79. 道 /その③
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そうして、十の月に入った頃、だいぶ傷の癒えたファルハルドは落ちきった体力の回復のため、保安隊詰所の中庭を歩き始めた。
最初は一刻ほど。それでも息が切れ、関節が熱を持った。
十日ほど歩くことを続け、身体が慣れ始めたところでときに跳び、ときに走る動作も取り入れる。さすがに中庭は走る回るには狭かったが、手始めとしては充分だった。
さらには身体作りと身体調整の一環として、新たに逆立ち歩きも取り入れる。もし、逆立ち歩きを行っている時に襲われればどうしても反応が遅れてしまう。そのため、今までは行っていなかった。
幸い今は見張りのための保安隊隊員が常に身近に付いている。お陰で、暗殺部隊からの不意打ちの心配がない。安心して逆立ちのまま中庭を何周も回ることができた。
数日続けたところで、ファルハルドの見張り役として付いている保安隊隊員であるカリムが、自分たちの鍛錬に付き合わないかと楽しそうに誘ってきた。
同年代であるカリムは、見張り役としてファルハルドの言動を見聞きしているうちに一定の親しみを見せるようになってきていた。
ファルハルドとしては曲がりなりにも囚人相手にそれでいいのかと思わなくもないが、剣を振れるのはありがたい。素直に誘いに乗った。
中庭の四方を囲む建物の一つが、保安隊隊員のための修練棟となっている。
保安隊は衛兵とその役割に重なり合っている部分も多い。違いとして、衛兵は街の巡回警備や揉め事が起こった時に駆けつけ騒動を収めることなど、街の治安維持をその主要な役割としている。
対して、保安隊は要人の警護や重要設備の警備、重大犯罪の捜査をその主要な役割としている。
違いはあるが、どちらもその役割上一定以上の武力が必要とされる。そのため、腕を磨くための鍛錬場所が用意されているのだ。
カリムに連れられ、ファルハルドが修練棟に足を踏み入れる。鍛錬を行っていた保安隊隊員が興味深そうに注目してくる。
ファルハルドは周囲の目を気にすることなく壁際にある武具棚に寄り、刃を潰した訓練用の剣を手に取った。
剣を握る。一月半ぶりに剣を握った。振ってみる。やはりぎこちない。左肩はうまく動かず、力も入らない。右手も中指に力が入らず、剣を握り込む感覚が違っている。
一振り。危なく剣がすっぽ抜けるところだった。慎重に握り直す。二振り。手足の動きがばらばら。ゆっくりと振り直す。三振り。身体の声に耳を傾け、動きを見詰め直す。
その日は一人で剣を振り、身体の状態を確かめるだけで終わった。
翌日、再び修練棟に足を踏み入れた。この日は十人ほどの保安隊隊員が汗を流していた。
ファルハルドとカリムは鎧は着けず、訓練用の剣と盾、兜だけを身に着け向かい合う。修練棟にいる全員が興味深そうに見ている。騒つきながら周囲を丸く取り囲む。
ファルハルドとカリムは最初に軽く剣を撃ち合わせる。甲高い音が心地よく響く。
カリムから攻めかかる。試すように力を籠めず剣を振り、ファルハルドはそれを盾で受けた。盾を持つ左腕に力が入らない。カリムの力を籠めない軽い一振りで、盾を取り落としかけた。
見物をする保安隊隊員から失笑が起こる。ファルハルドの起こした騒動を聞き、どれほど腕の立つ男かと思い見物してみればたいしたことはない。半数は興味を失い、自分たちの鍛錬に戻っていった。
ファルハルドは手合わせを続ける。取り敢えず相手の攻撃は盾を合わせることではなく、躱すことで対応する。
ファルハルドからも攻撃を繰り出す。まずは軽くゆっくりした一撃を。カリムはなんなく盾で受け、即座に反撃。ファルハルドは躱す。
時折ファルハルドからも攻撃を繰り出すが、基本この日ファルハルドはカリムの攻撃を躱すことに専念した。最も確認し、可能な限り早く取り戻したかったことが自身の体捌きだったからだ。
見物していた隊員たちから感嘆の声が上がる。一度は興味を失った隊員も再び戻ってきた。カリムの攻撃を躱し続けるファルハルドを眺めながら、自分ならどう攻めるか、あるいはファルハルドの動きをどう参考にするかを口々に話し合っている。
カリムは何度も攻撃を躱されるうちに、次第に熱が入ってきた。むきになり、思わず本気の攻撃を繰り出した。ファルハルドは身体に掠めさせながら、それでも危なげなく躱す。
カリムが再度の本気の攻撃を出そうとしたところで、周囲から制止の声が掛かった。カリムは大きく息を乱している。ファルハルドも冬の寒気に関わらず、滴るほどに汗塗れとなっている。見物していた隊員たちから汗を拭う布が差し出された。
カリムは性格に甘いところが目に付くが、それでも若手の中では最も将来が期待されている者の一人だ。そして、その武技もまた若手の中では一番だと目されている。
その攻撃を全て躱して見せたファルハルドは、隊員たちに驚きと関心を持って受け止められた。気付けば全員がファルハルドに歓迎の意を示してる。
結局、その後も保安隊隊員の鍛錬に参加し続け、隊員相手の手合わせも続けた。
隊員たちはその職務から、求められている戦い方は倒すためのものというより取り押さえるための戦い方となる。
ファルハルドにとって今まで出会った者たちとは違う種類の戦い方の者たちとの立ち会いは、勘を取り戻す役に立ち新たな経験を積む役に立った。
療養中であるこの期間、ファルハルドが行っているのは戦闘訓練だけではない。手習いも行っている。が、こちらはハーミの予想に反して、かなり苦労していた。
そもそも与えられた手本がおかしい。用意された手本は戦神の神殿で使われる教材。用意したのは抗う戦神の神官であるハーミ。
なのに、用意された手本はどこからどう見ても恋愛指南書。なぜだ?
真顔で問いかけたファルハルドに、ハーミは大真面目な顔で、
「恋愛こそ、男女間の至上かつ崇高なる戦いである」
と言いきった。
なに言ってんだ、この坊主。心の底から呆れ、言いたい言葉が湧いてくるが、口にはせずにおいた。
差し当たりそれ以上問いかけることはせず、手紙の書き方の参考として、恋文の見本が大量に掲載されていることから選んだのだろうと無理矢理自分を納得させた。
ただ、ファルハルドにとってこの手本はかなり読みづらく、理解しづらい内容だった。
なんせ書かれているのは、
『万の軍勢も私を恐れさせることはない。
ただ、あなたといられない時間だけが私の胸を締めつける。
あなたは天から零れ落ちた燦めく光。
いかなる汚濁もあなたの瞳を汚せない。
棗の唇、真珠の歯、耳打つ声は妙なる鈴の音。
頬は薔薇色、絹の髪、匂い立つは麝香の薫り。
昼も夜もあなたを想う。
あの日、あなたと出会い、私の世界は姿を変えた。
昼も夜もあなたを想う。
私の全てはあなたへの愛に満たされる。
昼も夜もあなたを想う。
ただひたすらにあなたを想う。
あなたといられない時間は虚しい。
私の心が鳥となれるのなら、今すぐあなたの元へと飛んで行こう』
こんな内容の言葉ばかり。
大袈裟にもほどがある言葉や、甘ったるい言葉が延々と続く手本を読み続けるうちに、ファルハルドはいつしか虚ろな目になっていた。お陰で手習いがなかなか進まない。
ハーミは
「自分の気持ちを素直に書けばそれでよいのだ」
などと言うが、それができればそもそも手習いなど必要ない。
付け加えるなら、ファルハルドは手本のような甘ったるい気持ちになった覚えもない。ファルハルドがレイラに向ける気持ちはもっと単純に、共にあれば穏やかな心持ちになれることだったり、笑ってくれれば自分も嬉しく思う気持ちだったりする。
あまり参考にならない手本に四苦八苦しながらも、単語を繋げることで拙くともなんとか意味は通じる文章が書けるようになった頃。
ついにファルハルドが移送される日が決まった。年が明けて一の月十一日。
未だファルハルドはレイラと会うことができないまま、その日を迎えた。
次話、「しばしのお別れ」に続く。




