も同じ突進を繰り返す。強力で素早い、だが単調な攻撃。ファルハルドが思考が乱れ、半ば意識が飛んだ状態でも避けられたのはそのお陰。
しかし、いつまでもは保たない。牛人の角がその身を掠める。あと一撃くらえば助からない。ファルハルドは自らに迫る『死』を感じた。
手で触れられるほどの濃厚な『死』の気配。死の気配を感じることで、乱れていたファルハルドの気持ちは収まっていく。
ファルハルドにとって『己の死』こそが、心の奥底で欣求し続けてきたもの。生きると決めた今でも変わらず『己の死』は最も身近で、最も親しき友。
死の気配は冷静さを失わせることなく、逆にファルハルドの気持ちを落ち着かせた。
乱れた気持ちは鎮まり、思考は理由を求めることへではなく、勝利を求める方向へ収斂していく。
オリムと髭なしハサンが自らも戦いながら、叫ぶ。
「凌げ」
「こいつらを片付ける。それまで保たせろ」
二人は助けに行くと言う。ファルハルドは頭の片隅で計算する。
無理だ。二人はそれぞれ自分なりの戦い方で戦っている。それで一進一退、もしくはわずかに有利に進めている状態。
無理をすれば大きな隙を作り、危険を招く。ファルハルドを助けるため、二人が犠牲になりかねない。
精神を研ぎ澄ませ、思考を回転させる。どこだ。己の力で勝つ。その勝ち筋はどこだ、どこにある。
自分の状態。左腕、折れている。両肩、鈍痛。身体の芯から揺さぶられたことで、身体に力が入らない。全身の骨が軋んでいる。疲労も溜まり、踏ん張りは利かない。
だが、それだけ。それ以外に目立つ被害はない。この程度の危機は何度も乗り越えてきた。
周囲の状況。すぐに助けに来られる味方はいない。すぐに加勢してくる位置にいる敵もいない。
一対一。自分と牛人との戦い。悪くない。
敵は牛人。小型の巨人と同等の体格と獣人の素早い突進力、さらには身体を硬直させる不可思議な咆吼を持つ怪物。相手にとって不足はない。
強くなると決めた。必ず生きて戻ると約束した。誓った。十年以内にパサルナーン迷宮を踏破し、神殿遺跡でレイラの延命を願うと。
己を鍛えた。もっと実力を。巨人たちを倒せるだけの実力を欲した。
敵は牛人。分厚い筋肉と巨大な身体を持ち、数ある獣人の中でも最強の一角を占める存在。これこそが己が望んだ試練。
勝ち筋を探す思考が、周囲の状況を把握しようとするその目が、あるものを捉える。
あれは。ならば。ファルハルドの思考は加速する。
その道筋は細い糸。だが、確かに存在する。
ファルハルドの心は定まり、高らかに宣言する。
「こいつは俺が片付ける!」
─ 6 ──────
ファルハルドの宣言に、皆は絶句する。
本隊隊員たちは信じられない。あの男はとち狂ったのか。
商団の護衛役たちは考えが追いつかない。ファルハルドがなにを言っているのかわからない。
商団の者たちは耳を疑った。できる筈がないと。ただ一人、アラディブを除いて。
オリムと髭なしハサンもまさかと思う。だが、短い付き合いだが、ファルハルドが虚勢を張る性格ではないことはわかっていた。その短い言葉のなかに確かにある自信を感じ取る。
仮にその判断が間違っていたとしても、戦士が己が命を賭して行おうとすること。ならば共に戦う仲間として、その覚悟を尊重する。
二人はファルハルドを信じ、それぞれ目の前の戦いに集中する。
ファルハルドは敵の攻撃を躱しながら慎重な位置取りを行う。
まずは一手目。
少しずつ回復してきた身体に力を籠め、『身軽さ秀でるイシュフール』の特性を活かし、突っ込んでくる牛人の頭上を越える跳躍を行う。眼下を通り過ぎる牛人の首の付け根を狙い剣を繰り出す。
筋肉に阻まれる。浅い。しかし、これで充分。牛人は血を流し、さらに興奮する。
牛人はその場で立ち上がり、滅茶苦茶に腕を振り回す。風切り音が唸る。身の毛がよだつ。
突進にこそ劣れども、盾もなくすでに疲労や負傷が蓄積しているファルハルドにとって、一発でも貰えばそれは致命の一撃となり得る攻撃。
ファルハルドは集中力を高める。意識を集中させ、その身の痛みを強引に抑え込む。きれのある足捌き。横に、後ろにと躱し、牛人の攻撃を全弾躱してみせる。
躱すだけではない。躱しながら、剣で斬りつけ。皮一枚しか斬れずとも、牛人のその身は次第に赤く染まっていく。牛人はより一層頭に血を昇らせる。
牛人は至近距離、手を伸ばせば届くその距離から突進を繰り出す。ファルハルドは牛人が突進を繰り出す前に察知した。地面を掻く足の動きから突進を繰り出してくることを察し即座に対応。
跳躍。疲労が溜まっている。身体を撓め、反動を付けられる間もなかった。
よって高さは不充分。ファルハルドの跳躍は牛人を完全に飛び越せるほどの高さはない。
それで充分。ファルハルドは迫る牛人の頭に足を合わせる。牛人の頭を蹴りつけ、可能な限り衝撃を吸収し後ろに跳んだ。
再び多くの距離を飛ばされる。だが、被害は抑えた。牛人の突進は致命の一撃とはならなかった。それでも左腕は痛み、呼吸が止まる。
痛みに動けないファルハルドに牛人が殺到する。
ファルハルドと牛人の戦う場所は最初の位置から変わっている。ファルハルドは牛人の攻撃に押され、飛ばされるうちに、次第に馬車に近づいてしまっている。他の戦っている者たちとの距離も縮まっている。
牛人は拳を振るう。ファルハルドは痛みから回復。躱す。苛立った牛人は再度、無音の咆吼を放たんとした。再び大きく息を吸い込み、身を震わせる。
ここで二手目。
ファルハルドはその懐に跳び込んだ。無音の咆吼を放つまでの間を掴んでいた。牛人が無音の咆吼を放つより早く、その喉に剣を突き立てる。
勝ち筋を見出そうとする思考のなかで、牛人が無音の咆吼を放つ際の姿を何度もなぞった。
そして、気付く。わずかな時間、その身を無防備に晒すと。最も恐るべき無音の咆吼を放たんとする瞬間こそが、最大の好機。
それは刹那の刻。
至近距離で応戦していなければ捉えることはできず、攻撃を受けていれば反応することはできない。イシュフールの身軽さを持ち、敵の攻撃を躱すことを基本としているファルハルドであればこそ掴むことができた機会だった。
剣は届く。その切っ先が牛人の喉へと刺さる。
ただの獣であるなら、そのまま喉を貫けた。だが、牛人は闇の怪物。ただの獣ではない。無防備な状態を狙ったファルハルドの剣を、後ろに倒れ込むことで決定打とはさせなかった。
牛人の喉から血が溢れ出す。動きは鈍る。しかし、それだけでは倒せない。頑健な肉体を、それに見合う生命力を誇る存在。喉に溢れる血がその気管を塞ぎ、窒息するとしてもそれはすぐにではない。
追い詰められ、最後の力を絞り出す牛人は危険な手負いの獣と化す。
決着の刻は未だ訪れず。




