其の三
黒石家にはすでに多くの親類が集まっていた。
朋子伯母さんと長男の隆樹とその妻と子供、それから広二伯父さんの一家、祖母の姪や甥――老若男女大勢の人間が広い屋敷に溢れていて、私は落ち着かなかった。
誰もが私を見ると、久し振りだね元気だった? と声を掛けてくれる。その態度は礼儀正しく、身内にしては遠慮深かった。十年も離れていたのだから無理もないが、一人だけお客様になったようで、自業自得ながら薄い疎外感を覚えた。
もしこのまま通夜、葬儀ということになれば、遠方の親戚が帰って来てさらに人が増えるだろう。私はすでに東京に帰りたくなってきた。
台所を仕切っていた朋子伯母さんは、全員分の夕食の支度に目途がつくと、後を広二伯父さんの妻の小百合伯母さんに任せて、自分の軽自動車で病院に向かった。入れ替わりで母が戻って来られるかどうかは、祖母の容体によると思う。
「何か……お手伝いしましょうか?」
「いいのいいの、瑞希ちゃんは座っててちょうだい。後で泊る部屋を用意するから、先にご飯食べちゃって。ごめんねえ、バタバタで」
小百合伯母さんは汗を拭き拭き、私を気遣ってくれた。台所では従兄の奥さんたちが炊事を手伝っている。人手は足りているようだった。
座敷に行くと襖が取り払われて、大きな座卓が二台設置されていた。おむすびや天ぷらや煮物の大皿が並べられていて、時間のある人から適当に食べているらしい。
隆樹と広二伯父さんの息子の広秋がノンアルコールビールをちびちびやっている。いつ病院から連絡がくるか分からないので、お酒は控えているのだろう。
「瑞希も飲む?」
勧められたが、私は首を振った。
「東京はどうだ? 仕事は忙しいのか?」
父に訊かれたのと同じことを訊かれ、私は苦笑した。従兄とはいってもすでに妻子持ちの三十代である。十年間のブランクもあり、すぐには打ち解けた会話はできなかった。
私は彼らに当たり障りのない近況報告をし、さっさと食事を済ませた。あの不良娘がずいぶん落ち着いたな――そんな興味深げな視線をひしひしと感じて、居心地が悪いことこの上ない。
「祥子の奴もさ、東京の大学受けるんだと。来年は受験だってのに余裕かまして遊んでばかりだから、まあ合格するかどうかは分かんねえけど、もし受かったらまた面倒見てやってくれよ」
隆樹は冗談めかして頼んだ。その祥子ちゃん今夜は彼氏とデートみたいよ、とは結局口に出せなかった。
ふと視線を上げると、座敷の付け鴨居の上にはモノクロの写真がいくつも並んでいる。曾祖父と曾祖母と、早逝した祖母の兄たち、そして祖父の遺影だった。子供時分にはこれが怖かったが、祖母は怯える私を窘めたものだ。
「この人たちはね、みんな瑞希ちゃんのご先祖様なんだよ。この家を守ってくれているの」
守っているというより、取り憑いているように思えた。死んだ人たちに囲まれてずっと独り身で、祖母は幸せだったのだろうか。生活には不自由しなかったかもしれないが、何もかも捨てて思いのままに生きたいと願ったことはなかったのだろうか。
自分の道を見誤らずに進め――私に託したあの言葉は、祖母自身の願望だったのかもしれない。
雨が上がったので、庭に出てみた。
飛び石の上を滑らないように歩き、土塀の端まで行って、バッグから煙草を取り出した。別に家の中で吸っても咎められないだろうが、何となく一人になりたかった。
紫陽花がこんもりと咲き揃っている。紫やピンクの宝石のような花の色は、宵闇の中で薄い青に滲んでいた。葉っぱの上の雨粒だけが、母屋から届くわずかな光を受けて煌めいていた。
携帯灰皿を庭石の上に置いて、ゆっくりとメンソールの香りを楽しみつつ、片手に持ったスマホを見る。琢己に送ったメールはようやく既読になっていたが、返信はなかった。期待などしていなかったはずなのに、軽く落胆する。
ちょっと迷った後、
「店には明日連絡するけど、二三日忌引きになるかも」
と送っておいた。
もう修復不可能なんだろうな――暗闇に漂う煙を眺めながら、ぼんやりと実感した。
琢己は同じ店で働く同僚で、五年付き合ってきた恋人である。私の同期入社なのに、彼の技術は高く接客スキルも抜群で、すでにトップスタイリストの肩書を持っていた。私はそんな彼を尊敬し、早く追いつきたいと憧れていた。
「いつか独立して、一緒に店をやろうな」
私たちはそんな約束をして、どんな店にしたいかどこに出店するか、何の当てもないのに時間を忘れて語り合った。
楽しくて幸せで、描いた未来の実現を願いながら、一方でずっとこのままでもいいと思ったりもした。
その関係が急に変わってしまったのは、二号店のオープンが決まった今年の春のことだ。
当然のことながら、新店のチーフには琢己が選ばれるとみんな思っていた。だが、オーナーが指名したのはなぜかこの私だったのである。
「新店の立地は高級住宅街の近くで、既存店より高めの年齢層をターゲットにしてるんだ。率直に言って、三十代以上の顧客には瑞希ちゃんの方が評判がいい」
オーナーはきっぱりと言い切った。
「もう十分にスキルは身に着いてる。君ならやれるよ。自信を持って」
寄せられた期待に、誇らしさよりも不安が先に立った。そして琢己の態度がさらに私を萎縮させた。
何でおまえなんだよ。どうやって取り入ったんだよ――落胆から憤りに変移した彼の感情は、雇用主ではなく私に向けられた。一緒に独立するって約束したのに裏切るのか。
理不尽な言葉で叱責されて、私は思い知った。もちろん私自身の役者不足は分かっている。けれど琢己の鬱憤の核心はそこではない。彼はつまり、恋人の私が自分より評価されるのが気に食わないのだ。
くだらない嫉妬だった。もし私に実力と自信があれば、僻まないでと言い捨てられただろう。しかし私は突然開けた未来に動揺し、立ち竦み――逃げ出したくなっている。
「ああ、ここにいたんだ」
声を掛けられて我に返る。目を上げると、祥子がやって来ていた。彼女はさっきと同じワンピース姿で、その柄は本物の紫陽花よりも鮮やかだった。
「まだ出かけなくていいの? お兄ちゃんに見つかっちゃうよ」
「もう少し平気。瑞希ちゃんにお願いがあって来たんだけど……お邪魔だった?」
私のスマホに目をやって、サンダルの爪先で庭石をつつく。私はスマホをバッグに片付け、ついでに煙草を灰皿で揉み消した。
「メール見てただけ」
「直接電話しなくていいの?」
「いいの」
素っ気ない返事に何を感じたのか、祥子は目を逸らして紫陽花の葉っぱを揺らした。水滴がポタポタと地面に落ちて、いくつかは私の足元にも飛んだ。
「瑞希ちゃん、さっき車の中で話してたことだけど……こっち帰って来るって」
涼やかな瞳が私を見上げる。全部事情を知られているように思えて、私は気を飲まれた。
「せっかく夢を叶えたのに、諦めるなんて勿体ないよ。認めてくれる人がいるんでしょ? だったら頑張ってみたら?」
「買い被られてるだけよ。私なんか……」
「何だか自分で自分に重りをつけてるみたい。そんなん、しょうもない彼氏とセットでほっぽり出して前へ進みなよ」
清々しいほど率直で辛辣な物言いだった。生意気なと笑うのは簡単だったが、私はなぜか感動してしまった。
十七歳の頃、自分はこんなにしっかりしていただろうか。まるでずっと年上の先輩から発破をかけられているみたいだ。
祥子は硬い表情をふっと崩した。大きめの前歯が覗き、年相応の幼さが戻ってくる。
雨露で湿った掌が、私の手を取った。
「髪を結ってほしいんだ、瑞希ちゃん。これからデートだから」
祥子は私の手を引っ張って、裏口から母屋に入った。
人の気配のする座敷や台所を迂回して、いちばん西側にある和室に忍び込む。八畳ほどの広さのそこには、和箪笥や文机が整然と配置されていた。色褪せた座布団が隅に重ねてある。
「ここって……」
「カヲルばあちゃんの部屋」
祥子はカーテンをぴったりとしめてから、電燈の紐を引っ張った。古めかしいペンダントライトは、私が子供の頃からあった気がする。
「ここなら今、誰も来ないよ」
戸惑う私の前で、祥子は鏡台の前に正座した。これもまた見覚えのあるもので、床に置いて使うタイプの和風の鏡台だ。本体は漆塗り、鏡にはちりめんの布がかけられている。
そういえば昔、私もこの鏡台の前に座って、祖母に髪を結ってもらった。祖母の手付きは母よりも優しく、それでいて私の癖っ毛をきっちりと纏めてくれた。今私が同じ場所で祥子の髪を結うなんて、何だか不思議な気分だった。
私は懐かしさを抑えられず、鏡の覆いを取った。古惚けた鏡はさらに記憶を呼び戻す。
あたしもやりたいと言って、祖母の髪を弄って遊んだっけ。祖母の頭はもうだいぶ白髪になっていたけれど、豊かで綺麗だった。不格好な三つ編みを作って玩具のリボンを飾ると、祖母は褒めてくれた。
「上手だねえ、瑞希ちゃん。将来は美容師さんだね」
そうか――すっかり忘れていたけれど、あの時の嬉しい気持ちはずっと私の中で眠っていたのだ。だから進路を決める時、ごく自然に今の道を選んだのかもしれない。
瑞希に髪をセットしてもらいたいと口癖みたいに言ってた――病室での母の言葉を思い出して、胸に後悔が込み上げた。
もっと早く帰って来て、元気な祖母の髪を梳かしてあげればよかった。私は立派にやっていると、見せてあげればよかった。
「どうしたの?」
祥子の声で我に返って、私は目元を拭った。鼻水を啜り上げるのを誤魔化すために、バッグの中をごそごそと探る。ブラシやピンやゴムはいつもポーチに入れていた。
「さっすが美容師さん。用意いいね」
「ワックスしかないからあんまり凝ったことはできないけど、どうしたい? 祥子ちゃん顔小さいからハーフアップも可愛いと思うよ」
「うなじを見せたいの。大人っぽく」
鏡の中で、祥子は笑った。私は任せてと請け合って、仕事に取りかかった。