#8-2 鬼との遭遇
幸太郎に案内されてやってきた森の奥。
そこは今までの森林とは違い、開けた場所だった。
遮る物がないおかげで月明かりが優斗達を照らし出す。
「この辺りです」
「はー、なんか今までの所と感じが違うな」
「……ここ、訓練場みたい」
「なるほど。我らはまだだが、森で行う訓練もあると聞いた。ここがそうなのか」
晴の言葉に花音は頷く。
そんな会話を聞きながら優斗も周囲を見渡しながら、幸太郎に視線を移した。
「けど、こんな拓けた場所にキーホルダーが落ちてたらすぐに見つかるよな?」
「ええ、ですからここにはないと判断しました」
「ま、とりあえず探してみようぜ」
嵐の言葉に同意するように頷き、手分けして探し始める。しかし、やはりというべきかキーホルダーらしきものは見つからない。
どうしたものかと優斗が嘆息しかけた時だ。
晴の背におぶられて気持ちよさそうに眠っていた聡が勢いよく顔を上げたのは――。
「聡よ、どうかしたのか?」
聡の行動に真っ先に気付いたのは彼を背負っている晴だ。
彼女は不思議そうに肩越しに振り返る。そして、目撃したのは顔を真っ青にさせて震えている聡の姿。
聡は何かに怯えるように晴の背中に縋りついている。
「……は、晴。何か来るよ」
「なんだと?」
「んー? サトルン、それどういう意味だ?」
「わ、分かんない。分かんないけど、嫌な予感がする……」
聡の尋常ではない怯えように他の面々も訝しげに聡に視線を移す。唯一、晴だけが警戒したように周囲に鋭い視線を向けた。
その瞬間、頭上に影が差した。
「っ、避けて!」
焦った花音の声にその場にいた全員が反射的にその場を離れる。もっとも、優斗はとっさに動くことができず、花音に引っ張られる形となったのだが。
優斗達が離れると同時に先程まで優斗達が立っていたその場所に勢いよく何かが落下してきた。
その『何か』を目にするなり、全員が目を見張る。
ゆうに二メートルは越えていそうな巨体。黒い剛毛に覆われた太い手足から伸びるのは鋭利な爪。大きく開いた口から見える鋭い牙。爛々と輝く赤い目は獲物を見つけた猛獣のように歓喜に満ちていた。
その姿を知っている。
その異形の名を知っている。
その化け物の恐ろしさを知っている。
「……お、鬼?」
茫然としたように呟いた優斗。
彼等の眼前に落ちてきた『何か』は、つい一週間ほど前の試験でも見た鬼だった。試験で見た鬼よりも禍々しく、凶悪な雰囲気を放っていたが、それでも鬼だという事には変わりない。
「な、なんで、学園に鬼がいるんだ!?」
「……試験用の鬼が脱走した?」
「チッ、面倒ですね。鬼なんかに構っている暇はないというのに」
「聡よ、さがっていろ。我が片付けよう」
「は、晴! 駄目だよ! あの鬼、何か違う」
戦闘態勢に入ろうとした晴を慌てた様子で引き留める聡。その顔は蒼白で、いまにも倒れてしまいそうだ。
「けど、戦わないわけにはいかないみたい」
「だな。えらく今冬としてるぜ」
「今冬? 興奮の間違いではないですか?」
「お、おい!」
聡の忠告を無視して戦闘態勢に入った花音達を止めるように優斗が声を上げたが、彼女達は既に武器を手にしていた。
真っ先に鬼に突っ込んでいったのは嵐だ。
彼は自らの属性である風を纏い、その風を利用して弾丸のような早さで鬼の懐に飛び込むと同時に刀を振るう。しかし、鬼は風属性で強化されている筈の嵐よりも俊敏に動き、あっさりとその太刀を避ける。
標的を失い無防備になった嵐に鬼の鋭い爪が振り下ろされる。
彼がそれを避けるより早く、何かに気付いたように鬼が嵐から距離を取った。その瞬間、先程まで鬼が立っていた場所に花音の大剣が空を切る。
鬼は花音達から離れた場所に軽やかに降り立ち、真正面から花音達と睨み合う。
息をつく間もないほど、一瞬の内に起こった出来事だった。
優斗は何も出来ず、ただ呆然とその光景を見ていた。
花音達に加勢しなくてはと思うけれど、体が動かない。そもそも、いま優斗が加勢したところで事態が好転するとは到底思えない。何故なら、優斗に出来るのは光を放つ事だけで、鬼に目くらましが通じるとは思えないからだ。
戦う為の力を優斗は持っていない。
それでも、優斗だってもう何度も鬼を見てきた。だから、分かる。
眼前の鬼が今まで優斗が見てきたどの鬼よりも危険だという事を──。
「おいおい、ひののん。これはちょーっとやばくないか?」
「ちょっとじゃなくて、かなり。ここは隙を見つけて撤退した方がいい」
「ならば、我も手を貸そう」
「は、晴……」
「大丈夫だ。お前はそこで見ていろ」
背負っていた聡を優しく降ろし、不安そうに引き留めた彼の頭を優しく撫でる。そして、花音達の元に歩いていき、鬼と対峙した晴は先程まで聡の頭を撫でていた人と同一人物かと疑いたくなるくらい、殺気を全身に迸らせていた。
鬼と睨み合う三人。まさに一触即発な雰囲気だ。
どちらかが一歩でも動けば、この緊迫は壊れ、再び先程の戦闘に突入するだろう。
戦闘員ではない優斗は同じく非戦闘員の聡と共に固唾を呑んで見守った。幸太郎だけは興味なさそうに眺めているだけだったが。
一触即発な空気がどれほど続いたのかは分からない。短かった気もするし、長かった気もする。正確な時間はともかく大事なのは、ソレは呆気なく壊れたということだ。
「ふんっ!」
全身に炎を揺らめかせ、地面を抉るほどの殺傷力を持つ拳が振るわれる。しかし、鬼は機敏な動きでそれを避ける。だが、鬼が避けた先には既に刃を振るっている嵐がいた。
鬼は鋭利な爪でその刃を受け止めると嵐の体を踏み台にして、大きく跳躍する。
「おわっ!」
踏み台にされた嵐は勢いを殺せず、地面に倒れたが、鬼がその体に追い打ちをかけることはなかった。何故なら、それどころではなかったから。
跳躍した鬼に向かって鬼より高く跳躍していた花音が大剣を振るったのだ。
空中では避けられないであろうと思われた一撃は紙一重で避けられ、逆に花音は鬼の巨大な腕によって地面に叩き落とされてしまう。
「花音!」
思わず声を上げてしまったのが悪かったのか。それとも手近な所にいたのが悪かったのか。はたまた非戦闘員だと鬼が理解していたのか。本当の理由は分からないが、空中にいた鬼は真っ直ぐ優斗を見据えて急降下してきた。
鋭く伸びた鋭利な爪を煌めかせ、巨大な口から生える鋭い牙を見せびらかせ、爛々と輝く目は次なる獲物を捉えて、鬼は降ってくる。
「優斗君!」
「ツッキー!」
仲間達に名を呼ばれても優斗は動けなかった。ただ襲い来る脅威から目を離すことが出来ない。
爛々と輝く赤い瞳から目が離せない。
(……苦しい? 悲しい?)
逃げなければいけないと分かっているのに、何故か優斗は動けない。迫り来る脅威の元が……感情の読めない筈の赤い瞳が苦しみを訴えていた気がした。
「ゆ、優斗くん!」
「っ!」
間近から聞こえた声に優斗は我に返る。だが、もう遅い。鬼はもう眼前まで迫ってきていた。
避けられない。
優斗もそう確信して、せめてもの抵抗に腕で顔を隠す。しかし、聞こえてきたのは重量のあるものが何かにぶつかる音だった。
不思議に思って目を開けば、優斗を取り囲むように水の壁が出来ていた。
「……え?」
優斗が状況を理解できずに目を丸くさせていると、彼の周りを囲んでいた水の壁は徐々に勢いを無くして、消える。
「……う、うまくいったぁ」
へなへなと力を失ったように崩れ落ちる聡。そこで、優斗はある仮説を思いつく。
「も、もしかして、いまのって聡の?」
「う、うん。鬼が突撃する直前に水の障壁をつくったんだよ。一か八かだったけど、うまくいって良かった……あ、ゆ、優斗くんは大丈夫!? け、怪我とかない?」
「あ、ああ。大丈夫だ。ありがとう、聡のおかげで助かったよ」
「えへへ」
優斗を助けられた安心感か、それとも褒められて嬉しかったのか、聡は嬉しそうに表情を緩ませた。
「優斗君無事っ!?」
「ツッキー! 平気か!?」
「ああ、聡のおかげでな」
焦ったように駆け寄ってきた花音と嵐に優斗は笑顔で頷き、聡に視線を向ける。
視線の先の聡は晴に頭を撫でられており、満足そうに笑っていた。
嵐は優斗に倣うように聡に目を向けて、それから思い出しかのように目を輝かせた。
「そうだ! サトルン、あれすっげぇな! ツッキーの周りにいきなり水がブワーってなってさ!」
「た、たまたまうまくいっただけだよ」
「またまたー! そんなに喧嘩するなよ」
「謙遜だろ」
嵐の言葉に訂正をいれたところで、優斗は急激に周囲の気温が下がったのを感じて辺りを見渡す。すると、視界に飛び込んできたのは一目で怒っていると分かるほどの殺気を滲ませた幸太郎の姿。
「ゆ、雪野……?」
興味なさそうに傍観していた筈の幸太郎は、何故か青筋を立てて怒りに肩を震わせながら、ある一点を睨みつけていた。
優斗もその視線の先が気になり、視線を移すとそこにいたのは水の障壁によって弾き飛ばされた鬼の姿。
別段、変わった様子はない。ただ、弾き飛ばされた際、乱れた毛並みに何かが引っかかっているのが見えた。
目を凝らして黒い毛並みに引っかかった物の正体を確かめる。遠目の為、確信は持てないが月の光に小さく反射したソレはキーホルダーのように思えた。
まさかと思った優斗が幸太郎を見るのと、怒りに震えていた幸太郎が何かを構えるのは同時だった。
「汚らわしい鬼の分際で、マリリンに触るなぁああああああ!」
怒号と共に鬼に向かって放たれたのは一発の弾丸。
攻撃された事に気付いた鬼は即座に体勢を立て直し、弾を避けようとしたが一歩遅く放たれた弾丸が鬼の腕に命中した。
弾は鬼の腕に当たると同時に水が弾けたかと思えば、直後弾けた水が凍る。
あっという間に鬼の左腕が凍り付き、氷は物凄い速さで広がっていき数秒経たずに鬼は凍り付いてしまった。
その現象に優斗は目を見開く。いや、正確にはこの現象に驚いたのは優斗だけではない。花音達も優斗同様に驚いていた。
「な、なんだいまの!? なあなあ、サトルン! いまの何が起こったんだ!?」
「た、多分、幸太郎くんは水の弾を銃に込めて放ったんだろうけど……ぼ、ぼくも初めて見た。水を氷に変えられる人」
「長い歴史の中、水属性の性質を持った人間の中で稀に氷属性を発揮出来る退鬼師がいたって聞いた事がある。タロー君はその性質を持っているって事?」
「た、多分……」
聡自身もそんな事を出来る人間が本当にいると思っていなかったのか半信半疑といった様子で小さく頷く。
全員の視線が自然と幸太郎へと向かう。しかし、肝心の幸太郎は鬼が凍り付く直前、ちゃっかりと鬼から奪い返していたキーホルダーに頬擦りしている。
「ああ、マリリン! あんな汚らわしい鬼の元にいたなんて本当に可哀想な事をしました! でももう安心ですよ! もう二度と馬鹿烏に奪われるなんてことしませんから!」
一人でキーホルダーに話しかけている幸太郎に若干引きながら、優斗は気を取り直すように笑う。
「ま、まあ、良かったな。探し物が無事に見つかってさ」
「……ふん。結局、貴方達は騒がしいだけで何の役にも立ちませんでしたがね。……ですが、一応礼は言っておきましょう」
「『一人は皆の為に。皆は一人の為に』ってばあちゃんも言ってたからな! 礼は不良だぞタロー!」
「不良ではなく、不要でしょう。それから何度も言いますがタローって呼ばないでください。貴方がそう呼んでいるせいでどさくさに紛れて他の人まで呼んでるじゃないですか。迷惑です」
「はっはっはっ! 照れるなよタロー!」
馴れ馴れしく肩を組んだ嵐に幸太郎は心底不愉快そうに彼の手を払いのける。それでも嵐は気を悪くした様子なく楽しそうに笑っているのだから、彼は本当に大したものだと優斗は小さく感心した。
そんな彼等の後ろにいた氷漬けされた鬼の表面に小さなヒビが入った事に一番近くにいたけれど鬼に背中を向けている嵐と幸太郎は気付かない。
彼等から少し離れた位置に立っていた優斗達も気付かない。
聡は水を氷に変えられる幸太郎に感心していたし、晴も嬉しそうな聡に満足そうに笑っていた。
誰も異変には気付かない。
ただ一人、氷漬けにされていた鬼を興味深そうに観察していた花音以外は……。
「っ、後ろっ!」
異変に気付いた花音が声を上げるのと嵐達の背後にいた鬼の氷が砕けるのは同時だった。
花音の声に二人が弾かれたように振り返るが、その一瞬の隙は明らかに嵐達よりも格上の鬼にとっては致命的なものだ。
避けられない。
即座にそう悟ったのは白に戦闘に関しては天才的と評価された嵐だった。だからだろうか、彼は鬼の腕が完全に振り下ろされる直前、隣にいた幸太郎を突き飛ばした。
突然嵐に突き飛ばされた幸太郎は受け身もとれず、地面を転がる。それと同時に鬼の巨大な腕が嵐を襲った。
鬼の腕によって人形のように吹き飛ばされた嵐が地面に落下する。
「嵐!」
顔面を蒼白にさせ、優斗は嵐の元に駆け寄る。そして、彼の姿を目にするなり息を呑んだ。
地面に倒れ込んでいる嵐の背中に大きく切り裂かれた三本の傷跡。そこから夥しいほどの血が流れ、白い制服と地面を赤く染めていく。
「……あ、あら、し……」
声を掛けても嵐は反応しない。
その光景に優斗の脳裏にフラッシュバックするのは、三ヶ月前の出来事。
鬼の爪に貫かれた大河の姿。
「あ、ああ……あああ……」
自然と口から声がこぼれ落ちる。けれど、それが優斗自身が出そうと思って出していない事は明白だった。
優斗は目を見開いたまま、倒れている嵐を見つめている。
目の前の嵐と記憶の中の大河の姿が重なった。
月舘優斗は勘違いしていた。
この学園に入学して、鬼や退鬼師の事を知って、武器は出せなくとも属性は扱えるようになったから、少しは変われているのだと思っていた。
何も知らなかった、何も出来なかったあの頃とは違うのだと勘違いしていた。けれど、そんな優斗の勘違いも目の前で粉々に打ち砕かれる。
あの日と同じように友達が死にかけているというのに優斗はあの日と同じで何も出来ない。
今すぐ嵐に駆け寄りたい筈なのに鬼と戦っている花音達のように優斗は戦えない。
このチーム一番の戦力だった嵐が抜けた事で戦力が激減してしまった花音達をサポートしている聡のように支援する事も出来ない。
何も出来ない。
何も守れない。
ただの役立たずだった。
視界が歪むのを感じる。けれど、その理由を確かめる事なく月舘優斗は慟哭した。
「ああああああああああっ!」
瞬間、優斗の体から爆発的な光が広がる。
世界そのものを覆ってしまうのではないかと思えるほどの眩い光が花音達の視界を奪う。
「優斗君、駄目っ!」
焦ったような花音の声は優斗の慟哭でかき消され、彼の耳には届かない。
目を開けていることすら出来ず、視界を奪われた花音は記憶と気配を辿りに優斗の元へ向かおうとするがそれは自殺行為以外の何でもない。
すぐ近くには鬼がいるのだ。その鬼が光に目を眩まされていなかったら、そもそも目が見えなくとも問題がなかったら無防備な花音などひとたまりもない。それでも、花音は優斗の元に向かおうとする。
状況は最悪だった。
いつ誰が鬼に襲われてもおかしくない状況。
そんな状況を壊したのは、この場の誰のものでもない妖艶な声。
「はぁい、そこまで」
桃色の髪の少女が優斗の背後に降り立つと同時に彼の目に布で塞ぐ。
視界を奪われた優斗が暴れようとするが、少女の力は強いらしく、ろくに抵抗も出来なかった。
「はいはい、落ち着いて。大丈夫よ、まだ貴方のお友達は生きてるわ」
耳元で囁くように言われた言葉に抵抗しようとしていた優斗の動きが止まる。
その事を確認して少女は満足そうに笑う。
「そう。大丈夫だから、力を抜いて。はい、深呼吸深呼吸」
駄々をこねる子供をあやすように優しい声で告げられる言葉。その言葉に優斗は自らの気持ちも落ち着いていくのを感じた。




