#1-1 壊れた日常
「ゆーうーとーくーん!」
「は? って、うわっ!?」
朝の通学路。
冬の寒さに身を縮こませながら歩いていれば、背後から名を呼ばれて月舘優斗は振り返る。それと同時に体当たりされて、バランスを崩した優斗は受け身も取れずに尻餅をついた。
痛みに表情を歪めながらも自分に尻餅をつかせた元凶の顔を見ようと顔を上げれば、やはりそこには彼の予想していた人物が立っていた。
「大河! いきなり何するんだよ?」
「おはよう! 今日もいい朝だな!」
優斗が放った文句の言葉など聞こえていないかのように満面の笑みをたたえている明るい茶髪の少年。
一見して軽そうな印象を抱かせる容姿をしているのだが、その印象を薄れさせるのは彼の顔や体の至る所に包帯や絆創膏があるからだろう。その傷の量を見てしまうと彼の軽そうな見た目と軽薄そうな笑顔が何か危険なもののように思えて、大抵の人間は彼を避けるのだ。
もっとも彼の怪我の原因を知っている優斗は、新たに増えた顔の傷を見て、またかとため息をつくだけだった。
「また顔面スライディングでもしたのか?」
大河の手を借りながら立ち上がり、制服や鞄についた汚れを手で払いながら優斗はそう言った。
彼の怪我の原因は大多数の人が考えているような危険な理由は何一つない。
危ない連中と連んでいるとか、親から虐待をされているとか、そんな重い理由ですらない。
ただ彼は……星野大河という人間は究極的にドジで運が悪いだけなのだ。
何もないところで転ぶのは当たり前。何かあるところでは確実に何かしらの事故に巻き込まれるのが彼という人間なのだ。
昨日まではなかった顔の絆創膏も恐らくは転んで怪我したものなのだろう。そう思い、呆れながらの言葉を放ったのだが、大河はとんでもないとばかりに大げさに手を振ってみせる。
「いやいや、勘違いしてもらったら困るな。この傷はいわば勲章なんだ。一千と二百年前に対峙した漆黒の魔王との三日三晩の戦いの末についた名誉の勲章なんだ! 決して階段から滑って落ちて、顔面強打したとかじゃないんだぜ!」
「ああ、はいはい。それは大変だったな」
意味不明な台詞を口走りながらも後半で自ら理由を語っている大河に優斗は慣れた様子で話を聞き流して歩き出す。そんな彼の態度に大河は気分を害した様子なく、
「そうなんだ! すごく大変だったんだ!」
と、嬉しそうに一人で何度も頷きながら隣に並んでくる。
「しかし、今日は寒いなー」
しきりに頷いた後、満足したのか唐突に話題が切り替わった。しかし、彼の話が急に飛ぶのはいつものことなので、優斗も首に巻いたマフラーに顔を埋めながら同意する。
「まあ、もう十一月も終わりだしな。……そういえば、お前は結局どこの高校に行くことにしたんだ?」
「あははー」
「笑って誤魔化すな」
中学三年の十一月。
本来ならば、とっくに進学先を決めて受験に備えていなければいけない時期だというのに大河は未だに進路を決めていなかった。
ついこの間も担任に呼び出されていたが、彼は笑顔でこう言ったらしい。
「俺は闇に生きる者。故に常に命を狙われ、生と死の狭間を彷徨っているのです! そんな俺に今更光の道に進めと先生は仰るんですか! ああ、分かっています! 所詮先生には俺の話など理解できないことを! けれど、俺は何度だって言いましょう! 闇に生き、闇に死ぬ定めを持つ俺には高校の選択など些末なことだと!」
その話を聞いた時、先生に同情したくなると優斗は思った。
「そういや、優斗は時雨第一に行くんだっけか?」
「まあ、そこが一番家から近いしな」
「学力も平均的だしってか?」
「悪かったな。平均的な学力で」
そんないつもと変わらない雑談を交わしながら、いつもと変わらない通学路を歩く。
いつもと何一つ変わらない日常が続くのだと、月舘優斗は何の確信もなくただ漠然と考えていた。
これからも何も変わることなく、平凡で退屈で、けれども気の合う親友とバカやっていられると何の疑いもなく信じていたのだ──。
◇◆
優斗と大河が自分達の所属する三年一組の教室に入るなり、彼らの姿を見つけた一人の男子生徒が駆け寄ってきた。
「二人とも! 大事件だぜ!」
「っと、鈴木。いきなりどうしたんだ?」
「ん~? なんか教室の中、騒がしくないか? 何かあった?」
焦った様子で話しかけてきた鈴木とは違い、優斗と大河は何故彼がこんなにも取り乱しているのか分からずに首を傾げた。
そんな二人の反応に鈴木は冷静さを取り戻すどころか、ますます興奮した様子で口早に告げる。
「この近くで傷害事件だってよ! しかも、被害者はうちの学校の生徒らしい」
「え?」
「それ本当なのか?」
「マジだって! 朝、職員室で先生達が話してたし! しかも、犯人まだ捕まってないとか……こえー!」
あまりにも日常離れした話題に優斗は、とっさに何かを言うことなど出来ず、ただ呆然と鈴木を見ていた。
「……その被害者は無事なのか?」
先に言葉を発したのは大河の方だった。
「俺も詳しくは知らないけど、生きてるらしい。いまはまだ」
「いまはって……」
「意識不明の重体だってさ」
「しかも、意識を失う前の女子生徒の話だと『化け物』に襲われたとか言ってたらしいな」
突然第三者の声が聞こえて、三人は驚いたように肩を揺らして振り返る。
その先にいたのは彼らのクラスメイトである田中だった。
黒髪黒目のいかにも優等生らしい容姿の田中は、黒縁眼鏡を掛け直しながら、優斗達を見ている。
全員の視線が自分に向いたのを確かめると、彼は軽く手を挙げて挨拶をしてから事件の話題を口にした。
「実際に化け物だったかどうかは分からないけど、犯人はまだ捕まってないみたいだな」
「マジかよ!? 田中よく知ってんな!」
「もうニュースになってるしな。俺の家の近くだったから昨日から騒がしいんだ。朝から警察やら報道やらで来るの大変だったんだからな」
「そういえば、今日は遅かったな。いつも早いお前が珍しいと思ったよ」
優斗の言葉に田中は苦笑する。
その態度に朝から大変だったというのは本当の事なのだろうと優斗は察した。
その直後、校内放送が流れて、生徒は至急体育館に集まるように促された。
何も知らない状況だったのならば、何の話なのかと首を傾げたが、いまこの状況で緊急集会を開くとしたら理由はただ一つだけ。
たったいま聞いた傷害事件のことだろう。
「体育館かぁ。行こうぜ」
「だな。なんか新しい情報聞けるかもしれないしな」
「ああ。……大河?」
歩き出す鈴木達に続こうとした優斗だが、大河が動きだそうとしないことに気づいて振り返る。
名を呼ばれたことにより、大河はハッとしたように顔を上げて、いつものように笑う。
「なんでもない! 俺達も早く行こうぜ!」
その態度に僅かに違和感を覚えたのだが、それはあまりにも微かなものだった為、優斗は気のせいかと思い直して、彼の言葉に頷いた。
予想通りというべきか、緊急集会で話された内容は傷害事件の内容だった。
そこで優斗が知った新情報は被害者が優斗と同じ学年の高野という女子生徒であることと、恐らく通り魔であるということ。そして、校長からは登下校の際は必ず二人以上で行動することと、夜に出歩かないようにと注意喚起された。
長かった校長の話が終わり、解放されたあとも生徒達は浮き足だったままそれぞれの教室へと戻っていく。
なんだか現実味が帯びないと優斗は考える。
まさか自分の身近でこんな事件が起こるなんて考えた事もなかったのだ。
妙に落ち着かない気持ちのまま、優斗も他の生徒達と同じように教室へと戻っていくのだった。
それから数日。
事件について大した進展はなく、生徒達も不安を覚えつつも緩やかに事件の事を忘れていきそうになっていた時の事。
新たな被害者が出たのだ。
今度は高校生だという。そして、最悪なことにその高校生は亡くなってしまったのだ。
これには事件を風化しそうになっていた生徒達も顔を青ざめさせた。
警察が発表した同一犯の仕業が高いということも不安を煽る一因だった。
いつものように大河と二人で登校してきた優斗達。
そんな彼等の元に数日前と同じように教室に入るなり、鈴木が駆け寄ってくる。しかし、この間と違うのは彼の隣に田中の姿もあるということだ。
「なあ、二人も聞いたか! あの噂……」
お調子者の鈴木が普段の明るい顔を消して、神妙な顔で告げた言葉に優斗と大河は互いに顔を見合わせる。
鈴木が言っている噂が何のことだか分からなかったのだ。
二人が噂を知らないと先に見抜いたのは鈴木ではなく、田中だった。
「その様子じゃ知らないみたいだな」
「ああ、噂ってなに?」
優斗が尋ねれば、鈴木が待ってましたとばかりに頷く。それから、他の人に聞かれないように顔を寄せて小声で噂を口にする。
「なんでも三組の高野さんを襲ったのも高校生を襲ったのも……『鬼』だって噂だよ」
「鬼っ!?」
大河が驚いたように声をあげた。
その声に反応したように教室の至る所から視線を向けられてしまう。
あまりにも突拍子もない言葉に大きな声をあげてしまうのも無理はない。大河が大声を出していなかったら優斗が声をあげていただろう。
「わっ! 馬鹿! シーッ!」
鈴木が静かにしろとばかりに自らの口の前に人差し指を立てる。隣にいる田中も全く同じ動作だ。
「ごめん」
二人に諫められ、大河も素直に謝罪する。
「それで? 鬼ってどういうこと?」
冷静に考えれば、現実にはいない架空の存在をあげられてもとうてい信用できないが、あまりにも鈴木と田中の顔が真剣だったので、茶化すこともできず話を聞くことにしたのだ。
「なんかさ、警察は公にしてないんだけど……被害者二人の傷って人間には不可能なものらしいんだ」
「不可能?」
そこで優斗は気付く。
ニュースでも被害者がどんな凶器で襲われたかを言っていなかったことに。
「そう、なんか獣とかに食いちぎられたみたいな」
「しかも、大型のな。野犬とか熊とかそういうのでもないらしい」
そもそもこの辺りで野犬や熊が出たなどという話は聞いたことがないが、それでもその異様さに念を押すために田中は、あえてそう言ったのだろう。
「……そういえば、田中。高野さんが襲われた時、化け物に襲われたって証言したって言ってたよな」
「ああ、言ったな」
確かめるように田中にそう尋ねた大河は彼の返答を聞くなり、黙り込んでしまう。何かを考えているようだった。
「どうかしたのか?」
「いや、なんでもない! 夜に出歩けないなんて闇に生きる者として辛いなって考えてただけだ!」
「ああ、はいはい」
普段と様子が違う気がして声をかけたのだが、返ってきたのはあまりにも普段通りの返答で優斗は呆れたようにそれを聞き流すのであった。
その日の夜。
優斗の携帯端末が着信を告げた。
時刻は八時に差し掛かろうとしている頃。夕飯を食べ終え、勉強していた時のことであった。
「鈴木?」
画面に表示されているのは鈴木の名前。
こんな時間に何の用だろうかと不思議に思いながら、優斗は通話ボタンをタッチする。
瞬間──。
「た、助けてくれ!」
端末の向こうから聞こえてきたのは悲痛の叫びだった。
「どうしたんだ!? なにがあった?」
尋常ではない様子の鈴木に優斗は尋ねながらもその理由を想像してしまった。
当たってほしくない最悪の想像を。
「ば、化け物が……た、田中がっ!」
「田中? 田中も一緒なのか!?」
「ひっ! く、来るな!」
「鈴木? おい、鈴木!」
「ぎゃぁあああああああ!」
鼓膜が破れてしまうのではないかと思うほどの大絶叫がスピーカー越しに聞こえてきた。
生まれてから一度も聞いたことのない悲鳴に自然と体が震えて、端末を落としてしまう。
床に落下した端末はもう何も言わない。
全身から血の気が引いていくのが分かった。
たったいまこの電話越しに起こった何かを想像して恐怖する。
何かを考えている余裕はなかった。
ただ優斗は部屋を飛び出していた。
家を出るときに母親から声をかけられたが、それに返事をする余裕もなくそのまま夜の町へと駆け出す。
危険だと思った。
いますぐ引き返すべきだと思った。
それでも体は勝手に動いていた。
鈴木達がどこで襲われていたのかなんて分からない。けれど、優斗は迷いなく走る。
毎週金曜日のこの時間、同じ塾に通っている二人が通るであろう道を脳裏に思い浮かべ、優斗は駆ける。
通行人が脇目もふらず走る中学生に何事かと振り返るがその視線すらも無視して駆け抜ける。
賑やかな繁華街を抜けて、閑散とした住宅街へと入り込む。何度も遊びに行っている鈴木の家までの道のりを思い出す。
そんな時だった。
硬い金属同士がぶつかる金属音が聞こえて、優斗は足を止めた。
もしかしたら鈴木達を襲った犯人がいるかもしれないと考えたのだ。そこでようやく、優斗は自分の愚かしさに気づく。
本当に鈴木達を襲った犯人がいるならば、ただの中学生の自分には何も出来ないということを。
武道を習っているわけでも喧嘩が強いわけでもない、むしろロクに喧嘩なんてしたことがない体格も平均的な優斗が行ったところで、新たな犠牲者が出るだけだということを。