#10-3 合同訓練
数多くいる退鬼師の家系の中にも名門と呼ばれる家系が幾つかある。
雷堂。卯月。朝永。そして、石動。
他にもいるのだが、多くの退鬼師達に退鬼師の名門と言えばと問いかけて、返ってくる答えは主にこの四家だろう。
長い歴史の中、常に瀧石嶺家を支え、退鬼師の歴史に名を残す優秀な退鬼師達を輩出してきた家系。
そんな名門と呼ばれる石動家の三男として、石動嵐は生まれてきた。もっとも、それはあまりにも望まれていない出生だったのだが。
石動嵐は正妻の子供ではない。石動家の当主──嵐の父親と彼の愛人との間にできた子供であった。
醜聞を嫌う父親は最初こそ嵐を認知しなかったたが、嵐の実の母親が彼を残して自殺してしまった事をきっかけに嵐を石動家へと招き入れた。
表向きは正妻との間にできた子供ということにして。
正妻は嵐を育てる事を拒否し、兄弟達も嵐を妾の子と蔑んだ。そんな嵐を育て、退鬼師としての知識を与え、親として愛情を注いでくれたのが彼の祖母だった。
嫁入りしてきた祖母は石動家の血を引いていない。それどころか厄介な事情を抱え、一族から疎まれ、本邸に入る事すら許されずに離れにあった別邸に軟禁されていた。
そんな祖母の元に嵐は追いやられた。厄介者同士で丁度良かったのだろう。だが、結果的に嵐にとってそれが一番良い選択だった。
祖母の元で、実の子のようにたくさんの愛情を受けて育つ事が出来たのだから。
「あーちゃん、お友達は大切にしないと駄目よ」
それが祖母の口癖だった。
まるで彼女自身に言い聞かせるように彼女はいつもそれを口にしていた。
長い間一族から迫害され、嵐が来るまで離れの部屋にただ一人だった彼女は一体何を思いながら、その言葉を口にしていたのかは幼い嵐には分からなかった。
だから、嵐は祖母がそう言ったら、必ずこう返していたのだ。
「安心しろよ、ばーちゃん! ばーちゃんとの約束は絶対に守るから」
祖母は嵐の言葉に嬉しそうに笑う。しわくちゃの顔に更に皺を増やしながら笑う。その顔が嵐は大好きだった。
彼にとって祖母は絶対で、祖母と交わした数々の約束は何があっても守ると決めているのだ。例え、それが自分の命と引き替えにしても──。
「嵐!」
「嵐君!」
名前を呼ばれ、誰かに体を支えられる感覚に石動嵐は意識を覚醒させた。
ぼやける視界に映るのは焦った様子の優斗と心配そうに表情を歪ませた花音の姿。
二人が何故そんな顔をしているのか分からず、嵐は普段のようにふざけようとして、全身を襲う痛みに何も言えなくなった。そして、思い出す。自分が何故こんな状況に陥っているのかを。
支えてくれる二人に小さく謝罪して、上体を起こす。
意識を失う前と同じ場所に小柄な死神は先程と同じ酷薄な笑みを浮かべたまま、立っていた。
「あ、一瞬だけ気を失ってたみたいだけど、大丈夫? おにーさん」
言葉だけは嵐を心配しているようだが、その声からも、その表情からも、嵐への情など一切読みとれない。
予想以上だった。この場にいる誰よりも強いということは分かっていたが、想像以上に彼は強かった。
この場にいる全員で一斉に襲いかかっても勝機があるかどうか。そんな圧倒的な強さだった。
「んー、でも、あの程度で一瞬とはいえ気絶しちゃうなんて……見込み違いだったかな」
楽しげな笑みから一転。冷え切った眼差しを向けた空に嵐の体は動いていた。
自らの属性である風で最大限まで強化した身体能力で、一足飛びに空の間合いに飛び込む。そのまま刀を振るう。
タイミングも速さも完璧だった。避けられる筈がない。だが、確かにそこにいた筈の空の姿がない。
「おにーさん。隙ありすぎじゃない?」
背後から聞こえた声に振り向き様に一閃したところで、虚空を斬るだけで何の手応えもない。
「あああああああっ!」
嵐が外したと感じ、即座にその場を離れようとした瞬間、それを許さないとばかりに深々と鎖鎌が背中を貫いた。
痛みに呻き、膝から崩れ落ちる嵐。
「駄目だよ、もっと周囲に気をつけないとさ。そうやって後ろからぐっさりやられちゃうよ」
「……っ、はぁ、はっ」
「もう見ておれぬ。嵐よ、いま助けに……」
これ以上、仲間が傷付くのを見ている事が出来ず、助けに入ろうとした晴だが、彼女の足下に鎖鎌が飛んできた事で足を止めた。
当然そんな事をしたのは空だ。彼は鋭い視線で晴を睨みつけている。
「邪魔しないでよ。次に邪魔しようとしたら一番弱い奴から殺してくよ?」
空が視線を向けるのは優斗。そして、聡だ。
「っ、卑怯者め」
全身から殺気を迸らせ、視線だけで人を殺せそうな強い怒りの瞳を向ける晴。だが、空はそんな視線など意に介した様子はない。
「さっきも言ったけど逃げようとしても殺すから。おにーさん達はそこで見てなよ。大切な仲間が無様に負ける姿をさ」
このまま嵐が傷付いていくのを見ている事しか出来ないのか。そんな歯がゆさが彼等を襲う。だが、下手に動けば他の仲間を危険にさらしてしまう。
誰もが何か手はないかと考え、何も思い浮かばず、動くことが出来なかった。そんな時だ。
膝をついていた筈の嵐は空が晴に気をとられている一瞬の隙をついて、斬り込んだ。
「なっ!?」
当然、空は嵐の事も警戒していた。今までの嵐の動きなら、例え目を離した所で問題ないと確信していた。だが、隙をついて斬り込んできた嵐の速さは先程とは比べものにならない。
避けるのが間に合わず、切っ先が空の腕を掠めた。
舞い散る鮮血。その事に誰よりも驚いていたのは空自身だ。まさか格下相手に傷を付けられるなど想像すらしていなかったのだろう。
驚く空にそのまま追撃を加えようとした嵐だが、空は即座に冷静さを取り戻し、刀を避けると同時に無防備な嵐の顔を真横から蹴り倒した。
真横からの衝撃に嵐は地面へと倒れ込む。そして、空は嵐から距離を取った場所に降り立ち、ひどく楽しそうに笑った。
「腕を掠めただけとはいえ、まさか僕に一太刀浴びせるなんてね。正直驚いたよ。いやぁ、おにーさんの事を見くびってたかも。ごめんね」
口では謝罪しているが、やはりその声からは反省の色は全く見えない。
地面に倒れた嵐は、息も絶え絶えに全身を赤く染めながらもゆっくりと立ち上がる。
「うんうん、まだ立ち上がる元気はあるんだね。良かったよ。でもさ、この後にやることがあるから、おにーさんばかりに時間かけてられないんだよね。だからさ、おにーさん。もっと本気出してよ」
「……はぁ、はっ、充分本気、なんだけどな」
「あはは、そんな嘘言わなくていいよ。おにーさん、まだまだ手を隠してる。……でも、本気出したくないならそれでもいっか」
空の顔から無邪気な笑みが消える。それは良くない合図だ。
嫌な予感が全身を支配して、嵐は空が何かをする前に彼を止めようと、刀を振るって……。
「遅いよ」
「あああああああ!」
右手を深々と斬り付けられ、刀を持っていられず地面に落とす。痛みに絶叫する嵐に追い打ちを掛けるように足を斬り付けられ、立っている事すら出来ずに地面に倒れ込む。
「あーあ、落としたら駄目じゃん。大切な武器なんだから、ちゃんと持ってないとさ。ほら、返すね」
どこまでも酷薄な笑みのまま、空は嵐の日本刀を彼の掌に勢いよく突き立てた。
「うあああああああっ!」
嵐の絶叫が森に響き渡る。あまりにも惨いその所行に遂に我慢できなくなり、誰もが嵐を助ける為に駆けだした。
「来るなっ!」
全員を止めたのは他の誰でもない嵐の絶叫だ。
嵐はゆっくりと上体を起こすが、息も絶え絶えで、彼が動く度に地面に血が広がっていく。今にも倒れてしまいそうだ。
嵐は自らの掌に突き立てられた刀の柄に左手を添える。その場にいた誰もがまさかと考えた。
目を閉じ、何度か息を整えた後、彼は歯を食いしばり、一気に刀を引き抜いた。
その光景に誰もが息を呑む。
「確かに、返して……もらった」
「……おにーさん、頭おかしいんじゃないの?」
流石の空も嵐の行動は信じられなかったらしく、その顔に笑みはない。
「……ごめんな、ばーちゃん。人を傷付けたら駄目って約束守れそうにないや」
「は?」
小さく呟かれた言葉は、すぐ近くにいた空ですらまともに聞き取る事は出来なかった。
「けど、友達を守るって約束を守る為だから、仕方ない……よな?」
「ちょっとさっきから何をぶつぶつ言ってる……っ!?」
瞬間、空は嵐から離れるように後ろに跳んだ。
彼の本能が危険を感じ、体が勝手に動いていた。
空自身も何故自分が逃げるような真似をしたのかが分からない。だが、彼がその答えを知るより早く、突然背後に現れた嵐の一閃。
避けるのは間に合わないと判断して、鎖鎌で受け止める。しかし、小柄な空は嵐の力を受け止めきれず、鎖鎌が吹き飛ばされる。
「しまっ……!」
嵐の剣戟を防ぐ手段を失い、空は即座に嵐から距離を取ろうと跳んだ。ただ後ろに跳ぶのではない。嵐を飛び越えるように前方に跳んだのだ。
「……え?」
驚く声は空のもの。嵐の上空を飛び越えようとしていた空の無防備な腹部に白銀が叩き込まれた。
予期せぬ衝撃をまともにくらい、空は地面へと落下した。痛みに表情を歪めた空が立ち上がるより早く、嵐の持つ刀の切っ先が空の首に押し当てられる。
空を見つめる緑の双眸は、ただただ無機質なものだった。
「嵐! 止めろ!」
緊迫とした空気の中で声を上げたのは優斗だ。
彼は嵐の無機質な瞳に空と似た空気を感じ、思わず声を上げていた。
嵐は動かない。声を上げる事もない。無機質な瞳は空から外れる事なく、じっと彼を見据えていた。
嵐の雰囲気があまりにも普段と異なっている。あそこにいるのは本当に嵐なのか疑いたくなるほどだ。
首に刀を押し当てられている空は、地面に寝ころんだまま、嵐を見つめている。やがて、口を開いたのは空の方だ。
「……なんで、とどめを刺さないの?」
静かな声で空はそう尋ねる。しかし、嵐は何も答えない。
「さっきだって、僕のお腹に打ち込んだのは刀の峰だった。刃の方を向けていれば確実に僕に致命傷を与えられたでしょ? なんでそうしなかったの?」
やはり嵐は何も答えない。だが、彼は空の首に押し当てていた切っ先を引き、刀身を鞘に納める。
嵐は目を閉じて、静かに息を吐き出す。そして、再び目を開けた時には先程までの冷たく無機質な雰囲気など完全に霧散していた。
「……なんで、とどめを刺さなかったかって? そんなの決まってるだろ。オレは退鬼師であって、人殺しじゃないからな!」
ニッと笑って見せた嵐の笑顔は何時もと同じで、優斗達は安堵の息をこぼした。
一方で嵐の言葉に空は一瞬だけ目を見張り、それから嘲りの笑みを浮かべる。
「綺麗事だね。偽善者の仲間もやっぱり偽善者か。退鬼師も人殺しも変わらないって言うのにさ」
「どういう意味だ?」
「ほほっ、本気を出していなかったとはいえ、小童が負けるとは思いも寄らなかったぞ。しかし、天狗気味の小童には良い薬になったであろう」
不意に響いたのはこの場にいる誰のものでもない第三者の声。
「誰!?」
謎の人物の声に反応して、警戒しながら周囲を見渡した彼等が目にしたのは、いつからそこにいたのか全く分からない程、気配なく優斗と花音の後ろに立っていた少女の姿。
いや、この目で少女を認識しても彼女の気配というものが全く感じられない。完全に周囲の気配と同化していた。
肩まで伸びた青空のように透き通った空色の髪をツーサイドアップにした小柄な、小動物を彷彿とさせる少女。彼女は、髪と同じ空色の目で静かに状況を観察していた。
まるで幽霊のようだ。誰もがそう感じて息を呑む。
少女は周囲の驚きに動じた様子なく、手にしているジャムパンをもぐもぐと食べている。その様子から先程の台詞は本当に少女が言ったものかと考えてしまう。先程聞こえてきた口調と眼前の少女の容貌があまりにも不釣り合いだったからだ。
「き、君は……」
「ふむ、名乗るほどのものではない。が、名を聞かれたのならば名乗らぬのも失礼というものか。よかろう、吾輩は水無月珠洲と申す。そこの小童と同じちーむ……所謂『ちーむめいと』というものだ」
食べていたジャムパンを租借し終えた後にキメ顔でそう名乗った珠洲だが、その頬にジャムが付いていなければもう少し緊張感というものがあっただろう。
「口にジャム付いてるぞ」
「む? これはかたじけない。失礼をした」
豪快に自らの制服で口元を拭う珠洲。袖にイチゴジャムがついてしまったが、珠洲はそれを気にした様子なく再びジャムパンにかじり付く。
何故だろうか。愛らしい容姿とは裏腹に口を開けば何とも残念なこの感じは。
彼女の独特な空気に気が抜けてしまう。しかし、彼女がこのタイミングで現れたというのは、どうしても嫌な考えが過ぎってしまう。
「き、君も俺達の事を殺しにきたのか?」
「む、可笑しな事を言うな少年。何故吾輩がそのような事をせねばならぬのだ? 同じ『ちーむめいと』とはいえ、その小童に肩入れするつもりは毛頭ないぞ。その行いは彼奴の独断であろう」
「え……っと、つまり?」
「お主等と敵対する気はないという事じゃ。吾輩は只の傍観者故。気にするでない」
その言葉は優斗達だけに向けられたものではない。珠洲が現れてからは彼女から一回も目を離さない空に向けられたものでもある。
「そっちにその気がなくても、こっちはあんたも殺る気だったんだけど?」
「ふむ、中々に面白い冗談だな小童。まあ、そのボロボロの体で出来るものなら、やってみると良い」
一瞬だけ彼女が見せた威圧感。
その場にいた誰もが彼女から距離を取り、警戒の色を見せた。しかし、珠洲は先程の威圧感は何かの見間違いかと思える程、既に彼女の気配は静かで周囲と完全に同化していた。
背中に冷や汗が流れるのを感じながら、優斗は珠洲を見つめる。彼女は四方から向けられる視線を気にする事なく、懐から新しいパンを取り出し、その袋を破り、焼きそばパンを頬張った。
頬一杯に詰め込むその姿は、リスを彷彿とさせる。やはり、見た目と言動のギャップがどこまでも激しい子だった。
皆が呆気に取られていると珠洲の背後で、彼女を警戒していた嵐が何の前触れもなく倒れた。
「嵐!?」
地面に倒れてしまった嵐の元に焦って駆け寄る優斗達。そして、間近で見た嵐の姿に息を呑んだ。
体中のあちこちにつけられた傷から、止まることなく流れ続ける鮮血が地面を染める。呼吸も小さく、意識も完全にないようだった。
よくこんな状態で戦えたものだ。いや、そもそも利き手を貫かれて、よく刀を振るえたものだ。生きているのが不思議なくらい、嵐の体は傷付いていた。
「と、とにかくすぐ病院へ」
「我が運ぼう」
「その前に止血をしないと」
「とりあえず、傷口を凍らせますか?」
「ええっと、それって大丈夫なのかな?」
最早彼等の目には、地面に横たわっている空もただ傍観しているだけの珠洲の姿も映っていなかった。
「ふむ」
食していた焼きそばパンを食べ終えた珠洲は小さく頷き、自然な動作で嵐に近寄る。あまりにも自然すぎる動作に誰もが反応に遅れてしまう。
全員が反応するより早く、嵐の元にたどり着いた珠洲は彼の上で手を翳す。次の瞬間、嵐の全身が水の膜によって包まれた。
シャボン玉のように空中に浮いた球状の水の膜。
「なっ!?」
「貴様、何をした?」
「そう逸るものではない。お主等は些か視野が狭いの」
突然の事に戦闘態勢をとった晴達だが、肝心の珠洲は新たに取り出したおにぎりを頬張る。やはり緊張感がない。
「ほれ、小童も病院に行くと良い。未だ立ち上がれぬ所を見ると、骨が折れているか、皹でも入っておるのではないか?」
「余計なお世話だよ。あんたの施しは受けな……っ!」
言葉の途中で空も水の膜に包み込まれる。半透明な水の膜の中で、空は何か文句を言っているが、その声は聞こえない。
珠洲はおにぎりを租借しながら、軽く指を鳴らす。その瞬間、嵐と空を包んだ水の球体は忽然と姿を消した。
「何をしたんですか? 答えによっては、このまま撃ちますよ」
「おい、幸太郎!?」
嵐達が消えた事に驚く面々の中、幸太郎は珠洲の背後から彼女の頭に銃口を押しつけていた。
銃口を押しつけられているというのに珠洲は相変わらずおにぎりを食べたまま。そもそも、そのおにぎりも三個目だ。
「……若いな少年。なに心配するでない。彼奴等は森の入口に運ばせた。あの若造が病院に連れて行くであろう」
「な、なら、あの水の膜は何だ?」
「あの中は吾輩の領域だ。我輩は癒しの効果を宿した水を生成する事ができるからの。故に彼奴等の体を保護しながら病院まで連れていけるという訳だ。特にあの少年はああでもしなければ、病院に行く前にお陀仏だったであろう」
「つ、つまり、水無月さんは嵐くんを助けてくれたって事でいいのかな?」
「好きに解釈すると良い。そもそもの原因は、うちの小童の暴走によるものである。礼は不要だ」
やるべき事は全て済ましたとでも言いたげに背を向けて歩き出す珠洲。
「あ、ありがとう。嵐を助けてくれて」
そんな珠洲に声を掛けたのは優斗だった。
珠洲はピタリと足を止めて、肩越しに振り返る。
「礼は不要と言った筈だが?」
「そうだけど、俺が言いたかったんだ」
幾ら嵐を助けたとはいえ、それは自らのチームメイトの不始末を片付けただけ。珠洲は優斗にとって敵対すべき相手の筈なのに全く敵意のない笑顔で彼女にお礼を言ったのだ。
打算でもなんでもない彼自身の心からのお礼。珠洲はその笑顔にどこか眩しそうに目を細め、小さく笑う。
「……お主は変わらぬな」
「え?」
「気を付ける事だ。今回は小童が慢心していたから運良く勝ちを拾えたものの、彼奴は本来得意とする属性を使わなかった。本気で来られたら、お主等は全員殺されていたであろう。その事をゆめ忘れるな」
最後に忠告を口にして、彼女は今度こそ振り返らずに森の中に消えていった。
珠洲の姿が完全に見えなくなると誰もが知らず知らず息を吐き出す。そこで、ある違和感に気付いた。
彼女の気配が周囲に同化していたのではない。いつの間にか優斗達が彼女の領域に支配されていたのだという事に。
その事実に気付いた彼等は、小動物を彷彿とさせる小柄な少女の異常に肝を冷やすのだった。
◇◆
「何故アイツ等を助けた?」
森の中を自然な足取りで歩いていた珠洲は、木に寄りかかっていた少女に声を掛けられて、動きを止めた。
そこいたのは長い黒髪をポニーテールにした少女。白い肌というよりは青白い肌に痩せ細った手足。あまり健康的とはいえない……いや、不健康という言葉が当てはまる少女は、その不健康さを感じさせないほど強い憎しみを込めた漆黒の瞳で珠洲を睨みつけている。
「ふむ、其方も見ておったのか」
「白々しい。どうせ気付いていたんでしょ」
「ほっほっ、それは買い被りというものよ。吾輩は有能ではあるが全能ではないからの。それよりも其方、顔色が悪いの。どうせまた何も食べておらぬのだろう。ほれ、パンをやろう」
懐からまだ封を開けていないパンを取り出して、差し出してきた珠洲を睨みつけるだけで、少女は受け取ろうとしない。
「いらない」
「ふむ、ならば、握り飯もあるぞ?」
「いらない」
「ふむ、ならば、菓子もあるぞ?」
「いらない」
「……其方とは分かり合えそうにないの。吾輩、食べるものがないと死んでしまうからの」
差し出していたパンの袋を開けて、自らそれを食す珠洲。
少女はそんな彼女の姿を苛立った様子で睨みつける。
「質問に答えろ。何故アイツ等を助けた? 何の得があって動いた?」
「そんなものはありはせぬよ。吾輩は『ちーむめいと』の不始末を片付けただけの事。そも、其方が他人を気にかけるなど珍しい事もあるものよな。……のう、夜槻綾乃。復讐という闇に囚われた哀れな少女よ」
一瞬にして、綾乃と呼ばれた少女から殺気が膨れ上がる。
そんな彼女に向かって、一体の鬼が上空からの突然の奇襲。しかし、鬼の姿が見えていた珠洲は声を上げて危険を知らせる事などしない。
綾乃は鬼を見る事なく、珠洲だけを睨みつけている。そして、鬼の鋭い爪が彼女の頭に触れる直前、鬼の体が闇に包まれた。
突然黒い固まりに包まれ、身動きがとれなくなった鬼は拘束から逃れようともがくが、そのまま闇は広がっていく。やがて、鬼は完全に闇に包まれ、そして闇は地面の中へと消えていった。
「相も変わらず恐ろしいのう。これ以上、其方を怒らせて吾輩も闇に堕とされたくないからのう。疾く退散させてもらうぞ」
そんな言葉と共に逃げようとした珠洲を綾乃は愛用の薙刀で一閃する。だが、確かに薙ぎ払ったと思った珠洲の体は一瞬にして水に変わってしまう。
「容易く吾輩を殺せると思うなよ、小娘。だが、この場所では些か分が悪い。宣言通り、退かせてもらうぞ」
「……逃がしたか」
既に珠洲の気配を感じなくなった森の中、綾乃は忌々しげに舌打ちをしたのだった。
こうして、波乱に満ちた合同訓練は終わりを告げた。
結果は『5-45』と圧倒的な差をつけて、壱伽達のチームの勝利だった。




