75. 白華館の主 /その④
この物語には、残酷な描写ありのタグがついております。ご注意下さい。
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忘れもしません。
今より、二十二年前。ファルハルド様の御母堂様であらせられるナーザニン様が、デミル四世によって捕らえられ、イルトゥーランの王城へと幽閉されました。
幽閉されたとは言え、当時宛がわれた部屋は贅を懲らした豪奢な部屋でした。多くの侍女たちに仕えられ、金銀財宝に囲まれた暮らしです。
宛がわれた部屋や中庭などのわずかな場所しか出歩くことを許されることはありませんでしたが、それでも飢える心配などなく、多くの者に傅かれる暮らし。
そんな暮らしが手に入れられるなら、どんなものと引き換えにしてでも構わない。そう思う者は多いでしょう。
ですが、ナーザニン様が望むものはそんな生活ではありません。その生活を受け入れることなく、何度も逃亡を図りました。その度にデミル四世の勘気に触れ、激しく打たれようとも諦めることはありませんでした。
私はナーザニン様が最初の逃亡を失敗したあと、お側近くに仕えるようになりました。それまでナーザニン様に用意されたのは女の使用人だけでしたが、環境を変えるためか宦官である私も仕えるように命ぜられたのです。
最初はなにも考えることはありませんでした。仕える相手のために気を回すこともなく、のろのろと命ぜられたことを行うだけ。ですが、ナーザニン様はそんな私にも心を砕いて下さいました。
たとえば、このようなことがございました。
その日もナーザニン様はデミル四世に激しく撲たれておりました。使用人は皆怖れ、その場には決して近づこうとはいたしません。
デミル四世は飲み物を用意するようにと命じました。となれば、誰かが飲み物を運ばねばなりません。
私がその役を行いました。どうでもよかったからです。
ナーザニン様が撲たれる姿を見てもなにも感じません。この世になんの興味もなかったからです。
デミル四世の気紛れで殺されることになったしてもべつに構いません。生きようが死のうが変わりはなかったからです。
荒れるデミル四世の傍近くに行く。誰もが嫌がるその役目は、私にはなにも感じさせなかったのです。
私は果実水を満たした杯を盆に載せ運びました。いったい、なんの拍子だったのか。私はなぜか、なにもない場所で躓き、デミル四世にその果実水をぶちまけ、杯を、盆をぶつけてしまいます。
当然、デミル四世は怒りに駆られ私を打ち殺そうとしました。
顔を朱に染め、私に対して拳を振り上げるデミル四世の姿を見ても私はなにも感じません。謝罪することもなく、逃げ出すこともありませんでした。無意味な生が終わりを迎える。それだけのことだからです。
ですが、私は今もこうして生きております。ナーザニン様が私を庇われたからです。
私を打とうとする拳の前にその身を晒し、懸命に私を庇われました。涙を流し、デミル四世に慈悲を請われたのです。
顔を歪めたデミル四世はナーザニン様を打ち、そのまま部屋から立ち去りました。
そんな恩を受けてなお、私はなにも感じませんでした。のろのろと杯と盆を拾い上げ、床に広がる果実水を拭き取り、その後は口を開くことなくその場に立ち尽くす。
そんな私をナーザニン様は決して誹ることなく、ただ無事でよかったとだけ仰られました。
あの御方はそのような方なのです。その御心に触れるうち、私もいつしか変わっていきました。
ナーザニン様と接することで心救われた者は少なくありません。身近に接した者は皆あの御方を敬愛し、私もまた男とは言えぬ身でありながら、いつしかナーザニン様に信仰心にも近い恋心を抱くようになりました。
なれど、なにも持たぬ私にはできることなどございません。ナーザニン様をお救いすることなどできず、力になれることもありませんでした。
唯一、できたこと。それは、決して城外に出ることを許されぬナーザニン様の御心を慰めるため、大森林に生える季節の花々をお届けすることだけでした。
その際向けて下されたあの御方のほころぶ笑顔は、私にとって生涯忘れ得ぬ至上の宝です。
今から思えば、デミル四世もナーザニン様を愛しておりました。ナーザニン様を苦しめてしまったのは、愛されることを知らず、戦にしか喜びを見出せぬデミル四世には人の愛し方がわからなかったからでしょう。
デミル四世は好む相手ほど、愛する相手ほど苦しめ傷付けずにはいられない性状の持ち主でした。悪神の箱庭にその源流を持つイルトゥーラン王家には、狂気の血が流れているのです。
ナーザニン様の懐妊がわかってからは、その態度はさらに屈折したものとなりました。ナーザニン様を地下の劣悪な部屋に移しながら、手放すことなく、同時に殺されて当然の腹の子を生かした。
デミル四世自身、自らの態度を矛盾に満ちたものと考えながら改めることもできなかったようです。
私はナーザニン様が地下の部屋に移されたのを契機とし、他の仕えていた者たちと同様に解任され、新たな役目を与えられました。
それはパサルナーンに暗殺部隊の活動拠点となる場所を創ることでした。ナーザニン様によって生きる気力を取り戻した私でしたが、あの御方を見捨てることしかできなかったのです。
これが私の第二の絶望です。
せめてものこととして、私は新たな活動拠点を創る役目を利用し失われた祖国の民たちを救うこと、そして可能であればナーザニン様を助け出せるだけの力を得ることを目論みました。
当時、祖国の民たちは圧政の下、貧しく苦しい生活を送っていました。
多くは故郷から追放され、イルトゥーランの各地で物乞い同然の暮らしを送っていたのです。
それでも男たちはまだましでした。武を貴ぶイルトゥーランに於いては軍に入り、戦士として身を立てる方法があったからです。辛い任務を割り当てられることが多くとも、生き残ることさえできれば一定の地位を得ることもできました。
ですが、女たちは。
祖国の男たちが故郷の女と共にいることは禁じられていました。そのため、女たちには頼れる場所も者もなく、ならばと自らの力で生きる場所を得ようとしても理不尽な暴力で奪われる。
女たちは生きるため、わずかばかりの小銭を得ようとその身を売る者、使用人とは名ばかりの家畜同然の扱いで命を磨り減らす者、一切れの食料を得るために盗みを働き打ち殺される者などなど。
皆が皆、悲惨な状況に喘いでおりました。
その女たちを救い、生きる場所を与えるため娼館を運営することにしたのです。
娼館のなにが女たちを救うのかと思われるかもしれません。確かに世にあるほとんどの娼館は、女たちを単なる商品として使い捨てるだけです。
ですが、私が目指したものは違います。
女たちの過去を消し教養を与え、上流の男たちに愛されることで佳き暮らしを手に入れる。あるいは、誰にも脅かされることなく、己の力一つで生きていけるようにする。そのための機会を与えることができる場を用意すること。それを目指したのです。
真の狙いを隠し、拠点として娼館を利用するのはどうかという私の提案に、暗殺部隊の部隊長も反対することはありませんでした。
娼館は情報を得る場としても、息のかかった者を潜り込ませる場としても極めて有用だからです。
陰に陽にイルトゥーランの援助を受ける私は、わずか十九年で白華館をこの万華通りで一番の店へと押し上げることができました。その間に救える者は救い終わりました。今では店で働く娘たちのうち、祖国の出身の者は四分の一もおりません。
ただ、惜しむらく。私が白華館の主として一定の力を得た頃には、すでにナーザニン様はお亡くなりになっておられました。
あの御方はこの汚濁に満ちた世界で生きるには、あまりに清い魂の持ち主でした。あの御方に相応しい場所は神々の御座の傍近くにしかなかったのでしょう。
ファルハルド様、御一人を遺して逝かれる御気持ちは如何ばかりか。私には想像することしかできません。
どうにかしてお救いする方法はなかったのか。今でも悔やみ続けております。




