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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

日陰者

作者: イモ男爵

1.出会い


昼近いにもかかわらず、空は、雪雲に覆われ、暗く、間近に迫っていた。


いきなり駆け下りてきた突風に(あお)られて、思わず眼を閉じたとき、鈴村(すずむら)(けい)(すけ)は右脚に激痛を感じた。


構えの大きい玄関の洋食屋の前に、最近改装工事でもしたらしく、、真新しい太く長い角材と、山なりに積重ねた薄板の端切(はぎ)れが置いてある。その一枚が、すべるように強風に乗って、右脚に突き当たったのだった。


思わず、見栄もなく片足で跳ね上がったほど痛かったが、『伊レストラン 旬幸房(しゅんこうぼう)』と記した看板を振り仰いだ圭佑の眼は鋭く光った。


()けポーカーで最後まで札に見放され、顔も読まれ、きれいに(むし)られて手持ちは小銭のみである。たまたま脚にぶつかった板切れと、板切れ一枚にしては出来過ぎた痛みは、不運な野良犬が、裕福な奉仕好きの貴婦人に出会ったようなものだった。


店に入ると、中年の女性客を相手に本日のお勧めか何かを、メニューブックを拡げて喋っている接客の男が、顔を向けて「いらっしゃいませ」と言った。


とりあえず、右掌を空いたテーブルに振り示しながらそう言ったものの、ホールチーフらしきその三十男の顔には、みるみる困惑のいろがひろがった。


伸びっ放しの無精ひげ、整った目鼻立ちだが、、かなり悪く鋭い眼つき、ノーネクタイの白い開襟シャツの胸元に金色のネックレス、黒系の縦縞スーツ、白い革靴という、どうみても半グレ系である。


それが派手にびっこをひき、片手に板切れを掴んで入ってきたところをみれば、普通の客ではないことはひと眼でわかる。


それでもチーフらしき男は、もうひと声かけた。


「喫煙席にされますか」


「客じゃないんでね」


圭佑はにべもなく言った。


「給料を受け取りにきたんだよ」


「え?」


男の顔には、交通事故を引き起こしてしまった瞬間のドライバーの様な表情になり、眼はうろたえて、圭佑の顔と、左手に提げた板切れの間を走った。


それを無視して、圭佑は陰気な眼つきで店の中を見廻した。チーフのほかにアルバイトらしき若い女が客から注文を受けており、左端のカウンター口には若い男がいて、圭佑の方をみないようにしてグラスを拭いている。客はバラバラに八名いて、新聞を読んだり、携帯をいじっているのが見えたが、何かが起きている、そう思うような人間は誰もいなかった。


唯一気づいていた、一番手前の中年女の客だけが、脅えたような表情で何も言わずに席をたって店を出て行くと、軽音楽のBGMが次第に存在感を増し、すると圭佑の存在に気づき始めた客の視線が二本ずつ増え、客席全体が次に圭佑が何を言い出すかと、耳を傾けている感じだった。


その中に圭佑の声が響いた。


「お前は何だ?」


「この店の店長ですが」


「そっか、丁度よかった。店長さん、さっき言ったとおり給料をいただきたい。怪我もしてしまってね・・・これは危ないですよ」


左手の板切れを店長の目の前にかざし、圭佑は右脚の(すそ)手繰(たぐ)り上げた。脚の真ん中あたりに赤黒く血の滲んだ傷がある。


「こんな危ない板どかしてきました。おいくらですか」


「いやいや、ご冗談を。面白いですね」


ひきつった作り笑いの店長は、額にうっすらと汗をかいている。圭佑の言い分を、なんとか冗談にしてしまえないものかと必死なのである。だが圭佑の、怒声ながらも、それとは不釣合いな丁寧な言い回しが、店長の希望を無慈悲に砕いた。


「冗談? 店長さん、私はただ働きですか?」


圭佑は眉間に皴を寄せて、店長の胸ぐらを(つか)んだ。


「働いた分は、きっちり払いな。わかってんな、おい!」


圭佑は店長から手を離すと、痛たた、立ってらんねえやと言って店長の脇のテーブルに腰をおろした。


「この脚はな、あんたんとこの板切れでダメになった。危ないから持って来てやったんだ。俺は働いてやったんだぜ。こうやって脚一本ダメにしてな。報酬を要求するのが間違いか?」


「しょ、少々お待ちください」


店長はハンカチを出して、いそがしく額に押し当てた。


「すると、なんですか」


額にあてた手の下から、店長は疑い深い眼を光らせた。


「その板がそちら様の脚に当たって、その傷をと・・・」


「ああ、そんとおり。歩いていたら、風が強いな、と感じてさ。そうしたら、この板の山に気づいたんだよ。今にも吹き飛ぶようにガタガタし始めた。客に当たったら大変だろ、店は。で、板を押さえなければ、と近づいたら、案の定ってことだ」


傷を押さえながら、圭佑はしたり顔でさらっと言ってのけた。


「これが嘘だとでも言いたそうだな」


「いえいえ、全くそんなことは・・・」


「じゃ、何でそんなに困った顔をしてんだ? 嘘だと思ってんだろ。外に出てみろよ。あ? 風が強いんだよ。そんなことにも気づかず、いつまでも店先にこんなもんを置いとくから、迷惑するんじゃねえのか」


「申し訳ございません。何と申し上げればよいのか・・・」


顔色が()せ始めた店長に、圭佑は客席を眺めながら落ち着いた口ぶりで静かに語りかけた。


「別に謝ることはないでしょ? 店長さん。私が引き受けた仕事なんですから。ま、怪我をしたからその分の上乗せはしてもらわないとね。治療代とかさ」


「では、やはりお金を」


「貴様、俺をたかりだと思ってんな」


圭佑は店中に響きわたる声で怒鳴った。


「あんたじゃ話にならん。上を出せ。オーナーがいるだろ! 」


「う、少々お待ちください」


店長は二、三度よろめきながら厨房の奥の方へと走った。


ウェイトレスの女、カウンターの男、バラバラの客、それぞれがどうでもよさそうな動きを取りながら、ちらちらこちらをのぞいていたが、圭佑が一度険悪な視線を浴びせると、思い出したようにまたそれぞれのどうでもいい動きの世界に入っていった。


店長が出てきた。()で隠すように茶封筒を持っている。


「これを。気持ちということで」


店長は茶封筒を、こそこそと両手で圭佑の眼の前に差し出した。


「治療代としてお使いください」


圭佑は、黙って茶封筒の中身をつまみだした。とたんに血が上った。


「たった・・・ふざけんな! 」


店長の足元に二枚の万札をのぞかせた茶封筒を投げつけた。脛の傷が予想以上に心底ずきずき痛むのが、怒りを本物にさせてくる。


「おい店長。あんた何か勘違いしてんじゃねえのか。怪我をかえりみず働いた分の報酬と、治療代を払ってくれと言ってんだ。それを二万とは、随分値切るじゃねえか。あ? じゃ、お前んとこの客を同じめに合わせてみようか? この二万で納得してもらえるんだろ」


「いやいや、とんでもありません。ちょっ、ちょっとお待ちください」


店長は圭佑から目を放さずに、足元の茶封筒をすばやく手に取ると、足を(もつ)れさせながらまた厨房の奥へと戻った。


結局二十万円を手にした。


しばらくは遊べるな・・・旬幸房(しゅんこうぼう)のドアを腕押して外に出ると、圭佑は思わずほくそ笑んだが、藤崎商店街の裏通りを抜ける頃から、次第に渋面(しぶづら)に変わった。


やべえ! こりゃマジだ!


圭佑は立ち止まると、額を濡らした脂汗を(ぬぐ)った。座っていたときはずきずきと火照(ほて)る痛みがするだけで、大したことはなさそうだったのだ。ところが歩いてみると、右脚の痛みはひと足運ぶごとにひどくなり、痛みが、腰から背中を通って脳天まで突き抜ける。いま右脚は、固く重い石のようで、一歩前に出るのに全身に汗をかいた。


そこは藤崎(ふじさき)町を出た金屑(かなくず)川の川端で、荒い息をしている圭佑は、国道三号線の橋の欄干にもたれて(うずくま)ると、心細く眼の前の川波を見つめた。


()が暮れかかっているらしく、黒い雲はところどころ途切れているが、そこから()れる光は強くない。時おり強く吹く河口からの北風が、渇きあがった川岸の砂を巻き上げ、川波を白く波立たせている。


川向こうの街並みは、冬の日本海特有の暗い空に押し潰されたように黙りこんで、灯りさえ消している。国道の上を斜めにはしる高速道路の高架がみえているが、そこを通る車の影はほとんど見られず、灰色のひどく大きな立体モニュメントにしか見えないのも心細かった。タクシーでも来ないかと思ったが、国道沿いにもかかわらずトラックなどの商用車と軽自動車ばかりが目立つだけで、正月明けだというのに、ただの寒々とした冬らしい風景が視界を埋めているだけである。


このまんまじゃ駄目(だめ)だ¦¦¦圭佑は歯を食いしばって立ち上がり、左手の高取(たかとり)町の方に、おそるおそる足を踏み出した。そのとたん、激痛が背中まで駆け上がり、圭佑は(こら)え切れずに左から崩れ落ちた。眼が(くら)んだ。


「どうされましたか?」


不意に背後で若い女の声がした。


座り込んで伸ばした右脚をさすり、眼をつむったまま、圭佑は小さく(うめ)いただけである。


「具合が悪いんですか」


声の主は、すぐそばに近寄ってきたらしく、何かの花の香りのような、いい匂いが圭佑の周りにただよった。


「黙れ、声が響くんだ!」


ようやく眼を開いて、圭佑はしかめた顔を挙げたが、思わず痛みを忘れた顔になった。指一本の近くまでのぞきこんできている眼が、どきりとするほど美しい、ショートカットの若い女である。薄茶色のハーフコートからのびている長めの脚が柔らかくラインを描いている。ぱっと見ただけでも育ちの良さが感じられる。


「脚を怪我しているんですね。血がこんなに」


黒々と光る眼が、情をこめて曇るのを、圭佑は(しば)られたように見返したが、眼をそらし、白い革靴についた血を見やってぶっきらぼうに言った。


「転んで脛を打ってしまったんだ。たいした怪我じゃないと思ったんだが」


「早く病院にいかなきゃ。救急車呼びましょうか」


女は背をのばしてあたりを見廻し、コートのポケットから携帯電話を取り出して開こうとした。


「いいって、呼ばなくていい。そこまでのことじゃねえよ」


女は脚のラインだけではなく、身体全体が柔らかくきれいなシルエットで、見上げる姿勢になっている圭佑の眼には、コートの上からでもわかる胸の隆起がまぶしく入ってきた。


「でも、このままじゃ:::」


「いい、いい。全く歩けない訳じゃない。そのうちタクシーでも通るだろうし」


女はまた、(かが)んで圭佑に顔を近づけた。


「じゃ、私につかまって下さい」


「家が近いんです。とにかく家まで行きましょう。薬をつけるだけでも違うと思うし」


「いやいや、気持ちはありがたいんだが、そちらの家まで行くなんて」


「でも、その脚では仕方ないでしょ」


女は甲斐甲斐(かいがい)しく手を伸ばしてきた。


「つかまって」


女にはためらいがなかった。単なるお嬢様育ちではなさそうに、てきぱきと圭佑を立たせ、背中の(ほこり)を払ってやり、腕の下に肩を入れてくる。


恥ずかしげに圭佑は女の肩を借り、一歩ずつさっき来た道を引き返しはじめた。


若い女の匂いが()せるように鼻の奥を刺激し、廻した腕の下の柔らかな肉付きの感触や、ときどき触れ合う、すべすべとした頬の感触に、圭佑はくらくらと目眩(めま)いを覚えた。女が嫌いなわけではなかったが、素人の、それもこの女のように、人擦()れしたところが全く感じられない若く美しい女は苦手だった。


女はすこし息が荒くなっていた。匂いも少し高まっている。


「そんなに頑張らなくても。せっかくの化粧が台無しだ」


息苦しさを(のが)れたくて、圭佑は言ったが、女は目と口元で笑みを浮かべただけで、懸命に足元を見つめながら足を運んでいる。道行く人が、この奇妙な道行(みちゆき)を無遠慮に眺め、薄笑いを浮かべたが、圭佑のひと(にら)みで、慌てて顔をそむけて通り過ぎる。


「着きました」


足を()めた女が、圭佑の腕を(かつ)いだまま、ほっとしたように手の甲で額の汗を拭った。圭佑を仰いで無邪気に笑った口元が愛らしい。


「助かった。ありがとな」


圭佑は思わず腹の底からそう言ったが、顔を挙げて目の前の家を見ると、たちまち目を()いて息を呑んだ。


女が立止まったのは、『伊レストラン 旬幸房(しゅんこうぼう)』の看板前である。




2.初めての女




「圭佑、ご飯、どうするの?」


ふすまを開けて、首を突き出した瞳美(ひとみ)が言った。


瞳美は同じ養護施設で育った仲であり、圭佑より五つ年上の三十三である。以前勤めていたスーパーの先輩に見初(みそ)められて(とつ)いだが、二年前に交通事故であっけなく亡くなり、子供もなかったため、養護施設の管理補助として施設に戻ってきていた。切れ長の眼に色気があり、ポニーテールに細面の整った顔をしている。やや茶色がかってはいるが、(しわ)のないサラッとした肌理(きめ)の細かい肌と、出るとこは出ているがどちらかというと細身の身体に、フィットした洋服ばかりを着ているせいか、まだ二十台に見られる。


「食べないんなら冷蔵庫にしまっちゃうよ。いったいいつまで寝てんの。もう怪我は治ってんでしょ」


「わかったよ。いま起きるって」


圭佑は怒鳴って起き上がると、癖になったように右脚の脛をさすった。


脚には、瞳美が手当てしてくれたシップをあてているが、痛みはほとんどない。脚をさすると、伊レストラン旬幸房(しゅんこうぼう)香織(かおり)というあの女のことが思い出された。それも女の生真面目な表情と一緒に、あの日のことが幾らか滑稽味を帯びた記憶となって、圭佑を思春期だった頃の気持ちに戻すのである。


十日前のあの日、香織は店に圭佑を(かつ)ぎこむと、店長に救急箱を持ってこさせ、甲斐甲斐しく傷の手当をしてくれたのである。店長も他の店員も、怒りや恐怖や信じられないといった感じの眼をしたが、香織に気づかれないように、圭佑が凄い眼で(にら)んだため、店長ほか皆は不服そうに口をつぐんだまま香織を手伝い、彼女の指示でタクシーまで呼んでいたのだった。


タクシーに乗り込んで圭佑は困惑した。


どこまで?


転げ込むところは育った施設しかなかった。


香織への関心は、いつもその記憶だけで終わる。その先はなかった。いっとき満開の梅の花の下を潜り抜けたような、ほんの少しの華やかな記憶が残っただけである。


とりあえず施設に来たものの、圭佑にとって、ここは居心地のいい場所ではない。


管理人の松田老夫妻との折り合いが良くなかった。特に女の方とは悪かった。その和子は、顔を合わせるたびに、犯罪者にでも出会ったように顔色を変えるし、男の(ただ)(ゆき)も近頃は口をきくこともない。もっともこの一年近くは寄らなかったのだが。


圭佑はこの施設で育った。育てられた恩義よりも、ここでは和子に(いじ)められた記憶のほうが強いのである。


三つのときに身寄りのなかった両親に死なれて、この施設に入れられた。最初の頃は忠幸も和子も含め、周りに居る大人や年長の子供たちは圭佑を不憫(ふびん)がり、かわいがっていたが、そういう子はほかにも居り、いつのまにか不憫な子という肌着はむしりとられていた。


実親の記憶や想いを消すことが出来ず、それと目の前の現実との大きな差を生めるためには、ただ泣き続けるしかなかったのである。そのことが他の子よりも強かったらしく、管理人夫妻、特に和子の、してあげているのに、という気持ちを(さか)なでていたのだった。もっともそれはかなり大きくなってから気づいたことである。


圭佑には、忘れられない、ひとつの記憶がある。


管理人夫妻は、施設運営のほかに喫茶店を営んでいた。その店の中での二人の力関係は、施設内と同じであった。客あしらいはうまいものの、気が強く、思ったことは何でも口にしてしまう和子の影で、人の良いだけの忠幸は黙って、客のためにカクテルやコーヒーを入れる係に過ぎなかった。売上の勘定や、常連客の対応は全て和子の方が(にな)い、忠幸は閉店後そそくさと先に施設へと戻るのが常であった。


接客という商売柄、また酒好きという体質上、なじみの客に酒を勧められるとニコニコとお受けする和子の帰りは遅くなり、毎晩のように酔って帰った。そして一時間も経たないうちに、寝ている子供たちのことも構わずの夫婦喧嘩が始まり、そうなると決まって、泣いてばかりいる圭佑を厄介者、と(ののし)った。


その夜圭佑は、眠っているところを忠幸に叩き起こされ、パジャマ姿のまま外に連れ出された。ひとつ布団に寝ていた瞳美が泣き出して、子供とは思えない力で圭佑にしがみついたが、忠幸は気が立っているらしく、瞳美を突き飛ばした。


「そんなに目障りなら捨ててくるぞ!」


丸顔で小太りの忠幸は、血相を変えていた。


「こいつが凍え死んだら、お前のせいだぞ、わかってんな!」


「ああ、捨ててきな。川ん中にでも捨ててきな」


和子は店から戻ったばかりらしく、派手な服を着て、ストーブの前で煙草を吸っていた。化粧の濃い大きな顔に、冷ややかな眼だけ光らせて煙を吐き出すと、真っ赤なルージュを塗った口を(ゆが)めて言った。


「厄介者がいなくなったら、清々するよ。なんならあんたも帰ってこなくていいよ。ここも店もあたし独りでできるからさ」


忠幸は凄い音を立てて玄関ドアを閉め、圭佑の手を(つか)んで勢いよく(みち)に出たが、町を抜けて小学校の塀に突き当たり、金屑(かなくず)側支流の川辺に出る頃には、足取りはすっかり勢いを失っていた。ただ、後ろから瞳美が追いかけてきた。けいちゃんを捨てないで、と言って泣きながら、赤い半天にパジャマ姿の瞳美が黒髪をなびかせて走ってくる。けいちゃん、けいちゃん、と涙でくしゃくしゃになった紅い顔を圭佑の頬にすり寄せた。


「二人とも、寒いだろ」


忠幸は着ていた半天を脱いで、圭佑と瞳美にかけてやると、大きな音をたてて(はな)(すす)った。もともとが蓄膿気味で年中洟(はな)をすすっているのだが、春の気配が感じられる頃になると余計に音がひどくなり、あんまり大きな濁った音を立てるため、トイレでやってくれ、と和子はいつも憎しげに言うのである。


圭佑は眠気が覚めた頭でそんなことを考えながら、襲ってくる雪風と寒さに歯を鳴らし、子犬のように瞳美に身体をすりつけた。


「やっぱり帰ろうか。瞳美、圭佑。な、その方がいいな」


身体を丸めた忠幸は弱弱しい声で言うと、もう一度、(はな)をすすり上げた。


小雪が舞う夜中の小さな川辺に、和子が憎む(はな)をすすり上げる音がひびき、瞳美の胸元から見上げた真ん丸の月が、黒い闇の出口のように銀色に光を放っていた。その夜の景色を、圭佑は長い間忘れることができなかった。


圭佑は中学に入ったときには既に界隈でしられる存在になっていた。眼を(とが)らせ、絶えず生傷だらけで、近づいてくるもの全てに牙をむく、そんな野良犬のように育ちあがっていた。


ただ、ひとりだけ心を許していた瞳美がいる内は、人の道をぎりぎり踏み外すことはなかった。その瞳美が結婚して施設から足が遠のくようになると、不意にこの施設の六畳間に住んでいる理由が何もないことに気づいた。和子はことごとく他の施設生と圭佑の扱いを区別し、他の同級の高校に進学した施設生たちも、圭佑には脅えて近づかなく、忠幸は相も変わらず年中和子に小言ばかり言われる立場であった。


大工仕事の見習いという職も途中で捨て、酒やパチンコを覚え、いかがわしげなバーへ出入りし、うわっつらだけの仲間のチンピラ間を泊まり歩いて、めったに施設には帰ることがなくなっていた。


たまに帰ると、和子は言ってた通りだと忠幸を(ののし)り、圭佑を(ののし)ったが、あるとき圭佑がつきあいのあるチンピラたちと()め事を起こし、施設内まで乗り込まれての暴力事件に発展したとき以来、全く誰も圭佑に対しては口を閉ざしてしまっていた。


いま、施設の中には出戻りの瞳美のほかには未就労の中高生八人と小学生以下の子供たちが一七人いる。みな、血の縁には薄い子たちばかりなのだが、圭佑を除いては家族のように寄り添っていた。


泊まる場所にどうしようもなくなったときだけ、圭佑は今も忠幸の居る施設に帰ってくる。だが、いまでは和子や施設生だけではなく、忠幸も、(すさ)みきって触れればスパッと切れる薄いカミソリのような空気をまとって現れる圭佑を、恐れているようであった。


「いつまでそんな暮らしをするつもり?」


レンジからラップしたご飯を出しながら、瞳美が言った。いまだに瞳美だけは圭佑を恐れていない。かなり年下の弟のように扱った。


「いい加減にしないと、戻れなくなるわよ。普通の生活に」


「これが普通さ。俺にとっちゃな。姉ちゃんとこうして話しているのが異常なんだよ。悪くはないけど」


圭佑の脳裏に、香織とのできごとが浮かんだ。・・・あれも異常だったな、一瞬だったけど。


「大工さんに戻ればいいのに」


瞳美の口調が愚痴っぽくなった。


「勇気を出して戻りなさい。戻れるのは今のうちだから」


「余計なお世話だ」


おかわりの催促をしながら、圭佑はうつむいて言った。


「あ、そう。そっか、そっか」


瞳美は手荒く飯を茶碗に詰め込みながら、首をひねって肩越しに圭佑をにらみつけた。


「そんなら、勝手にしなさい。自分ひとりで生きているみたいだね。ひとの言うことに耳をかさないんなら、二度と帰ってこないで」


瞳美は投げつけるように飯の詰まった茶碗を置いた。手に取った圭佑の指先に、亀裂が入ったようなざらっとした線が感じられた。


飯が済んで、瞳美が台所で洗い物に立つと、圭佑は老夫婦の部屋に忍び込んだ。


そろそろ潮時だった。だがこのまま引き揚げることはない。乗ってきたタクシー代は、瞳美が払ってくれた。レストラン旬幸房(しゅんこうぼう)で巻き上げた二十万円はそっくり残っているが、それはポーカーの大切な軍資金である。


整理ダンスから金になりそうなものを物色するつもりだった。いつもそうしていた。だが、老夫妻も、これまでの経験上、心得があるようで、タンスの中にはこれといったものがない。ようやくデパートの商品券を見つけて胸ポケットにしまった。


「戻しなさい。()ったものを」


振り向くと、ドアを開けて瞳美が(にら)んで立っていた。


「いいだろ、これくらい」


「あんた、どこまで人を馬鹿にすんの? 何よ、その笑いは。戻さないと・・・」


駆け寄った香織は、圭佑の胸ポケットに強引に手を突っ込もうとした。


「よせよ、姉ちゃん」


二、三発、頬や頭を張られたが、痛くもなかった。腕をとって、暴れる身体(からだ)を壁に押さえつけると、瞳美の小柄な身はずるずると圭佑の懐に収まってしまい、すっぽり抱かれた格好になってしまった。


「いい年した女が、餓鬼みてえに腕振り回して・・・みっともねえだろ」


「あんたに言われたくないね。いい加減、離しな」


瞳美はうろたえたように身をよじった。瞳美の顔は、長身の圭佑の胸元までしかない。腕を押さえられているために、顔は圭佑の胸にぴったりくっついて、その顔が怒りと羞恥で赤らんでいる。思いがけなく生々しい女の顔を圭佑は見てしまった。


「落ち着いてくれたら、離すよ」


圭佑はぼそっと呟くように言ったが、離れようともがく瞳美の胸の柔らかい膨らみ、足に触れる、瞳美の張った腰の感触に、心は奪われている。その感触が、幼い頃の遠い記憶を呼び起こしていた。


圭佑が中学に入る前だった。


その頃瞳美は、女子高の寮に入っており、ときおり施設に顔を出す程度の存在であったが、春休みに入って間もなくのころ泊まりで帰ってきた。


夜になって寝るときになると、瞳美は、


「圭佑、いっしょに寝よう」


と言った。


瞳美が高校に入るまで、寒いときには、瞳美と圭佑はひとつ布団に寝ていたのである。だがその夜、十一の圭佑はいやがって逃げ回ったが、瞳美はつかまえると無理やり自分の布団に引き入れてしまった。そのくせ、瞳美は疲れていたらしく、高校の話をしながらしきりに欠伸(あくび)をし、圭佑よりもさきに、寝息をたてて眠ってしまったのだった。


圭佑の手が、瞳美の下腹に伸びたのは好奇心だけであった。瞳美の身体(からだ)は、どこもかも驚くほど柔らかくすべすべで、以前にはなかったいい匂いがした。


だが、圭佑の手はやがて強く(つね)りあげられた。未知の、異様に秘密めいた感触の部分に、自分の指先が触れて(たか)ぶっていた気分が、急にしぼんで、圭佑はとてつもなくいけないことをしてしまった後のように息を殺して眼をつむったが、不意に身体(からだ)を瞳美に引き寄せられた。


闇の中で、心が破裂しそうなほど抱きしめられた圭佑は、やがて、匂いを高めた異常に熱い瞳美の身体(からだ)が、裸になっているのに気づいたのだった。


そのときの記憶が、不意に圭佑の動きを荒々しくした。


「圭佑、やめてよ」


瞳美は声をひそめて叱り、体重をかけて圭佑の腕の中から(のが)れようとしたが、その身は逆に、圭佑の腕に軽々と持ち上げられていた。


「ひとが来るでしょ。もう:::」


ついに、瞳美は哀願するように言った。


「こねえよ。こんな時間に」


圭佑が言った。その声が異様にかすれたのを聞くと、圭佑の腕に運ばれながら、瞳美の身体(からだ)は、一気に力を失った。


カーテン越しに差し込む弱い光の中で、濃密な時間が過ぎ、やがて気配は止んだ。


「遊びでも、こんなことして」


圭佑の身が離れると、瞳美はふっと眼を開いて(つぶや)いたが、すぐに力なく閉じられた。


乱れた髪、少し()げた頬、布団からのぞいている、()に焼けていない真っ白い太腿が、希望のない元人妻のなんとも言えない(かな)しさを、圭佑の胸は感じていた。


しばらくして圭佑がぽつりと言った。


「旦那さんは、姉ちゃんを可愛がってくれた?」


「え? 何言ってんの。いやらしい」


瞳美は眼をつむったまま、もの()そうに言った。


「それに、もう姉ちゃんなんて言わないでちょうだい。こんなことして、姉ちゃんはないよ」


「それは違うよ」


抱かれはじめは戸惑っていたようだった瞳美が、いつのまにかただの女に変わり、ほかの女と同じように燃えてのぼりつめていったのが(あわ)れで、圭佑の気持ちはひどく優しくなっていた。


「俺は姉ちゃんが好きなんだと思う。ここだってさ、姉ちゃんがいなかったら来ねえよ」


「うまいことばかり言って。あたしを好きになってどうすんの」


瞳美はのろのろと起き上がり、布団の上に横座りすると、両手で髪をなおした。


そのとき、玄関のチャイムが鳴った。


「ほら、やっぱり」


瞳美は(つぶや)いて、すばやく身繕(みづくろ)いして立って行ったが、すぐに荒っぽい足どりで戻ってきた。


「あんただよ」


「だれ?」


「知らないよ、名前なんか。どうせあんたと同じチンピラだろ」


圭佑が出ると、信夫(のぶお)が立っていた。信夫は小柄で肌黒の貧相な顔をしている。


「何? こんなとこまで」


「兄貴が探してる。携帯出ろよ。ずいぶん探した」


信夫はニコリともせず、そっけなく言い、奥をのぞくようなしぐさをした。


頬が()げ、窪んだ眼をしていつも青白い顔をしているが、この中年手前の男は、喧嘩になると凶暴で無慈悲な戦いをする。ただ、不思議なのはそれだけの凶暴性を持っているにもかかわらず、戦いにおいてはフェアさを求めるのが笑ってしまうとこであった。一対一の場面では助勢もしないし、それを求めもしない。以前やっていた柔道のせいかもしれない、本人がそう言っていた。圭佑にとってはどうでもいいことである。好きにも嫌いにもなれない存在であったからだ。ただ、信夫の女癖だけはどうしようもなく嫌悪していた。中学のガキだろうが、四十のババアだろうが、好みの身体(からだ)つきをしている女だったら強引に()ってしまうと耳にしていたからだ。


「兄貴か。すぐ行こう」


圭佑は言い、玄関口から「また来るよ、姉ちゃん」と言った。


「もう来なくていい。ろくなことがない」


奥の方で、瞳美の怒鳴る声がした。


3.稼業


(あけぼの)町と弥生(やよい)町の境にある郵便局裏の通りを抜け、スーパーに突き当たって右に曲がり、金屑(かなくず)川に出ると、信夫は立止まって「ちょっと一服していこう。兄貴が怒るからな」と、圭佑を煙草に誘った。


川に背を向けると、国道を西に向かう車のライトがきれいに並んでいる。帰宅ラッシュの時間になっていた。


「兄貴は怒ってる。何の連絡もないってな」


「脚を怪我して寝込んでたんだ。熱まで出てしまったから」


目の前を自転車が通った。近くの高校からの帰りだと思われる男女の学生だった。二人ともマフラーで口元まで覆い、()が暮れかかっていることもあり、顔はよく見えなかった。だが、ふたりとも何がおかしいのか、確かに笑い合っていた。


圭佑は、じっと煙草をくわえたまま、ふたりの姿が見えなくなるまで目で追い続けた。そろそろ行こうか、と信夫に声をかけられてはっと我にかえった。心がどっかに行ってしまっていたことに気づき、顔が熱くなった。


「じゃ、すぐに兄貴のとこへ行くか」


と圭佑は言った。


「待て。その前に寄るところがある」


「何か用があるのか」


「ちょっと、ひと仕事あんだ。お前をただ探しに行ったわけじゃねえんだ。これも兄貴からの用件だがな」


「どこに行くんだ?」


「すぐそこだ。ところで・・・」


信夫の声質が変わった。陰りを帯びている。


「さっきの女は、お前のか?」


「は? 誰のこと言ってんだ?」


「さっき、お前が居た施設の女だ」


「あれは、同じ施設で育った姉貴みたいなもんだ」


「お前の女かと聞いてんだ」


信夫は足取りをゆるめず、真直ぐ前を向いて言った。しかし、声質が妙に粘っこくなりつつあるのを圭佑は感じとった。


「そんなんじゃねえし、一度結婚している。ま、旦那が死んじまってから戻って来てるだけだ」


「そうか、それならいいさ」


信夫は言った。


「あれはいい女だぜ。身体(からだ)がいい。情がありそうだ」


「そうは思えねえけど。年取ってるくせに、ガキみてえに暴れる」


圭佑は言ったが、瞳美をひと目見ただけでそんなことを言う信夫が不気味だった。


信夫の言葉が、不意に子供の頃を思い出させていた。瞳美は、どうしてなのか、他の施設生の幼い子達よりも圭佑ばかりを可愛がった。ことに和子の圭佑への対応がどんなにひどいものか理解できる年頃になると、はっきり圭佑をかばい、寒い冬の夜は圭佑を、小さな身体(からだ)でくるむように抱いて眠った。


瞳美は、高校の寮に入るとき、圭佑と別れるのが辛いと言って泣き、和子に叱られたのだった。


「ここだ」


と信夫が言った。高取(たかとり)町の裕福な住宅街を抜けて、紅葉山(もみじやま)神社の先をしばらく道なりに歩み、石垣の角を右に曲がって、マンション並びの(みち)に入ったときだった。


二人は、『和食 藤島(ふじしま)邸』と小さな木彫りの表札をかかげた、料亭の前に立っていた。


「待ってな」


信夫は言うと、門を開けて、敷地に入ったが、そのまま正面の玄関には向かわず、右の植え込みの中に無理やり入っていった。


圭佑は門の前で、じろじろ通行人を眺めながら立っていたが、信夫はすぐに出てきた。屋敷の中から網ですくってきたように、若い男をひとり連れている。


信夫は若い男の腰をつついてから、圭佑に向かって、


「行くか」


と言った。


一緒に歩きながら、圭佑はじろじろと若い男をみた。男は圭佑と近い歳のようで、つるつるな肌をした顔である。それでいて沈んだ眼も手伝っているためか、顔色に冴えはなく、黒ずんで見える髭の剃り跡がよけいに顔色を悪くしていた。太り気味ながらも、背丈は長身の圭佑と同じほどである。


圭佑は、その男を一度どこかで見かけたことがあるような気がしたが、記憶は曖昧だった。男は圭佑に見られているのが解っているのかどうか、うつむいて足元を見ながら歩いている。風采に似合わずひどく無気力な感じだった。


三人は、無言のまま小学校沿いに出て、長い坂道を登りながら、マンション建設現場に出た。


「どこまで行くんですか」


男が怯えたように声を出したのは、建設現場を通り過ぎ、なおも人気(ひとけ)の少なそうに思える建設現場裏の路地に入ったときだった。金屑(かなくず)川の堤防下である。堤防といっても昔風にいえば、土手である。


「そうだな、ここらでいいか」


信夫は(つぶや)いて立止まると、男を連れて土手をのぼった。圭佑は、二人とは距離を置いて、関係なさそうな顔つきで上着のポケットに両手を突っ込んだまま、ひょうひょうと土手を駆け上った。車のライトや周辺マンションから漏れてくる明かりで、そこに水の流れがあるのだと解るくらいの暗さであった。さっきまであった()の面影はまるでなくなっている。


「お忙しいとこ、邪魔してしまって、申し訳ありません」


信夫は丁寧な口調で言った。


「二代目はどうされたと、上の者が気にしているものですから」


二代目と呼ばれた男は(うつむ)いたまま、じっと立っている。


「仮にも有名な藤島(ふじしま)邸の二代目だ、逃げるようなことはしないでしょ、と私からは意見しているんですが。なにぶん、()まっている額が大きいものですから。上も気が落ち着かないようなんです」


男は不満げに何か言いたそうに顔をあげて信夫をみた。


「二代目、まさかあんた、知らないって言うんじゃねえだろうな」


いきなり信夫の言葉、口調は荒くなった。ナイフを突きつけられたかのように、顔色を失った男の顎はあがり、視線を信夫と圭佑の間を漂わせたが、その顔はすぐに力なく伏せられた。


「黙ってちゃわかんねえ。な、二代目」


信夫の眼は黒く光り、声も低くドスが利いている。


「はっきりさせてもうらうぜ。うちでのつき合いはもう無しっていうんなら、たまったつけは即払ってもらわなくちゃな。あたりまえの話だろ」


男の俯きは変わらなかったが、やや身体を震わせている。


「つけはそのまま、ギャンブルはもう嫌だ、で知らんぷりってのは、世の中それじゃ通らねえだろ。ガキでもわかることだ」


「しかし、あんたたちは・・・」


男が、青ざめた顔をあげて意を決したように口をはさんだ。


「この前、俺に仕掛けたじゃないか。気づいていないと思ってるんですか」


(たか)(ひろ)さん」


信夫は優しい声で呼んだ。


「あんたなァ、俺の前だからよかったよ。そんなこと、マスターの前で言ってみな。半殺しだよ。ほんと」


孝博と呼ばれた男が、何か言おうと、怯えた顔をあげたが、口調とは裏腹に睨みつけている信夫の顔を見て押し黙った。


「そんな恐ろしいことを口にするもんじゃねえよ。あんたに仕掛けた? 何馬鹿なこと言ってんだ。あんたも大事な客だ。それも昨日、今日のつきあいじゃあるまいし。それはあんたの思い過ごしってやつだ」


男は、不審げに眉を寄せて顔をあげ、信夫をみつめた。


「大きく負け続けてると、誰もがそんな風に思ってしまうもんさ。俺もそんなことは何度も経験してる。だから、あんたの気持ちはわかるよ。・・・マスターも無理なことはなんも言ってねえ。ただ、また来てください、と言っているだけさ。今度は儲けてもらわなきゃな、と」


「しかし、遊びに行くにも、俺は金を持っていないんだ。親父はすっかりうるさくなっているし」


「売上ごまかしたり、仕入先から借りるとか、すぐに出来るじゃねえか。いや、無理しなくてもいいんだ、孝博さん。少しぐらいの金は貸すって、マスターは言ってんだよ。ま、あんたという気心の知れた馴染みのお客さんが顔をみせないと淋しいんだよ」


男はまた俯いて、信夫の言葉を黙って聞くばかりだったが、その縮こまった大柄の身体をさらに小さくして、何か独り言のように、声にならない小さな呻きを発していた。


「何をぶつぶつ言ってんだ! もう()け事とは縁を切るって言うんなら、あんたんとこ戻って、親父さんに取り立てるしかないが、それでもいいのか。」


とどめを刺すように、信夫は言った。


大柄な肩をすぼめるようにして、孝博が、ゆらりゆらりと土手を下り、帰っていくのを、二人は黙って見送った。


「ボンボンってのは、どいつも一緒だな。しょうもねえ奴だ」


と圭佑が言った。


「いい鴨らしい。もっと太らせろ、ってさ」


と信夫が言った。




4.追い込み


恭次(きょうじ)が、孝博に仕掛けているのが、圭佑にはわかった。


カードを配るのはカウンターの中にただひとり居るマスターの恭次だった。


四十近いはずの恭次は、同年齢のサラリーマンに比べればかなり若く見える。好きなように寝起きし、好きなように食っていっているからだと、本人が言っていたのを圭佑は憶えている。長身のラグビー選手のような体躯に、やや長めの茶色がかった髪を後ろに束ね、シンプルながらも身のこなしに気を配う恭次は、どうみても街中でみる、普通の仕事をしている四十前の男、とは思えない。しかし、そのいくらか若者受けする格好の裏には、普通の感覚では理解できない残忍さ、凶暴さが息を潜めているのを圭佑は知っていた。


あの怖さも素のものだとしたら、これほど怖い人間はいないのではないか、と圭佑は思う。


恭次の後ろに陳列してある数十種類の、ウイスキー、ジン、ウオッカ、カクテルリキュールなど、様々なボトルの間に、アクセント飾りのように図柄の異なるトランプセットが置いてある。どのセットも恭次にしかわからない細工が施されていた。どいつがどんなカードを持っているのかわかるのだ。


信夫と圭佑は、玄関ドアに一番近いカウンター席に座って、ごく薄い安物ウイスキーの水割りを舐めている。


孝博以外の客はいつもより少なく、六人だった。時々見かける程度の顔ぶれである。 信夫と圭佑は、時おり聞こえてくるドアの外の足音に耳を傾けていた。店は、警察よりも暴力団の方が怖かった。暴力そのものも怖いのだが、それよりも賭博という犯罪行為をしていることで、足元をみられ稼ぎを持っていかれることの方が怖かったのである。所詮は素人の遊びから始めた賭博ポーカーである。


冬とはいえ、もう明け方近いはずだったが、藤崎町商店街の裏通りの路地に入った一角にある、旧い木造二階建ての二階。昔は学生たちの下宿にでも使われていたかのような作りの建物奥にあるバーの小窓には全く()の気配が入ってこない。


いまゲームに参加しているのは、熱くなっている孝博以外は三人だけであった。ほかの三人は手持ちの金がなくなったり、少しのリターンで満足していたりでゲームを降り、恭次ほか三人のゲームを眺めていた。なにより店の中は、どんよりと漂う、疲れと眠気に引きずり込まれている雰囲気であった。ただ、孝博だけは血走った眼をして、一層熱くなっている。ジャズのBGMだけが店内には低く響いている。


「二十万!」


おお、と店内がいきなりどよめいた。ポーカーはひと勝負が短時間で終わる。そのため、稼ぐというよりは長い時間、多くの勝負を楽しむために、一回あたりの掛け金は少ない。実際、ここでは千円からの掛け金であり、よっぽど懐に余裕があって、よっぽど手持ちの札がよくない限りは、万を越す金をかけたりはしなかった。しかし、孝博を含む常連の、比較的裕福なサラリーマンや自営業連中の掛け金は普通より一桁上の掛け金が常である。


しかし、それにしても二十という数字には圭佑も信夫も驚いた。負ければ一、二分で失うのだ。確かに今日の孝博はいくらか、これまでの負けを取り戻していた。それでもまだ二百万は負けが残っているはずだ、圭佑は、顔を真っ赤にしながらも自信ありげに酒を口にした孝博にあきれかえった。と、同時に恭次の眼が冷たく光ったのを見逃(のが)さなかった。孝博がまんまと恭次の仕掛けに(はま)ったのだ。ほかの三人は即降りた。


これで、恭次と孝博のサシでの勝負になった。相手の手の内がわかっている恭次が降りるわけはない、こんな大金が掛かっているときには。これまでの孝博の勝ちは、他の客からの分もあるが、ほとんどは恭次が、わざと負けてあげていたのだった。


「二十万、受けるよ。おれもまずまずいいんだ」


恭次が頭をかきながら、困ったような、悩んでいるかのような顔をして言った。


「三十万」


孝博がはね返した。口元に余裕があった。


「じゃ、俺は四十で。どう?」


「五十万!」


顔から笑みの消えた孝博の強気の数字に、一瞬わざとらしい、ためらいをする恭次の視線が圭佑と信夫に向いた。


合図だった。


信夫はさりげなく棚から帳簿を取り、圭佑は立ち上がってドアの外を確認し、そのままドアにもたれかかかった。この勝負で恭次は孝博を突き放すのだ、二人はそう悟った。


「じゃ、百万」


恭次の言葉に店は静まった。孝博からはすっかり余裕は失われている。ほかの五人はそそくさと席を立って店を出た。もう、遊びの雰囲気ではないことに客も気づいていたのだ。圭佑だけが玄関で送り出す客に---遊びだからさ、またきてね---と作り笑いで見送った。


「百五十!」


「二百。孝博さん、これで最後だ。タイムアップだ。六時になっている」


ゲームは一応明け方までとなっており、だいたい六時には終える慣習になっていた。


恭次の二百のコールに、孝博は両手で(つか)んでいる手札を震えながら見つめている。


「二百五十、これで最後」


孝博のコールに、「わかったよ、それでOKだ」と恭次が受けた。恭次には全てわかっているのだ。


孝博が先にカードを開いた。


孝博はクイーンが三枚。残りはブタ。いつもは青白い頬が桃色に上気して、いきいきと光っている。


それを恭次は見ていなかった。ただ、確認するように、一枚ずつカードを開けた。


ジャック、ジャック、ジャック、エース、最後もエース。フルハウスだった。


なに、と思わず(うめ)いた孝博の顔は一変し、真っ青になって、両肩を落とし、両腕をだらりと下げた。


「信夫、帳簿持って来い。二代目の負けはいくらだ」


「兄貴、ざっと二百七十万ってとこです。今の分は入れてませんが」


「今の入れて五百二十万、どうする? 利子は入れてないよ。利子入れたら六百ってとこか」


孝博は不意に立ち上がった。少しふらついたが、信夫のそばに来ると、いきなり帳簿を(つか)もうと(つか)みかかる。おっと、そんなことはよそうぜ、と圭佑が孝博を引き剥がした。


「そんな金払えるわけねえだろうが!」


泣きべそ気味に孝博が叫んだ。恭次に向かって。


孝博の眼は赤く充血して、左眼は下まぶたまでふくれ上がっている。


恭次はグラスを一口すすって、飲み込みながら孝博をみてにやにや笑った。恭次のその笑いほど得たいが知れないものはない。


恭次はもともと中洲のバーに勤めていた。だが、五年前に独立し、この店を開業していたのだった。今にかぎらず、元来は普通のバーである。ただ、三年前から常連客へのサービスとして、短時間で終えられるポーカー遊びを始めた。それも最初の頃は百円、二百円程度の掛け金であったのが千円単位にまでエスカレートし、胴元としての実入りの良さを実感すると、もはやサービスではなくなり、こっちのほうが本業になってしまっていた。この界隈が歓楽街の中洲からは結構離れた、廃れいく商店街ということもあり、元来本職の、暴力団関係者の影が非常に薄いことも、恭次と店の後ろ盾になっていた。すこしばかり賭博ポーカーに興味のある素人には、参加しやすい存在になっている。


また、恭次は実入りがよくなった二年前から信夫、圭佑に小遣いを渡し始め、とりっぱぐれのないように客への見張り役を任せた。恭次も信夫も、圭佑も暴力団員ではないものの、その筋とのつきあいがまるっきりゼロということではない。たまに出向く中洲の夜の街ではそういう関係者と酒の席をともにすることがあり、サラ金の取立ての手口なども話をきいていた。恭次はそれを実践しているだけである。


恭次は三十八歳になっているが、まだ独り身だった。負けている客に金を融通し、次第に金が貯まると、周辺地区の金を持っていそうな大人しめのサラリーマンたちに声をかけ、賭博ポーカーからの実入りを増やしている。


金と女だけが好きな、冷酷な男だった。圭佑は、博打の借金を返せなくなった市役所勤めの中年男の家に乗り込み、家や土地の権利書、印鑑などとりあげ、家族もろとも家から叩き出すのを手伝ったことがある。どこで雇ったのか、圭佑が顔をみたこともないような凶悪な人相をした連中が、手馴れたふうにてきぱきとその仕事をすすめ、本人はともかく、まだ若い奥さんと小さな子供たちが泣き叫ぶのが(あわ)れだったが、その時も恭次は声を立てない笑いを反芻するように、幾度も唇を上らせてみていたのである。


そのとき、恭次が---あの奥さん、いい身体(からだ)してたなぁ、よかったぜ---と自慢げに言ったのを吐き気がする思いで聞いていた。


「圭佑、二代目をソファーへ」


恭次は、ドアの側に立って外を気遣っている圭佑に言うと、カウンターから出て、奥のソファーにどかっと座った。


恭次は、明け方近くまでポーカーをやるときは必ず圭佑か、いま帳簿を集計している信夫をドア近くに配し、時々外を覗かせるのである。用心深い男だった。


恭次と孝博の座っているソファーテーブルに、圭佑が氷水を運んでいくと、恭次は、入り口はもういいからここに座れ、と言った。薄明るいライトが照らすソファー席の隅に申し訳なさそうに圭佑は(うずくま)った。少しばかり場違いに感じるこのソファー席は、つけの貯まっている客に、金の支払いを督促する場所なのである。


「六百万など、つけはききません」


と恭次は言った。恭次の冷ややかな眼は、太い蜘蛛の巣に絡んだ羽虫をみるような、蜘蛛の眼を思わせる。


孝博の顔色は褪めて、青白くむくみ、眼だけが惨めに赤い。


「もう少しなんだ。恭次さん。もう少しで勝てそうなんだ。俺にはわかる。さっきもあんたが相手じゃなかったら勝っていたんだ」


血走った眼をあげて、孝博は言った。


「ここで断られては、これまでの投資が泡になって消えちまう。このままじゃ、このままじゃ---帰れない。首をくくるしかない」


恭次はにやにや笑いながら、ゆっくり二度、三度と首を振った。


「二代目、(おど)しは無しでお願いします。しばらくは、ギャンブルから手をひいたほうがいい。ま、今日はあまりにも不運だったとは思いますが、あれだってあなたの判断ミスってもんでしょ。いざという大勝負で、あなたは負けることが多い。もっと出来の悪い客が来るようになったら、そいつと勝負すればいい。それまでは止めてた方がいい、と思いますが」


恭次は立ち上がると、カウンター奥の手金庫から、電卓を持ってきて、信夫が集計したメモを広げた。恭次は手馴れたように器用な指でキーをたたいた。


「さっきの二百五十万を入れて、五百二十六万。昨日までの二百七十六万には当然利子がつく。去年の二月からたまりにたまった分で、五十四万七千円になる。これに元金を合わせて五百八十万七千円か」


恭次は電卓をつき出して数字を見せたが、孝博はソファーにもたれて膝元を見つめたまま、それを見なかった。


「これ、あくまでポーカーの分だけですよ。言っときますが。これに、孝博さん、あなたが飲み食いした分のつけ、三十六万八千六百円が加わります。しめて六百十七万五千六百円。もう大金ですよ。普通のサラリーマンの手取りを超えていますよ。年収でね。いったんここいらで払ってもらわないとね」


孝博の眼は自身の膝元から動かなかったが、何を見詰めているのかわからない程、眼は死んでいた。


「ま、いきなり全額を今すぐ払えなんて、ヤクザみたいなことは言いません。分割でいいんで、月々七十万万ずつ払っていただけませんか」


「七十万なんて:::」


孝博はようやく顔をあげて(つぶや)いた。もうすっかり両目が虚ろになっている。


「まるでサラ金だ。払えるわけないだろ、毎月七十万なんて。そんな金はない」


「そう開き直られても、こっちは困るんだが。藤島(ふじしま)邸の二代目が、七十万程度の金をなんともできないとは思えないですね」


「そんなことを言うけど、俺はここんとこ親父に(にら)まれているんだ。店の金に手をつけたりすればすぐにばれるし、追い出されてしまう」


「じゃ、こうしようか、孝博さん」


恭次の声は優しくなった。


「ここには、サインもされているから、おいおい払ってもらうこととして、とりあえず、今日の負け分二百五十万をどうにかして払ってもらえないだろうか」


「だから、さっきから言ってる---」


と孝博の()きになった声を、恭次が()で待ったをした。


「あんたの女の方から払ってもらうことは無理ですかね」


「女? 誰のことを言ってるんですか」


「あんたの結婚相手だよ。見合いして、結納をついこのあいだ交わしたんだろ?」


「何でそんなこと知ってるんだ、あんた」


孝博は眼をむき出しにして驚き、その表情には恐怖のいろがあった。


「あんたのことは、大概調べてありますよ」


恭次は冷たく言った。


「やめてくれ、あの人が、そんな大金をそろえられるわけがない。第一、これはあの人には全く関係がない」


「関係ない、ことはないでしょ。春には結婚する相手だ。関係あるじゃないか。それに近頃よく会ってるようじゃないですか」


蒼白になった孝博の口元は、揺れながらも何も発しなかった。


「どうしましょうか」


恭次はソファーにもたれかかって、組んだ両腕の上から、孝博の色を失った顔を、にやにや笑いながら見下した。


「ほかに方法がなければ、どうです? あの人の身体(からだ)で払ってもらってもいいんですが」


「やめろ」


孝博は顔をひきつらせて立ち上がろうとしたが、信夫が後ろから両肩を抑えて立たせなかった。


「そんなことはさせない」


「俺だって、そんなことはしたくありませんよ。風俗の関係者に話を持っていったり、値段の交渉したり、いろんな手間がかかる。果たして二百五十万で売れるかどうかもわからない」


「そんな話は、いい加減にしてくれ。マスター」


「いいですよ、ほかに方法があるなら教えてください」


「五十万でいい、もう一日勝負させてくれ。な、マスター、頼む」


恭次の女のように白い顔が不機嫌に笑いを引っ込めた。荒々しくソファーを立つと壁をたたくように照明を消した。


弱弱しい朝の光が小窓から射し込み、膝をつかんで、悄然(しょうぜん)と肩をすくめた孝博を浮かび上がらせる。それは蜘蛛の巣に引っかかって、ひとしきり足掻(あが)いたあと、諦めて死を待っている羽虫のようにみえた。


店の中はBGMもやみ、ひっそりとしている。外の音もきこえない。その静けさの中に、恭次の酷薄な声が響いた。


「全て終わってしまったことが、わからんらしい。おい圭佑、このしょうもない二代目を、家までお送りしろ。途中で逃げられても困る」




5.再婚


「おい」


信夫がケツをつついた。


「あれは、おまえんとこの女じゃねえか」


圭佑が信夫の視線を追って振り返ると、後ろ二、三十メートルのところを、浮かない顔で足を重たげに歩いてくる女がいる。瞳美だった。


地下鉄天神駅を中洲方面に出て、地下街から出ようと階段に足をかけたときである。


すぐそばまで来て、瞳美はようやく圭佑に気づいたようだった。


「あれ? 圭佑」


「姉ちゃん、そんな格好して、どこに行くんだ? 」


瞳美は旅行にでもいくような格好だった。髪にウエーブがつき、ほんのりと上品な感じに薄化粧をし、春物っぽい明るめのワンピースにベージュのコートを羽織っている。片手には旅行用のキャリーケース。


瞳美は、前よりも頬に肉がつき、少し太ったようにみえた。歩いてきたためだろうか、肌理(きめ)の細かい額から頬にかけて、うっすらと汗が光って見える。


この前のことが、とっさに頭に浮かび、圭佑はバツ悪く眼をそらした。


「就職活動でもしてんの? 姉ちゃん」


「うん、似たようなもんだよ」


瞳美はそっけなく言ったが、ちらと、距離を置いている信夫の方をみて、


「話があるけど、少しいい?」


と言った。


信夫に合図をしてから、圭佑はうなづくと、瞳美を階段の脇に誘った。


「再婚するんだ。私」


瞳美は、前置きもなく言った。


思いがけもなく、強い衝撃が、圭佑の胸を襲った。いきなりの、次第に気分を滅入らせるような、その重い衝撃に、遠い記憶がよみがえってきた。


瞳美は二十四の秋に、結婚した。その話が決まって、いよいよ明日が式だという日の夜、圭佑の部屋にきて、「明日でお別れだね」と告げたのだった。そのとき、圭佑は何も言葉が出なかったのである。ただ、悲しみと怒りが沸きあがり、怒りはいつまでも残り続け、去っていったときの瞳美の背中に向けられていた。そして怒りが鎮まったあとにおとずれた虚しさは、その後長く続いたのだった。


短い沈黙の後で、圭佑は声を落として言った。


「良かったじゃないか。いつまでもあそこにいたんじゃ、しょうがねえもんな」


瞳美は、黙ったまま、圭佑の気落ちしたような顔をちらりと覗いた。


「それで、今日はどこへ行くんだ?」


「行ってきたとこ。嫁ぎ先をみてきたの」


瞳美は雑踏に眼をそらして、やはり浮かない表情をした。


「工務店の社長でね。結構な歳なんだ。四十五歳」


「四十五? おっさんじゃねえか。で、そいつは、どんな奴だ」


圭佑の胸に怒りとも悔しさともいえない気持ちがいっきに沸きあがった。


「なあに、そんな怖い顔して。いい人じゃないかな。それに結構収入はあるみたいだし、そんなに老けちゃいないんだ。後妻になるんだけど、子供はいないから」


「いまだけだろ、結婚して飽きたら、どうせ他に女作るに決まってんだから。今でも他に女いるかもしれねえし」


「するどいわね」


「なに、やっぱりそうなのか」


圭佑は拳を固く握り締めた。


「若く見えるのはいいんだけど、なんか、女好きみたいな感じが気がかりなの。初めて会ったときからホテルに誘われるし・・・」


瞳美は顔を赤くして、言葉の終わりはか細く聞こえなかった。


すると、瞳美の顔に、不意に生々しい女臭さが滲み出て、圭佑を息苦しくした。雑踏の地下街の薄明るい照明の光の中に、あの日の、ひととき喘ぎを高めた胸の膨らみを、圭佑は身体(からだ)のどこかが痛むような感覚の中で思い出していた。


「やめなよ、姉ちゃん」


圭佑は叱りつけるように叫んだ。


「なにも、そんな奴と一緒になることはねえだろう。姉ちゃんだったら、いつか、もっといい男が現れるさ」


「いつか、いつか、って、いつ? 明日? 来月? それとも来年?」


いたずらっぽく言った瞳美の眼には、涙が盛り上がっている。


「そんなことわかんねえよ。でも:::」


「そうだね、わからないよね。誰にも。だから、今しか信用できないの。目の前にチャンスがあったら、妥協する。姉ちゃんは。---圭佑、私が家庭を持ちたいこと知っているでしょ。子供のいる普通の家庭。圭佑だって同じだったよね」


瞳美はぼんやりとした口調で言ったが、不意に()で顔を押さえた。


「圭佑、あんた、やっぱり大工さんには戻らないの?」


「あ? 戻る? なに馬鹿なこと言ってんだ」


不意の問いかけに、圭佑は、いつものようにそう口にしたものの、瞳美がそう問いかけてきた真意を測りかねて、困惑した顔をしていると、そうだね、そうだね、と(うつむ)いた瞳美は、か細い声で呟くように言った。


男眼をひく、美しい顔と身体つきなだけに、先ほどの話とセットである今の華やかな装いは、圭佑に、逆に哀しさを感じさせた。


「子供のいる普通の幸せな家庭がほしいの。でもさ、何かを得たかったら、何かを捨てるしかないんだね。ほんと、そうだ」


瞳美は、圭佑の胸を潤んだ眼で、見つめながら、まるで瞳美自身に言い聞かせるかのような口調で言った。


「ぜいたくは言えないよ。私は」


階段上の路上で立ったまま煙草を吸っていた信夫が「おい」と声をかけて、吸殻を路上に捨て靴でもみ消した。手をあげて信夫に応えながら、圭佑は早口に言った


「ともかく、考え直したほうがいい。いや、止めたほうがいい。ま、急がないほうがいい、近いうちに俺も顔出すから、そんときまた」


「圭佑が来たって、どうにもならないよ。もう」


瞳美はふっきれたように顔をあげて微笑んだ。包むような温かい笑みだった。眼の縁が赤くなっている。


「幾つになっても、なに言ってんだか、わかんないよ」


瞳美は、うーんと背を伸ばしながら、ちらと信夫を見上げて言った。


「いつまでもあんなのとつき合ってると、いまに酷い目にあうよ」


瞳美と別れると、圭佑と信夫は無言で道を急いだ。


「長い話だったな」


信夫が探るように言った。


「わけがありそうだな」


圭佑は、信夫の言葉が耳障りだった。ただ、黙っていて欲しかった。生傷(なまきず)を、どれどれ、と直に触られる、そんな気分になっていた。


「色っぽい姉さんだが、泣いてたじゃねえか。何かあったんだったら相談にのるぜ」


「内輪の話だ」


圭佑は険悪な表情で信夫を振向いた。まだ、荒々しい、怒りとしか言いようのないものが身体(からだ)の中で激しく暴れている。


「馬鹿な奴でさ、他人には話せねえような愚痴を言ってんだ。他に頼むような話じゃないさ」


どう受け取ったのか、信夫は薄笑いを浮かべた。


リバーサイドホテルの前まで行くと、信夫はまた「ここで待ってろ」と言った。


間もなく信夫は、いけすの魚を網ですくってきた。魚は孝博だった。


西からの低い()の光が街を覆い、道は柿色に染まっていたが、ビルの陰や路地にはすでにほの暗い藍色の影が漂い始めている。歩道が混んでいて、ホテルの玄関先に立つ三人の姿は目立たなかった。


「こんなとこに隠れていてもわかるんだよ。---で、決めたのか」


と信夫は言った。


「どうしても待ってはもらえないんですか」


と孝博は(うめ)くように言った。孝博の顔は、長い間洞窟の中に潜んでいた人間を思わせるかのように、青白く浮腫(むく)んでいる。顔の奥から怯えた眼が信夫と圭佑の表情を交互に探っている。


「まだ言ってんのか」


圭佑は、両手をポケットに突っ込んだまま、刺すような眼を孝博の顔につきつけて言った。


「二代目、相談しに来たんじゃないよ。返事を聞きに来たんだ」


「大きな声を出さないでください。人が見ている」


孝博は、おろおろと腰をかがめて、ホテルの中を覗くように見た。


「圭佑、顔が怖いぞ」


圭佑をなだめると、信夫が優しい声で言った。


「二代目にとっちゃ、辛いな。今回はな。でもさ、マスターはこれ以上待てないって言ってんだ」


「でも、・・・どう考えてもあの人が可愛そうだ。俺と結婚する相手だからというだけで」


「それはもっともだ二代目」


信夫はせせら笑った。


「だから、マスターも無理なことは言ってないだろ。分割でもいいから払ってくれればって」


「どっちにしろ、金がいるんでしょ。でも、俺には金がないから、いい方法がないかと」


孝博は俯いて、半べそ気味に言った。


「相談しに来たんじゃない、って言いいましたよ。さ、はやく答えを下さい」


何もわからない、そう孝博は誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。


()めてんじゃねえぞ、はっきりしな」


信夫の眼の中を一瞬走り抜けた凶暴な光を、孝博は見落とさなかったようである。(すく)みあがって真っ青な顔になった。


「・・・一週間後の今日夕方五時、マリナタウンの一番奥の海側の駐車場に連れてくる」


「連れてくる? :::よし、わかった」


信夫は短く言って、にやりと笑った。


「二代目、よく(わか)ってんな、あんた」


「言っとくが、俺はそこに連れて行くだけですよ」


(わか)ってるよ。心配すんな。あとはマスターにまかせとけばいいんだ」




6.手仕舞い


孝博が若い女を助手席に乗せて車で駐車場の奥まで入っていき、二人で海側に向かってしばらく歩いて行ったあと、孝博がひとりで車に戻ってくるのを、男三人は近くに()めていた車の中から見ていた。


「さあ、ひと仕事するか」


恭次が空になったビール缶をつぶして窓から捨てると、圭佑と信夫は車を出た。


薄雲の隙間から、心もとなく()れる()射しの下、逃げるような足どりで、孝博の姿が遠ざかるのを、圭佑は見送った。孝博の後姿は、だだっ広い駐車場にぽつんと()めてある、よく見る外車の中に消え、しばらくするとその車も、先に連なっている駐車中の車の群れの中に消えていった。


自分の女を売る、とはどういう気分なのだろう。圭佑は冷たく思った。そこまでしか情がないのか、それとも我が身を切り売りするぐらいの痛さを覚悟してでのことなのか。圭佑はそこで思うのを止めた。危うさを感じた。


---仕事だ、情を持ち込むのは無しだ---


どう言いくるめたのか、女が海岸付近から出てくる気配がない。後ろからは恭次が運転しているワンボックスの黒い車がのろのろとついて来ている。女をとらえて黙らせたら、すぐに車に押込み、博多港に停留中の韓国船に乗せるだけである。一時間の我慢だと言い聞かせていた。


韓国のヤクザ屋さんから、日本の女を求められていてな、高く売れるらしい。一千万出すってよ。昨夜、恭次が信夫にそう笑いながら言っていたのが脳裏に浮かんでくる。圭佑は聞こえない振りをして、店の床を掃いていた。


世話になってはいるが、こんな酷いことでもしなければ、こういう世界では生きてはいけないのか。圭佑は、心を閉ざさなければ生きてはいけないのだ、と自分に言い聞かせ、恭次たちの会話に耳を塞いだ。


うすら寒い空模様と日暮れ近い時刻のせいで、ショッピングモールの建物から遠く離れた駐車場の端には、人も車も見えなかった。埋立地の整備関係者の事務所らしきプレハブ小屋の裏で、枯れ草を燃やしているらしく、白っぽい煙が上がっている。


二人は無言で、駐車場縁のコンクリートと、こんもり盛り上がった砂地の境目で立止まった。


その後ろに恭次が車を()め、エンジンをかけたまま降りてきた。さっきから、海からの北風はやんでいる。風のない海辺であれば、二月に入った玄界灘も、たたずんで、眺める程度には耐えられる。防風林らしき手前の木々の茂みの向こうに女がいるはずであった。


海辺に廻ったとき、不意に木陰の暗さが三人を包んだ。その薄暗い陰のなかに、立ち上がってこちらを振向いた女の姿が見えた。木々の根っこ辺りに二羽の海鳥が小さく動き回っており、それを携帯で写真でも撮っているらしかった。


女の顔をみて、圭佑の足が()まった。いきなり胸を一撃されたような、重い衝撃が心を襲った。女はニット地の黒いパンツを穿き、薄いピンクのセーター、それにボアつきの厚手のコート。少しばかり様子が変わったようにみえるが、間違いなかった。


女は圭佑の顔を憶えていないらしく、三人の姿をみると怯えた表情になり、さりげなくその場から離れようと歩き出した。


「ちょっと待って。用事があるんだ。お嬢さん、あんたにね」


恭次はにやにや笑いながら言うと、信夫と圭佑に「やれ」と鋭く言った。


信夫が出ようとしたとき、圭佑が前に出て立ちはだかった。


「なんだ?」


信夫が怪訝な顔で低く唸った。


圭佑は、それには答えず、恭次に向かって叫んだ。


「なんかの間違いだ。兄貴。この人じゃねえ」


「この女だよ。何言ってんだ、お前は」


恭次は笑いながら言うも、不審げに圭佑を見つめた。


「教えてやるよ。その女は藤崎の旬幸房(しゅんこうぼう)っていうレストランの娘で、香織っていう名前だ。それぐらいのことは調べてある。おい、動くんじゃねえ」


(しま)いの(おど)かしは、香織に向けた言葉だった。


香織は唇の色まで白くして立ち(すく)んでいる。両目は見開かれ、その手から携帯電話が足元に落ちた。危険の度合いを察していた。


圭佑は、香織に走り寄るとその前に手をひろげて(かば)った。


「この人は恩人なんです」


圭佑は身体(からだ)を震わせながら、青ざめた顔で叫んだ。


「兄貴、今度だけは見逃(のが)してください」


「どうする、(のぶ)さん」


恭次は薄笑いを浮かべて言ったが、信夫が答えないで腕組みをしたのをみると、不意に不機嫌な表情になった。


「圭佑、どけ」


圭佑は、恭一の声に思わず反応し、眼を細めた。


「おまえ、俺を(にら)んだりしてマジなのか。いい加減にしな。恩返しはそれぐらいで済んだんじゃないのか」


「兄貴、お願いだ。かわりにどっかの女をさらって来るってのは、どうですか。約束します。だから、この人だけは勘弁してください」


「圭佑」


恭次の顔に、また無気味な薄笑いが戻った。


「俺に逆らった奴が、どうなったか、お前が一番よく知っているはずだぜ」


圭佑は、全身に震えが来るのが(わか)った。




二年前。信夫が加わる前に、裕也という、圭佑よりも年若い高校出たての男がいた。


「なんで、俺のダチの女を()ったんですか!」


店に飛び込んでくるなり、裕也は恭次に噛みついた。今にも、恭次につかみかからんばかりの憤怒の形相をしている。


カウンターを出て、無表情に裕也の前に立った恭次は、いきなり裕也の顔を殴りつけた。裕也からみれば不意打ちだった。


顔正面に一発。


ぐしゃっという音と裕也の(うめ)き。鼻がひしゃげ、顔の下半分が血に染まった。おなじとこへ二発、三発と恭次は続けた。全力で殴っているのではないことが圭佑にはわかった。恭次の腕は振り切ってもいないし、なにより薄ら笑いを浮かべての拳だった。そして、その恭次の歪んだ笑みに圭佑は微動だにできないでいた。、


最初の一発で、裕也の戦意はなくなっているのが、わかっていたはずだ。そもそも、最初から裕也にそこまでの敵意があったのかさえわからない。しかし、恭次の暴力は、狂気の眼を帯びながらエスカレートしていく。無気味とも言える濁った低い打撲音が続く。いったい何発殴れば気がすむのか。すでに、裕也の両目は(はれ)(あが)り、原型を(とど)めていない。


右から左から、そして下から、と恭次の暴力は、裕也に倒れることを許さなかった。ようやく止まったとき、裕也は恭次の足元に、どさっと崩れ落ちた。


「お前、何様のつもりだ。お前のダチがツケを払わないからだ。金を持っていない奴からは担保を取り上げる、銀行でもやっていることじゃねえか。俺がツケを認めるのは、いい女を持っている奴だけなんだよ。一回や二回、俺が()るのは、利子を受け取っているだけのことさ」


足元に転がる裕也に顔を近づけて、平然と言った。


「利子はもらったから、ツケの元金を持ってこさせろ。いいな」


顔の形の変わった裕也は震えながら立ち上がった。恭次に何かを言っている、何を言っているのか。圭佑には、ただの呻き声にしか、聞こえなかった。


そして、ふらふらと泳いだ身体で恭次につかみかかった。が、その手は苦もなく逆にひねりあげられて、裕也は苦悶の声をあげた。


「お前、何にもわかっちゃいねえな。何のために、お前に小遣いやってんだ? 俺のために働くのがスジってもんじゃねえのか。それにな、俺は、欲しいものは必ず手に入れる男だ。どんな手段でもな。歯向かう奴がいたら、こうやるんだよ」


骨の折れる鈍い音。同時に裕也の口から声にならない叫びが店内に響きわたった。裕也は、右腕が背中にありえない角度で曲がったまま、床に突っ伏し、身体(からだ)を震わせた。


「おい、圭佑、よく憶えとけ。逆らう奴は、こんなもんじゃすまねえ」


青白い顔の恭次は、目を鋭く細めた凶悪な形相で圭佑を(にら)みつけると、自分の腰のあたりから鋭く光るものを取り出した。


「お前は、使えねえな」


裕也にそう言い放つと、薄笑いした恭次は腰を沈め、転がって床に横向きになっている裕也の顔の頬に、ナイフを垂直に突き刺した。




恐怖が腹の内からこみあげ、喉元をとおり、口の中に広がってくる。歯が鳴り始めた。圭佑は、眼を恭次に据えたまま、後ろで硬直している香織に向かって(ささや)いた。


「いいか、そのパンプスを脱いで。はじまったら、振り返らずに人がいる所まで走れ。三百メートルくらいだ。こっちは何とかなる」


「は、はい」


香織の声はうわずっていた。


「わかったか。全力で走るんだ。ヤバい時には大声を出せ。ここらには人は居ない。いいな」


「こいつは驚いた。俺とマジにやる気か」


恭次が冷やかすように言った。


「兄貴がどうしても止めてくれないんだったら、仕方ありません」


「そうか、いい度胸してんな」


「度胸なんてないですよ、怖いですよ。兄貴のこと、怖いにきまってるじゃないですか」


圭佑は、自分でも声が上ずっているのがわかった。鳥肌がたち、震えも治まらない。


「俺は加減できねえからな。後悔するぞ」


恭次は自然体のまま近づいてきた。恭次の顔はまだ薄笑いを浮かべているが、右手にはもうナイフを握っている。圭佑は廻りに急いで眼をやったが、落ちているのは(ごみ)ばかりで、棒切れ一本なく、石もみあたらない。


「待て」


不意に信夫が声をかけた。


止めに入ったのではなかった。立っている所から、無造作にナイフを圭佑に投げただけである。


「不公平なのは見るのも嫌なんでね」


恭次の足がとまり、身体(からだ)()じって信夫をじっとみた。無気味な薄笑いのまま、恭次は信夫のそばまで戻ると、躍り上がるように身体(からだ)をはずませて信夫を殴った。


頬骨が鳴る鈍い音がし、小柄な身体(からだ)は、左に大きく傾いたが、たたらを踏んだあと、信夫は両足を踏みしめて踏みとどまった。


圭佑を振返ったとき、恭次の表情は一変していた。薄赤みを帯びた白く大ぶりな顔から、()き取ったように笑いが消えている。両の眼は細まり、()(すく)めるように圭佑の眼に吸いつき、唇は冷酷に(ゆが)んでいる。


圭佑の背後の空気が動いた。恭次の顔に(おび)えた香織が走り出したのだ。それを追おうとして足を踏み出した恭次の前に、圭佑は震えながら立ちはだかった。低く腰を沈め、ナイフを持った右手を震えながら恭次に向けて突き出し、静かに息を吐いた。


恭次は唇を(ゆが)めて、何か低く(つぶや)いた。


次の瞬間、恭次の身体(からだ)は、あっという間に圭佑に近づき、ナイフを()り出した。のけぞってかわしたが、恭次は間を置かずに次々と刃を()り出してくる。


かわすのが精一杯だった。恭次はナイフの扱いに慣れていた。一定の間合いから、間を置かずに踏み込んでくる。この距離では、自分のナイフが届かないことに、圭佑は気づいていた。


殺られる!


恭次のナイフが、シャツの袖口を切り裂き、いま大きく左頬をかすめたのを感じながら、圭佑は絶望的に思った。


いきなり恭次のナイフが目の前から、急降下した。足に鋭い痛み。危うく避けて横に飛んだとき、今度は右の頬を冷たい感触が走り抜けた。恭次のナイフは、肉にとどき始めている。もう逃げることはできない、そう思った。左太ももから(おびただ)しく血が流れている。逃げようにも脚がいうことをきかなくなっていた。


恭次の構えたナイフに自分のナイフをぶつけるように、圭佑は飛び込んでナイフを突き出したが、


軽くよけられ、空を切って伸びた圭佑の右腕は浅く切られた。右に左にボクサーのように動き回る恭次の影を追って、圭佑は開き直ったかのように滅茶苦茶にナイフを振り回してみたが、刃先は何


(とら)えることができなかった。


全身がボロボロに刻まれていくのに、相手は半分遊びのようにやっているのが感じられ、ただ、


ひたすらに悔しさだけがこみあげてくる。逃げた香織のことはとっくに念頭にない。どうでもいいとさえ思った。


まだ、ひと(かす)りさえ許さない、巧妙な眼の前の敵に対する憎悪が、圭佑の内で黒い炎を上げた。恭次の一撃をかわし、体勢を立て直すと、圭佑は大きく息を吸い込んだ。首を振って眼に入る血を振り払ったとき、圭佑の腹は決まった。


恭次がまた何か(つぶや)き、すぐに近づいて来たことには気づいていたが、圭佑はよけなかった。大きな黒い影が視界を(ふさ)いだ瞬間、圭佑は左の脇腹に激しい痛みを感じた。するりと腹の中に(とが)った氷の棒が入ってきた感触。だが、それが、圭佑の狙っていた唯一の勝機だった。歯を食いしばって、痛みをこらえると、圭佑は、ナイフを握っている恭次の腕にしがみついた。腹の(なか)に、ナイフが食い込む。


だが、恐ろしい力で振ほどこうとするその腕をたぐり、ついに恭次の身体(からだ)にぴたりと寄せ、圭佑は全身の力をこめて、相手の胸にナイフを叩き込んだ。


凄まじい絶叫が圭佑の耳を()ち、ぐらりと傾いてきた恭次の身体(からだ)を支えたとき、圭佑の顔は、相手の吐いた血で、しぶきを浴びたように濡れた。


恭次の身体(からだ)が、ずるずると足元に崩れたあと、圭佑はよろめいて、なお、(しばら)くは立っていた。空はいつのまにか晴れたらしく、西の方に柿色の名残をみせている。


その、血のような色の空が、圭佑の憶えている最後の風景であった。視界は、ひと呼吸ごとに暗くなり、身体(からだ)が斜めに傾いたまま急速に沈んでいくのを感じた。ただ、頬にあたる砂の冷たさが心地いい。


「さあ、どうする? そろそろパトが来るんじゃねえか」


不意に人の声がした。信夫に違いなかったが、声は異様に遠かった。信夫を呼ぼうと圭佑は口を開けたが、微かに(うめ)き声が()れただけである。


足音がした、そして次第に遠ざかっていく。


サイレンの音が聞こえ、近づいてくる。


闇の中に血の匂いと、冷えた海の匂いが漂っている。幾度か試みては、砂に這ったあと、圭佑はどうにか立つことができた。よろめきながら歩き出そうとした時、柔らかいものに(つまづ)いてまた転んだ。手探りで、それが冷たくなった恭次の身体(からだ)だとわかった。転がった圭佑は、身体(からだ)が氷のように冷たくなっていく感触の中で、不意に闇をみた。




身体(からだ)を切り刻まれているような痛みの中で、圭佑は眼を開いた。ベッドの上だった。点滴のチューブが両腕につながっている。


雰囲気で普通の病院ではないことに気づいた。自分に張り付いているわけでもなさそうな警官姿の男女が、いたるところにいる。


そうか、俺は人を殺してしまったんだな、相手のほうが強いのに。圭佑はぼんやりと、ついてない、そう思った。


脇腹を押さえ、時々転んで這ってはまた立上り、圭佑は少しずつ病院から遠ざかった。虫のような歩みだった。


地元球団スタジアムの見える、警察病院の敷地裏口まで、植え込みを這ってくぐりぬけ、道路脇の照明が眼に入った。真夜中、警察病院やアジア各国の領事館の集まっているこの辺りには、車や人が通っていないのは予想通りである。


目立たないよう、ベージュの病院着を緑の手術着に着替えてきたことも、発見されにくいだろう、と圭佑は、気休めとは思いつつ、役には立っていると思っている。


道路わきの植え込みに沿って海側の国道を目指した。走れば一分とはかからない距離。そこまで行けば、姪浜(めいのはま)手前の、あの施設までは人目を避けながら行くことは可能だ、と圭佑には思えた。


だが、いまの圭佑には近そうで近づいてこない国道が、幻ではないのかと思わせるほど、進むのは遅かった。月の輝きの下に、ぼんやりとオレンジ色に照らされた道がさっきから変わらず、遠くにひと筋横たわっているだけであった。


何も思わず、這い続け、ようやく海岸沿いの国道にたどりつくと、圭佑はそこに仰向けになった。熱くほてった身体(からだ)が、黒く冷たいアスファルトに冷やされて心地よく、次第に頭の中がぼんやりとしていく。脇腹の傷が開いているのだろう、痛みと熱さを感じるが、背中全体に流れ広がっている血がひんやりと冷たい。しかし、徐々に、何もかも、感じなくなりつつもあった。


「姉ちゃん」


少しずつ息が荒くなってきた圭佑は、真上に広がっている夜空を見つめて(つぶや)いた。


先週、街中で、自分の前で、涙を流した瞳美。その瞳美が、今日施設を出て嫁いでいくことを、ベッドの上でぼんやりと耳にしていた。


「いくなよ、姉ちゃん」


圭佑はまた(つぶや)いた。すると目尻から涙が溢れ、頬の下のアスファルトを冷たく濡らしているのがわかった。海からの北風に、小雪が混じってきた。さらりとした細かい雪。圭佑の身体の上にも少しずつ白が広がってくる。


圭佑が行くところは、瞳美がいるところしかなかった。子供のときからそうだった。


その道は、どこにある?


風が冷たくなってきた。


空には丸い月が、あの時と同じように銀色に輝いている。


あそこに向かえばいいのか。圭佑は力なく(つぶや)いた。


月は遥か高く、まわりは深い闇だった。


〈了〉


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