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其の二

 黒石祥子くろいししょうこ隆一たかいち伯父さんの末娘――つまり私の従妹である。七人いる母方の従兄妹の中では最年少で、私より十一歳年下だった。

 私が最後に黒石の本家を訪れた時は、まだ小学校に上がる前だったと思う。他の従兄が当時もう高校生以上の男ばかりだったせいか、ずいぶん私に懐いてくれていた。


「どうしたの? 伯父……お父さんと一緒にお見舞い?」


 私が訊くと、祥子は肯いた。


瑞希みずきちゃんが先に帰るって聞いて探してたの。あたしも一緒に乗せて帰ってくれないかなあ」

「うん、いいよ。祥子ちゃん大きくなったね……誰だか分かんなかったわ」


 久しぶりに会う親戚のおばちゃんそのもののセリフを口にしてしまう。祥子は照れ臭そうに笑った。


「瑞希ちゃんはすっごく綺麗になった! 東京で美容師さんしてるんでしょ? その髪色かっこいいね」


 年頃の女の子らしく、私の明るい茶色に染めた髪を羨ましげに眺めている。そういう祥子は鎖骨までかかる真っ黒のストレートヘアで、顔に化粧っ気もなかった。まあ、普通の真面目な女子高生はそんなものかもしれない。


「今日学校は? お休み?」

「うん、もともとテスト期間で午前中だけだったし」

「余裕だねえ」


 私たちは病棟を後にして、駐車場へ出た。雨は激しくなっている。アスファルト舗装を雨粒が激しく叩きつけていた。

 降り出す前にやって来たのか祥子は傘を持っておらず、私たちは小さい傘に身を寄せ合って車までダッシュしなければならなかった。

 二人とも結構濡れてしまったが、祥子は楽しそうに笑いながら助手席に乗り込んだ。


「あはは、ああ冷たかった!」

「寒くない? 上、何か着る?」

「大丈夫。ほんとに瑞希ちゃんに会えてよかった。あのまま帰れなくなっちゃうかもって思ってた!」


 祖母が危篤だというのに彼女にあまり悲愴感はなく、のびのびとしていた。それとも無理をして明るく振る舞っているのか。

 祥子の着ている半袖のワンピースの柄は、青い紫陽花あじさいだった。十代の女の子が着るにはレトロだが、似合っている。私はフロントガラスの曇り止めのエアコンが彼女に当たらないよう調節してから、自動車を発進させた。


 父のミニバンのナビが新しい道路を案内してくれたから、十三年ぶりでも黒石家まで迷わず運転できた。助手席の祥子は雨で滲む窓ガラスの外をきょろきょろと眺めている。

 もう夕暮れ時で、しかも雨雲が垂れ込めているから外は暗い。田んぼの中の道を、私は注意深く進んだ。


「前はこんな道なかったなあ……ふうん、この交差点繋がったんだ。便利になったわ」

「田舎は田舎なりに進歩してんだよ。東京に馴染んだ瑞希ちゃんにはつまんない所に思えるだろうけど……あっ、ごめんね、嫌味じゃないんだよ?」


 祥子は口に手を当てて肩を竦めた。焦ったふうなその仕草が、故郷を捨てた放蕩娘に反感はないのだと告げている。


「本当に凄いと思ってるの。瑞希ちゃん、小さい頃からの夢を叶えたんだもの」


 そう、キラキラした笑顔で私を見詰める。美容師になるのが夢だなんて、私は昔この子にまでそんなことを語ったのだろうか。ストレートに褒められると居心地が悪くて、前を向いたまま苦笑してしまった。


「将来は自分のお店を持つんでしょ?」

「ええと……うん、そうなればいいなと憧れてたんだけど」


 私は口籠った。


 ――何でおまえなんだよ!

 ――どうやってオーナーに取り入ったんだよ!


「実を言うと、もうこっちに帰って来ようかと思ってるんだ」

「ええっ、そうなの? どうして?」


 祥子は勢いよくシートから身を乗り出した。


「いろいろあって……自分の実力以上の仕事を任されて、ちょっと心が折れかかってるというか……恋愛も何だが上手くいかないし」


 冗談めかして言ったつもりが、ずいぶん投げ遣りな口調になってしまった。祥子は落胆したように肩を落とす。


「彼氏にフラれちゃったの?」

「あーうん、そういうことになるかな。やっぱり同じ職場だと駄目だねえ。私ばかり目立つとギクシャクしちゃって」


 私はわざとらしく声を上げて笑った。


「そんな……彼氏なら彼女を応援するものでしょ。瑞希ちゃんの方が優秀で嫉妬してるんじゃない? 気にすることないよ!」

「でも傷つけたのは事実だから」


 ――約束したのに……俺を裏切るんだな。


「私、少し背伸びをしすぎたのかもしれない。技術も気持ちも追いついてないから、期待されると逃げたくなるの」


 祥子は神妙な面持ちで沈黙した。規則正しいワイパーの摩擦音と、切れ目のない雨音だけが車内を支配する。

 私、高校生相手に何をボヤいてるんだろう――気分を変えようと話題を振ってみる。


「祥子ちゃんこそ、好きな人いないの?」

「いるよ」


 即答されて、私の方が戸惑った。真面目そうだし子供っぽいし、恋愛には縁がなさそうだと思っていたから意外だった。

 祥子は窓際に肘をついて、また笑顔になった。コロコロと表情の変わる子だ。


「実はね、今日の夜、彼と会う約束してるんだ」

「えっマジで!」

「ほんとは直接待ち合わせ場所に行きたかったんだけど、家に忘れ物しちゃって……だから時間までに帰れなかったらどうしようと思ってたの」

「今夜は家にいた方がいいんじゃない? いつ病院から連絡があるか分からないし……」

「お願い、見逃して!」


 祥子は両手を合わせて拝むような仕草をした。

 ここで説教できるような高校時代を私は送っていない。それに叱るのは親である隆一伯父さんの役目だ。私はもうこれ以上聞かないことにした。

 私はワイパーの速度を一段上げた。街灯の少ない田舎道は見通しが悪い。


「楽しそうで羨ましいわ。いいね、若いって」


 すると祥子はぷっと噴き出した。


「瑞希ちゃんだって若いじゃん。百歳のババアみたいなこと言わないでよ」


 目的地周辺です――ナビの無機質な声が、私たちの会話を強制終了させた。





 いつからだろう、賑やかな黒石家が苦手になったのは。


 誰しも思春期の頃には親や血縁者から距離を置きたくなるものだと思う。小学校高学年になった私も毎週の訪問が億劫になり、そのうちに盆と正月、連休くらいにしか父母に同行しなくなった。それよりも友達と遊んでいる方が楽しかった。

 年上の従兄たちがみな優秀で、次々と地元の進学校や国立大学に合格したことにも気後れがした。私の成績は常に下から数えた方が早く、大人たちの真意がどうであれ比較されている気がして、彼らの中に入って行くのが嫌で仕方がなかったのだ。


「瑞希ちゃんは瑞希ちゃん、他の誰とも違う。自分の道を見誤らずに進んでいけば、そこに必ず幸せがあるの。案ずるより産むが易しよ」


 最後に会った中三の冬、祖母は相変わらずニコニコとして私にそう言った。私は曖昧に笑って肯いたが、良家のお嬢さん然とした祖母に言われても説得力を感じなかった。そういう時代だったとはいえ、ばあちゃんの人生で『自分の道』を進めたことってあるんだろうかと思った。

 でもお年玉が欲しかったので、口に出さなかっただけのことだ。


 案の定本命の私立校は滑ったけれど、何とか滑り止めの公立校に入れた私は、そこでダラダラとした高校生活を送った。

 勉強は適当に誤魔化し、同レベルの友達と遊び呆けるばかりの毎日だった。深夜の繁華街で補導されたことも何度かあったので、不良娘と呼べる範疇に入っていたと思う。

 そんな私に、母はこう言った。


「勉強が嫌いなのなら学校を辞めたっていいのよ。でも瑞希、あんたは何がしたいの? このままずーっと遊んでいるだけじゃ、誰からも必要とされない人間になってしまうわよ」


 普段まともに向き合うこともなかった私は、母がひどく痩せてしまったことに初めて気づき、そしてその言葉に驚くほど傷ついた。今つるんでいる友達と離れたら自分には何も残らない、他人に誇れるものもない――誰よりも自分で分かっていたからだ。


 一ヶ月ほど考えて、私は東京の美容専門学校に行きたいと申し出た。雑誌を真似てメイクを工夫するのは得意だったし、友達の髪型をアレンジするのも好きだった。

 専門学校は地元にもあったが、悪評を知る人間から距離を置きたかったのだ。


「分かった。卒業までの生活費は出してあげる。でもその先は、自分の責任で生きていくのよ」


 母の言葉は絶縁状だと思った。今までにかけた迷惑を考えれば当然の扱いだったので、腹は立たなかった。むしろ素直にありがたいと感じた。

 そして私は故郷から離れた。





 古めかしい土塀に囲まれた黒石家の庭は広く、駐車場には不自由しなかった。

 祥子は納屋の前のコンクリートのスペースに車を誘導してくれて、私がエンジンを切る前にさっさと降りた。


「あ、傘!」

「平気! 先に行ってるね。また後で!」


 彼女は雨に濡れるのも構わず、勢いよく母屋に向かって駆け出した。


 私は後部座席から父と自分と二人分のボストンバッグを取り出し、傘を差してよたよたと玄関へ向かった。

 もうすっかり暗くなってはいたが、塀に沿って紫陽花が咲き乱れているのが見えた。子供の頃の記憶にある風景だ。当時は祖母が手入れをしていたけれど、今は伯父か伯母がやってるのだろうか。


 インターホンを鳴らしてから引き戸の玄関扉を開けると、祖母の家の臭いがした。今の今まで忘れていたのに、そういえばこんな臭いだったなあと急に思い出すから不思議なものだ。


「まあまあ、瑞希ちゃん! よく来てくれたわ」


 廊下の奥から現れた朋子ともこ伯母さんは、私の姿を見て大袈裟に喜んだ。

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