其の一
祖母の危篤を知って、私は十年ぶりに帰郷した。
故郷は東京から新幹線で二時間ほどの距離。帰ろうと思えばいつでも帰れたが、高校を卒業して以来これが初めての帰省である。
昨年傘寿を迎えた母方の祖母はまだ矍鑠としていたのに、軽い夏風邪がきっかけで肺炎になってしまったのだという。ほんの数日で病状は急激に悪化し、今はすでに昏睡状態らしい。
「最後のお別れになるよ。ばあちゃんの息があるうちに帰ってきな」
電話口の母の声は真剣で、盆や正月も仕事を言い訳にして帰らなかった私の心に重く響いた。
私は急ぎ勤務先の美容院に休暇願を出して、荷造りもそこそこに駅へ向かい、昼過ぎに実家へ辿り着いた。
母の郷里までは、県庁所在地にある私の実家からさらに自動車で二時間かかる。
祖母は自宅近くの総合病院に入院していて、母は昨夜からそちらに泊まり込んでいる。私は父の運転するミニバンで病院へ向かった。
「瑞希、元気でやってるのか」
「うん」
「仕事は相変わらず忙しいのか」
「うん」
無口な父は久方ぶりに再会する娘の私に対しても言葉少なで、車内で会話はほとんど続かなかった。
どんよりと曇っていた梅雨空はますます色を暗くして、祖母の住む市に着いた頃には細い雨が降り出した。
交通量の多い国道から脇に入ると、なだらかな丘陵地に囲まれた田園風景が広がる。田植えが終わったばかりの田んぼは空と同じ灰色で、表面に細かい波紋を揺らしていた。
高台にある真新しい総合病院は、最近市の中心部から移転したばかりだという。最後に祖母の家に来たのは中学生の頃だが、その時にはこんな建物はなく、ただのこんもりした丘だった。周辺の農地もあちこち虫が食ったように造成され、新しい住宅や商業施設が増えていた。
少しずつ変わるんだな――傘を差して駐車場を横切りながらそんなことを考えたのは、祖母との別れにまだ現実感を持てなかったからかもしれない。
地方の総合病院がどこでもそうであるように、広いロビーは混雑していた。診療科ごとに番号札が渡されて、多くの外来患者が順番待ちをしている。祖母の病室番号はすでに聞いていたから、私と父は受付を介さずに奥のエレベータに乗った。
五階のナースステーションで父が面会者のリストに記名している間、私は何気なく辺りを見回した。清潔な白い廊下が、両方向へ真っ直ぐに伸びている。外来病棟ほどの騒がしさはないが、看護師と入院患者、そして私たちと同じ見舞いの客が行き交っていた。
ナースステーションの周囲は小さなロビーになっていて、壁には音量を抑えたテレビ掛けられている。若い女性が一人ソファに腰掛け、退屈そうにワイドショーを眺めていた。
あれ、と私は怪訝に思った。まだ十代とおぼしきその女性の横顔に、何となく見覚えがあったのだ。
「五〇七号室だ。これ許可証」
父に促され、面会者バッジを胸につけてから私は祖母の待つ病室に向かった。
白いベッドに沈んだ祖母は、ひどく小さかった。
危篤だというから、酸素吸入器やいろんなチューブに繋がれた姿を想像して覚悟をしていたのだが、か細い右腕に一本だけ点滴の管が刺さっている以外は、普通に寝ているのと変わらなかった。
それでも皺に覆われた面貌は青白く、入れ歯を外しているせいか骸骨のように見えた。首や肩は枯れ木に似ていて、全身から水分が抜けてしまったように萎んで見える。
十年以上会っていない祖母だから、普段に比べてどれほど病み衰えているのか、私には判断できない。だからこそ元気だった頃の記憶との落差に、何よりも彼女に掛けられた布団の膨らみの薄さに、私は悲しくなった。
「今朝から少し持ち直したのよ」
母は祖母の眦についた目脂を拭き取りながら、そう言った。
「瑞希ちゃん、よく来てくれたな」
「声かけてあげて。聞こえてると思うから」
ベッド脇のパイプ椅子には母の二人の兄――隆一伯父さんと広二伯父さんが座っている。三人の兄妹が全員揃って、祖母を見守っているのだった。病室は二人部屋だったが、今入っているのは祖母一人だけのようだ。
私は恐る恐る身を屈めて、祖母の耳元に口を近づけた。
「……ばあちゃん、瑞希だよ。帰って来たよ」
反応はない。ざらついた呼吸音がぜえぜえと耳に響いた。乾いた唇が少し開いて、弱々しい息が出入りしている。
「ばあちゃん」
点滴の刺さってない方の腕を取り、かさついた皮膚を擦った。冷たいものと思っていたが、発熱のせいかとても熱かった。
意識は戻りそうにない、と諦めかけた時、皺に埋もれた瞼がわずかに震えた。うっすらと目が開き、瞳が私を捕える。白目は黄ばんでいるのに、黒目は不思議と澄んでいた。
「……ずき……ちゃん……」
「そうよ、母さん、瑞希が帰って来たのよ! 久し振りでしょう」
母が私の肩越しに声をかけた。父と二人の伯父も集まってくる。
祖母は私をじっと見た。落ち窪んだ口元が薄い笑みを浮かべたように見えた。
「瑞希ちゃん……大きくなって……」
「うん……もう二十八になったんだよ」
「美人になった……いい美容師さんに……」
語尾は呼吸に溶けて、彼女は再び瞼を閉じた。
母は、母さん母さん、と呼びかけていたが、やがて溜息をついて身を離した。表情を失った祖母の寝顔は、作り物めいた骸骨に戻っていた。
「ばあちゃん、瑞希の顔が見られてほっとしたのね」
母は目尻を拭ってから私に向き直った。
「あんたのこといつも気に掛けてたから。東京で美容師をやってるって聞いて、一度髪をセットしてもらいたいって口癖みたいに言ってたのよ」
専門学校入学で上京したきり一度も帰郷しなかった私に対して、非難の混じった口ぶりだった。忙しかったんだもの仕方がない、と自分を正当化するほど私は子供ではなかったが、素直に謝罪するには故郷への思いが複雑すぎた。母もそれが分かっているからこそ、これまで強く私を呼び戻そうとしなかったのだ。
「でも間に合ってよかったよ。ほんとに遠いとこありがとな」
空気を察して、隆一伯父さんが宥めるように言葉を挟んでくれた。
母の出家黒石家は、地元では有名な旧家だった。
戦後の農地改革でほとんどの所有地を手放してしまったものの、かつては他人の土地を踏まずに隣町まで出かけられたほどの大地主だったという。祖母カヲルはそんな豪農の娘に生まれた女性である。
三人いた兄のうち二人は徴兵され、南方で戦死した。跡取りの長男も戦後に病死して、娘たちのうち唯一独身だった祖母が婿を取った。しかしその婿も早逝しており、末っ子である私の母などは父の顔を覚えていないらしい。その後祖母は再婚することもなく、女手ひとつで三人の子供を育てながら旧家を守ってきた。
戦前のように小作料で暮らしていける時代ではなく、大黒柱の働き手を失った黒石家は窮乏してもおかしくはなかった。だが幸運なことに、わずかに残った私有地に国道が通ることになり、好景気も手伝って少なくない地代が黒石家に入って来た。それで祖母は、子供たちが成人するまで旧家の奥方に相応しい生活が送れたというわけだ。
父方の祖父母は私が生まれる前に鬼籍に入っていたので、私にとっては唯一の祖母だった。小さい頃は週末ごとに黒石家に遊びに行っていた記憶がある。
人の集まる家で、同居の隆一伯父さんはもちろん次男の広二伯父さんも近所に住んでおり、黒石家本家にはいつ行っても伯父や伯母や従兄妹たちがいた。
広いが古い黒石家の屋敷の中、床板を踏み抜く勢いで走り回る孫たちに囲まれ、祖母は常にニコニコと鷹揚に微笑んでいた。悪戯を叱り飛ばすのは伯父や伯母の役目で、祖母が怒った顔など見たことがない。身なりも所作も端整な彼女のことを、幼心に、絵本に出てくるお姫様がおばあちゃんになったらこんな感じなんだろうなあと思ったものだ。
それほど、彼女はお嬢さん育ちを絵に描いたような人だった。
それきり祖母が目覚める気配はなく、父は私に先に黒石家に行って待っているようにと言った。
「入れ替わりに朋子伯母さんが来てくれることになってるから、父さんと母さんはそれまでここにいるよ」
「俺か兄貴がいるから、足はある」
広二伯父さんがそう言ってくれたので、私は父から自動車のキーを受け取った。
祖母の容態は気になったが、このまま私がいてもできることはないだろう。それに、母たちの昔話を端で聞いているのは気づまりだった。
私は病室を出てナースステーションに面会者バッジを返し、その足で同じ階の角にある喫煙ルームに向かった。
狭苦しいガラス張りの小部屋の中、吸煙機の傍で煙草に火を点けるとほっとした。新幹線の中は禁煙だったし、帰宅してからもバタバタして吸う機会がなかったので、濃い煙を吸い込むと気持ちが解れた。
肩に掛けたバッグからスマホを取り出して、メールをチェックする。職場の同僚たちから、急に休暇を取った私を気遣う内容のメッセージが数件届いていて、私は短く感謝とお詫びを返信をしておいた。
琢己からのメールはなかった。
「いろいろごめん。でもタクに誤解されたままはすごくイヤ。帰ったらちゃんと話そう」
今朝送った私からのメールは、未読状態のままだった。
「私やっぱり実家に戻ろうかな」
そう入力しかけて――思い留まり、アプリを閉じた。せっかくスッキリした頭が、再び靄で覆われるようだった。
灰皿で煙草を揉み消して、もう一本箱から出そうとした時、ガラスをトントンと叩く音がした。
若い女の子が廊下側からノックをしている。嬉しそうな笑みを浮かべているのは、さっきナースステーションの前で見た子だ。高校生くらいで、紺地に大きな花模様の入ったワンピースを着ている。
切れ長の目元と真っ直ぐな鼻の涼やかな顔立ちにはやはり見覚えがあった。私が答えに辿り着く前に、
「瑞希ちゃん! 久し振り!」
彼女は私の名前を呼んだ。それで思い出した。
「祥子ちゃん?」
私は煙草の箱をバッグにしまうと、喫煙ルームから出た。
彼女は私の前で笑みを深くする。唇を開けると栗鼠みたいな前歯が覗いて、急に子供っぽく見えた。大きくはなったが、やはりあの祥子だ。