第21話 家を出る
「やっぱり高校は行かせてあげるほうがいいんと違う?」
莉は紅茶のカップを置いて言った。家具カタログを見ていた勝重は顔を上げて莉の方を見た。
「まあ、普通に考えたらそうやな。渡辺さんからも言われてるしな」
「なんか引っ掛かることあるの?」
「ヒナちゃんの気持ちや。僕らではカバーし切れん傷を負うてる。幾ら頭良くて剣道上手くても、やっぱり15歳の女の子やからな」
「まだ14歳。コカゲと同じ誕生日ってびっくりしたわ」
「パーティ一回で済んで親孝行や」
「そんな話はいいから高校の事よ」
「だからね、ヒナちゃんが行きたいって言うてるんやったら行かせてあげたいと思うよ。でも行きたくないってはっきり言ってるから、それ以上言うのは難しいよ」
「なんでやろ・・・ 口喧嘩くらいするやろうけど普段はあんなに仲いいのに」
「あんまり言うとな、それはヒナちゃんの心に土足で上がり込むようなもんやから、言われへんのや」
「コカゲは言ってくれてるのかな」
「それでケンカになったやん」
「そやけど、コカゲも本気で高校を勧めたと思うし」
「うん。僕が失言したけど、でもな莉。やっぱりコカゲはウチの子やしヒナちゃんは他所の子や。意識せんでもどこかでそれが滲んで見えるんや。それを感受性のいいヒナちゃんが見逃す筈ない」
「そう言う事、ヒナちゃんは言わへんよね」
「そう言う子やねん、ヒナちゃんは。掛川さんの育て方が良かったんや。芯の通ったいい子や」
「うん。時々コカゲと一緒に見える。二人で喋ってると姉妹みたいやなあって思うねん」
「ま、ウチを出ても支援してあげることはできるやろ。ここが実家やと思ってくれたらいいやん」
松永夫妻は精一杯ヒナタの事を気遣ってはいたが、まさか自分たちの弟が決定的なヒナタの心の傷になっているとは思いもしなかった。
一方ヒナタは最後の伝手を頼っていた。北海道に戻った動物保護センターの栗原環だ。今では北海道で自らが経営する小さな動物保護センターを開いていた。ヒナタはメールで環に住み込みで働かせて欲しいと訴えた。時期はなるべく早くと。事情を聞いた環はヒナタがいきなり孤児になった話に驚愕した。そしてその頼みを快諾した。環と市役所の渡辺さん、そして松永夫妻の話し合いにより、ヒナタは二学期から北海道の中学に転校する事になり、環が新たな里親になった。
そんなやり取りにコカゲは気づいていた。止めようがない。コカゲも無力感で一杯だった。何も言えない日々が過ぎて気づけばヒナタが荷物をまとめていた。
「ヒナ、どうしても出て行くの?」
「うん。そういう運命やと思う」
「私が原因かな」
「違う違う」
「お父さんとお母さん?お父さんヒナを傷つける事言うたし」
「ううん。あんなん気にしてへん。言うて当たり前のことやん。コカゲを小さい頃から育てて来てはるんやから可愛いに決まってるやん」
「ほんならなんで?」
「いろいろ絡んでるし、あたし高校行かへんから、ここにいたらコカゲの受験にも悪影響やしね」
「めっちゃ淋しいねんけど」
「あたしも今更やけど急に淋しくなってきた」
「勉強教えてくれる人、いなくなるねんけど」
「家庭教師の人おるでしょ?」
「だって、ヒナにしか聞けない事いっぱいあるし」
「しょーがないなあ、どうしようもなかったらLINEか電話して」
「でもいなくなるやん」
「いなくなる訳やないから。ここからやったらフェリーでドアtoドアって、環さんも言ってたやろ。思いのほか近いねん」
コカゲはヒナタの顔をじっと見て、黒髪をさらっと触った。
「こんなに急に決まって、クラスの友達とか知らんのちゃうん?」
「まあね。先生が何とかしてくれると思う。あ、でもオフジにだけは言うたよ」
「うん。ヒナが居なくなったらオフジとも会う機会少なくなる」
「大丈夫やって。オフジにはコカゲの事よろしくって言ってあるし、大体、あの子ヤンキーやからいざと言う時頼りになるよ」
「えー、そうかなあ。真面目なヤンキー?」
「今は勉強まっしぐらやからね」
莉が二階に上がって来た。
「ヒナちゃん、下でお茶にしよか。荷物片付いた?」
「はいーだいたい」
「まあ、あと一日あるから余裕やね」
「そうですねえ。後は段ボールに蓋するくらいですけど」
「フェリー初めてでしょ?」
「はい。ちょっと楽しみです」
「ヒナ、フェリーって切符あるの?」
「そらあるよ」
ヒナタはリュックからごそごそ紙を取り出した。
「切符言うてもプリントアウトやけどね。ほら」
コカゲはA4用紙に印刷された切符を眺める。
「へーえ。あれ?これ今日ちゃうん?」
「え?」
莉とヒナタが紙を覗き込む。
「え?今日って何日?」
莉が慌てる。ヒナタがスマホを確かめる。
「うわっ、ほんまや!今日の夜や!」
莉が更に慌てる。
「お父さーん、大変!ヒナちゃんのフェリー 今晩やったー」
1階に駆け降りた莉に呼応するように
「えー!なんで気づかんかったんや!」
「コカゲごめん。最後まで面倒かけて」
「気がついてよかったねー」
「ほんまに有難う」
階下から莉が叫ぶ。
「ヒナちゃんー!降りて来てー、お父さんが送るって!」
「はーい。じゃ、コカゲ、着いたら写真送るわ」
「うん。ヒナ、気をつけて」
ヒナタはコカゲをぎゅっと抱き締めると慌てて階段を駆け下りた。リュックと竹刀を持ってガレージへと走る。ガレージの手前でふと黄色い花が目に入った。サネカズラ。お父さんとお母さんが植えた木が花を咲かせている。
お母さん、手紙の中でサネカズラの花言葉は「再会」とか言ってたけど、反対やな。お別れやのに。
ふいに涙が溢れた。ヒナタはサネカズラの花にそっと手で触れた。そして竹刀を置いて両手で花を包み込んだ。
お父さん、お母さん。ヒナタは北海道へ行く。そこでちゃんと大人になる。頑張るよ。今まで有難う、さようなら。
黄色い花は頷くように風に揺れた。
ヒナタが出て行った翌日、コカゲの家をオフジが訪れた。
「ヒナタいる?」
「ごめん、昨日の夜に出発した」
「え?今日と違ったん?」
「一日間違えててん。私の親もみんな間違えて大騒ぎで何とか間に合った」
オフジは呆れた。
「なんやそれは。ヒナタらしいと言うか、らしくないと言うか。ってか、じゃこれどうするのよ」
オフジはクラスの寄せ書きを預かって来たのだ。
「オフジ、まあちょっと入って。それは荷物と一緒に送るから」
コカゲは自分の部屋にオフジを案内した。
「へえ、さすがお嬢様の部屋やねえ。ヒナタもしんどい筈や」
「そう?ヒナ結構嵌ってたけどな。ヒナって着飾ったらめっちゃ綺麗よ。お正月にびっくりした」
「竹刀置いて、口開かんかったら黒髪の美人」
「そうそう。男の子にも人気やったんでしょ?」
「うーん。ヒナタ怖かったからなあ、微妙。でもそれを知らんかったらオトコの目を引くタイプ。あ、それでか…」
「何が?」
しばしオフジは口籠った。
「どしたん?」
コカゲが怪訝に思い聞く。
「あのさ、コカゲちゃんだけに言うよ。ほんまはヒナタから絶対言うなって口止めされてる事やけど、万一があったら困るから」
「え?」
「ここにお父さんの弟って来るんやろ?」
「久叔父さんのこと?」
「誰かは知らん。コカゲちゃん、その人には気ぃつけや」
「叔父さんがどうかしたん?」
「ヒナタ、嫌な目に遭うたみたい。あのヒナタが泣いてた」
コカゲは息を呑んだ。人畜無害に思えるあの叔父さんにヒナが何をされたのだろう。
「里子のくせに とか言われたんやろか」
「ううん、もっと酷いこと。口にも出されへん。ヒナタ綺麗やから、それに里子やから狙われた」
狙われた…。
コカゲは何となく見当がついた。あの叔父がヒナに? コカゲは言葉を失った。
「だからコカゲちゃんも気を付けて。幾ら姪っ子でも油断したらあかんと思う」
「う、うん…」
そんな重大な事を何故自分に打ち明けてくれなかったのか。答えは一つだ。ヒナは自分が我慢すればいいと思ったんだ。この家に変な騒ぎを起こしたくない。でも、またあるかもと思うと、ここにいる訳にいかなかったんだ。ヒナが出した結論は余りにも残酷だった。
言うべきかどうか、数日間散々迷った挙句、コカゲは莉にそっと聞いてみた。
「お母さん、久叔父さんってなんで独身なん?」
「え?どうしたん急に」
「ちょっと気になって」
「なんでやろね。仕事ちゃんとしてないからかなあ」
「ふうん。彼女いてないんやろね」
「まあねえ、聞いたことないなあ。コカゲどうしたん?変なこと聞いて」
「うん。ちょっとね」
「ちょっと何よ。何か隠してるでしょ」
「詳しくは知らんから」
「久さんに何かあったん?」
「ううん。って言うか、何かあったんはどっちか言うとヒナの方やし」
「ヒナちゃん?」
「やっぱり言うた方がええやんね。あのね、ヒナが叔父さんに何かされたみたい」
「え?」
莉の顔色が変わった。
「それ以上は判らへん。ヒナ、私には言わんかったし、オフジにだけちょっと言うたみたい。ヒナ泣いてたってオフジが言ってた」
コカゲはいい加減にこんな事を言う子じゃない。オフジちゃんだって、茶髪だけど心根はきちんとしている子だ。莉は思い巡らせた。ヒナタに起こったこと、そしてヒナタが進学を拒んだ理由を。
その日の深夜、コカゲが寝静まったあと、莉は勝重とダイニングテーブルで向かい合っていた。
「どうした莉?顔が青いよ」
「あのね、久さんってちょっと変な趣味ない?」
「変な趣味?ゲームとか?」
「ううん。何やろ、ロリコンって言うの?」
「ロリコン?そこまで知らんわ」
「ずっと前やけど、私が『彼女作らへんの?』って聞いたら、久さんは『僕は相手が大人やったらあかんのです』とか言うてた」
「へえ」
「その時の笑い方がちょっと嫌やなって思ってん」
「ふうん。それがどうかしたん?」
勝重も莉が言わんとしている意味を考えた。
「あのね、ヒナちゃん、久さんに嫌な目に遭ってたみたい」
「え?」
勝重は思わず背筋を伸ばした。
「ヒナちゃんが?」
「うん。具体的には判らへんけど、あの子、泣いてたって」
「…」
「ヒナちゃんのことやから、絶対私らには言わへんと思う。一人で耐えて忍んでたんやと思う」
勝重は天井を睨んだ。
「コカゲが言うてたんか?」
「うん。でもヒナちゃんから聞いたのは藤央ちゃん。ヒナちゃんの仲いい友達。あの子も芯の通った子やから出鱈目は言わへん」
「あの茶髪の子やな」
「うん。コカゲを心配して言うてくれたみたい。ヒナちゃんには口止めされてたみたいやけど」
「そうか」
「ヒナちゃん、自分から言う訳にいかんし、かと言ってここに残るのも怖かったん違うかな。せやから出て行った」
勝重はしばし黙った。
「俺らは守ってやれんかったんか…」
「可哀想なことした…」
莉の目から涙がぽろぽろ零れた。
「わかった」
勝重は宙を睨んだ。
次の日曜日、また久がやって来た。
「あれ?ヒナは居てないの?」
勝重は取り敢えずさり気なく対応した。
「ああ、北海道へ行った。就職するために」
「何や。いろいろ教えたろうと思たのに」
「いろいろって何を教えるんや」
「もうすぐ高校生やろ。いろんなとこ連れて行ったろかと思うてな。兄貴には遠慮もあるやろうけど俺やったらヒナも気楽やろ。ええ感じの子やもんな」
久は調子よく喋った。勝重は少し間を置いて低い声で尋ねた。
「おまえ、ヒナちゃんに何した?」
「なんや、いきなり」
「何かしたんやろ。判ってんねん」
「何って言うほどしてへんよ。竹刀で叩かれてしもたし」
久は右手首の痣を見せた。
やっぱり・・・。武道をやっているヒナタが理由なく竹刀で打つ筈がない。久は悪ふざけのつもりだったのかも知れない。しかし14歳のヒナタにとっては一大事だったに違いない。でも言えない。苦しかっただろう。親友のオフジにだからこそ、ぽろっとこぼしてしまったんだ。辛かったろうな・・・。
「おまえ、ヒナちゃんに手ぇ出したな」
「え?いや出るとこまで行ってへんって」
「出したんやないか」
勝重は怒りを抑える事が出来なかった
「出て行け!二度とウチの敷居を跨ぐな!」
血相が変わっていた。
久は、急に何やねん、何もないやんか と言いながらそそくさと出て行った。勝重は拳を握りしめたまま項垂れた。
くそっ、見逃してた。ヒナちゃんごめん、本当にごめん。すまんかった・・・。




