空翔ける獅子
実に長閑な風景。そこは戦場であるにも関わらずそう感じてしまったことに彼はどこか皮肉めいた面白さを感じて口の端を釣り上げる。上空2000m程に迄上昇してしまえば眼下の景色等皆同じに見えてくる。だが彼のいる空は紛れもない戦場で有り、彼の駆る機体は敵を殺すための兵器なのだ。握りしめた操縦桿、指がかけられたトリガー、見据えた照準器。それら全てが痛烈なまでにそのことを教えてくる。
「敵機視認。下方。方位1-5-0」
「了解、ツヴァイ。各機聞こえたな?いつも通り上方から仕掛ける。」
レオンハルトの最も信頼する部下であり副官の、ブリッツ・ツヴァイことシュリヒト中尉からいち早く敵機発見の報が上がる。緒戦からこのかたレオンハルトと翼を並べてきた彼は他者とは画一した視力を有しており、今回もまたその能力が生かされた形となった。
…彼の報告に少し遅れてレオンハルトや他の僚機たちも下方で編隊を組んで飛行する敵編隊を目視する。
「追加増槽を切り離せ…行くぞ!」
空戦をするのに余計な追加増槽を切り離すよう指示してレオンハルトは先陣を切って翼を翻し、敵影めがけて急降下を仕掛ける。彼の今までの乗機、Bf109の優美な流線型のシルエットとは異なったごつく武骨な、しかしだからこそ猛々しさを感じさせる機体、Fw190が開いていた彼我の距離を一気に詰めようと蒼空を駆け抜ける。
レオンハルトと彼の中隊はこの機体が東部戦線へと配備され始めるとほぼ同時にこの機体を装備する事となった。最初、レオンハルトやシュリヒト中尉…無論、ほかの隊員もだがこの決定には反対した。彼らがこれまで愛機としてきて、なおかつ順当に改良されてきたbf109シリーズではなく、唐突にまったくの別系統の機体に乗ることになるからだ。当然、操縦の完熟にも時間がかかることが予想されるし、何より自分たちの命を懸けるのだ。実力も 未知数な機体などそうそう受け入れられた物ではない。
とは言え、上からの命令だ。彼らの反対など受け入れられたものではない。しぶしぶと彼らはこの機体への機種転換訓練を始める。
…しかし、訓練が始まると彼らの見方は一新されることとなる。彼らはこの機体の性能にほぼ惚れ込んだのだ。それに何よりFw190はBf109と異なり前線での使用を前提にされているため、整備が簡単で頑丈なのだ。
その機体が12機、獲物の群れに襲いかかる獅子のように敵編隊に踊りかかる。20mmの銃弾という牙で以て獲物を噛み裂くために。急降下の中でレオンハルトのFw190の照準器一杯に敵の姿が写りこむ。
機種はIL-2。その頑丈さでもって恐れられた機体だ。急降下によってかかるGを歯をかみしめて堪えつつトリガーを絞って斉射を加える。いくら頑丈な機体といえどコックピットはその限りではなく、20mmの弾丸はいとも容易くキャノピーを砕いて搭乗員をただの血煙と肉片に変えてしまう。レオンハルトが機体を立て直して水平飛行に移っている間に後続の各機も他のIL-2を叩き落としたようであり、言ってしまえばまったくのワンサイドゲームであった。
「各機よくやった。任務は果たしたんだ、さっさと帰還するぞ!」
この時のレオンハルトの判断は妥当極まりないものであったし、隊員から異存の出ようはずもなかった。そう、当然の判断で有ったのだ。…すでに遅きに失していたことを除けば、だが。
「…隊長」
「分かっている、もう私にも見えているさ。…各機、前方敵編隊!気をつけろ。Yak-9だ、一方的に喰うわけにはいかんぞ!」
シュリヒト中尉の声が届くよりも早く、レオンハルトですら視認できる位置に不気味に太陽光を反射させる編隊が出現したのだ。勿論、戦闘機というのは唐突に表れるものではない。が、しかし今度の敵の編隊は雲を利用してこちらの視認より早く距離を詰めてきていたようだ。敵機発見のほうにより戦闘後の微かに弛緩した雰囲気がにわかに緊張を帯びていくのを肌で感じ取りながらもレオンハルトは素早く戦術をその脳内で組み立てつつあった。このころ…1943年も半ばに差し掛かるとソ連空軍も優秀な機体を戦地へと送り出していたのだが…その中でもこのYak-9はその代表格といえるだろう。
「…よし、敵機と会敵するまでに少しでも高度を稼げ!」
雑音混じりながら無線越しに聞こえてくる了承の声に思わずうなずきながら率先するように機首を上空へと向けて上昇を開始する。敵は格闘戦をこそ主眼に置いた機体だが、こちらは一撃離脱を基本としており格闘戦は不得手。もし低空へと引きずりこまれれば…苦戦は必至だ。
「かかれ!」
しかし思惑とは往々にして外れるもの。先ほどと同じように急降下での一撃離脱を掛けるもののお互い発見している状態、なおかつ先程より機動性が優れた相手であるYak-9が相手では、思うように命中弾は得られない。それでも敵が素早く編隊を解いて散開する間に二機の敵を撃墜できたことは、彼らの腕前の妙を示すものだろう。だが、戦況は、彼の半ば願望めいた構想からすでに大きく逸脱し始めていた。
数の上では有利、しかし低空での格闘戦は敵の十八番。すでに空の上は乱戦の様相を呈していた。
上方からのトップアタックを舞うようにして躱したYak-9がレオンハルトの後方にも食いついて離れようとしない。ロッテと呼ばれる二機編隊を組んでいればあしらえたのであろうが、彼と編隊を組むはずのシュリヒト中尉もまるで猟犬においたてられるようにしてはぐれてしまい、自分の…というよりは乗機であるFw190の不利な分野での一対一の戦いを余儀なくされていた。
バックミラーに目をやりながらほぼ直感に突き動かされたように操縦桿を左に倒して、急旋回をかける。機体が大きく旋回した途端に、ほんの一瞬前まで機体がいた空間を曳光弾のきらめきが殺到する。
もし、今旋回をしなかったら?自分は一足先にヴァルハラへ旅立つはめになっていただろう。だが、そのことばかりに思考を向ける暇すらない。
敵機は未だ離れず、フェイントを織り交ぜたジンキングにすら対応してくる。
東部戦線開始初期は錬度も、機体性能も低かったソ連空軍だったが、現状では精鋭ぞろいのルフトヴァッフェにすら肩を並べ始め出している。…むろん、それはルフトヴァッフェそれ自体の質が低下しているせいもあるのだが。しかし、レオンハルトをはじめとする彼の中隊は精強をもってなる部隊。つまりその腕自慢たちを機体特性の差があるとはいえ追い立てることが可能だという事は敵もまた…精鋭。
(クソ、しつこすぎる、きりがない!)
幾度もお互いがお互いの好位置を占めるために機体を交差させ合い、まるで鋏で何かを切るときのような動きを繰り返すシザーズ機動を取りつつ、もはや幾度目かになるかわからない交差の中で内心毒づいた彼はここである種の賭けに出ようとする。敢えて一度敵機との交差をやめて機体を直進させ、敵機をわざと後方につけさせてから機体のスロットルを一気に絞って急減速しながら横転と機首上げを同時に行い、まるで大きな樽の銅をなぞるかのようならせん状の軌道を機体に描かせて敵機をオーバーシュートさせようとする。その機体が描く軌道からバレルロール、と呼ばれる空戦機動だ。
しかし、これは当然大きなリスクを常に伴う。もし敵機がこちらの意図に気づいてしまえば、減速して運動エネルギーを失った無防備な状態で敵に背をさらす危険性があるからだ。
だが今回は彼の運と実力が相手に勝っていた。敵機を中心としたほぼ完ぺきな円錐状の軌道を描いたレオンハルトと彼の駆るFw190は一瞬好位置につけたはずなのに忽然としてその姿を消してしまった彼を再び見出すために直進しながら周囲を見回していたYak-9の後方に占位した。ほぼ完ぺきと言っていい理想的なポジション。トリガーを軽く絞って放たれる回避のしようもなく、また外しようのない一撃。敵のパイロットが己の失策を悟るより早く殺到した20mm弾が翼を噛み裂いて敵の戦闘機は錐もみ状態に陥って墜落してゆく。二機目。普段ならこの戦果を喜んでいたところなのだろうが現状は予断を許さず、そうもいかない。素早く周囲の空に目を移すとロッテを組んでうまく僚機たちはYak-9をあしらうことに成功できているようだ。だが…彼がロッテを組むべき、シュレヒト中尉は彼のそばにはいない。瞬間、レオンハルトはまるで氷塊を飲み込んだかのような悪寒を伴った寒気に襲われる。
(まさか…喰われたのか…!?)
公私両面においてパートナーである有能な副官を失ったのかもしれない、その恐ろしい想像を彼は必死で否定しつつ彼の姿を探す。…その間にも矢継ぎ早に部下たちへと指示を出すことはやめずに。いっそ放り出してしまいたくすらあったものの、彼にとって指揮官としての、軍人としての責務を放棄するという事は不可能と言ってもいい事なであり、加えて彼のミスは即ち中隊全員の死を招くのだ。故に個人の感傷はひとまず置かねばならなかった。
…たとえ、かけがえのないものを失ったとしても。その時、出力が足りていないせいか、小さな救援を求める声が無線機から彼の耳へと飛び込んでくる。
「隊長、早く救援を!」
「シュレヒト!どこに!?」
「低空、方位2-8-0!」
「今助けに行く、少しの間堪えろよ!」
思わず、安心感に包まれてしまいながらも指示された鳥の方角と高度に目を凝らすと、確かに光を反射させながらまるでダンスでも踊るかのように戦闘機動を繰り返す二機を見つける。…ただし、どちらかのミスが即、死に繋がる死の舞踏であったが。
瞬間的に覚えてしまった安心感を一瞬で忘れ去ってそちらの方向へとスロットルを絞らず、むしろ目いっぱいに吹かして機をパワーダイヴさせる。一刻も早く駆けつけるために。
機体の軋む音すら聞こえ、視界が次第に色彩を失って暗くなりつつ視界が狭くなっていく…グレイアウトを起こしてしまうほどでありながらも、それすら気にも留めずに強引なまでの降下を続け中尉の後方につく敵機の更に後方へと付く。
しかし…
「中尉、君の機にも当たりかねない!合図をしたら右へ旋回しろ!」
「っく、りょう、かい…!」
現状ではほぼ中尉と彼を追うYak-9がほぼ直線状に位置してしまっており、このままでは敵機を攻撃して撃墜したとして、敵機を落とすための大威力の弾丸が流れ弾となってそのまま中尉へも殺到してしまうだろう。それを避けさせるために半ば怒鳴りつけるような声で無線へ向かって指示する。
恐らく、短時間ではあるが熾烈な敵機との駆け引きで疲労がたまっているのだろう、中尉からの応答は雑音混じりながらもとぎれとぎれで息遣いが荒くなっていることがはっきりと感じ取れる。長引かせれば、彼はまず間違いなく撃墜されるだろうし、指示したような派手な戦闘機動はもはや二度と取れなくなるだろう。…チャンスは一度きり。
(さっきも賭けには勝てたんだ、これだって…!)
中尉の危機に悪い想像ばかりばかりが頭をよぎってしまい、ともすれば萎えそうにすらなる自分の心を無理やりに奮いたてさせながらカウントを開始する。
「3,2,1…今!」
「ぐ、っく…!」
レオンハルトの合図に反応して、シュリヒト中尉は操縦桿を右へと目いっぱい傾ける。強烈な横Gが彼を襲い、意識を奪い取っていこうとする。呻声を上げながらも意識を飛ばすのだけはこらえて必死に操縦桿を握り続ける彼の後をはるかに小さい旋回半径を描きながら、まるで猟犬のように彼を追い立ててYak-9が追随する。だが、敵のパイロットは致命的なミスを此処で犯してしまう。獲物が見せた隙をつくことに夢中になりすぎて失念していたのだ、獰猛な猟犬すら食い殺す背後の獅子の存在を。
「馬鹿め、が…!」
確かに、FW190は旋回性能においてYak-9に大きく水をあけられている。だが、後背につけたこの位置からだと旋回する相手の頭を押さえることは容易であり、レオンハルトの最も得意とする…すなわち偏差射撃が最も行いやすくなるのだ。そのことすら忘れ去ってしまったかのような敵の愚かさに若干の哀れみと多量の侮蔑を込めて吐き捨てながらトリガーを引き続けて長い一連射を放つ。20mmという強力な弾丸はエンジンから尾翼の辺りまでをまるで敵機を真っ二つにでもするかのように着弾してあっという間に爆散させ、空に大きな火球を出現させる。
「…っふ、う…」
「隊長…奢らせて、くださいよ…」
「いや…君のそばを離れた私のミスだ。私が奢ろう。…そうだな、今日は隊の皆におごってもいいだろう。全機無事の祝いだ、とっておきを開けてやるぞ。さあ、早く撤退しよう、これ以上神経をすり減らすのはごめんだぞ!」
先ほどまでの激しい空戦がまるで嘘だったかのように空が静けさを取り戻したことを確認してトリガーにかけっぱなしだった指を漸く離して小さくため息をつく。笑いながらのシュレヒト中尉からの謝辞に、見えないということがわかっていながらもゆるく首を振って微笑みながら応える。全員に奢るとのレオンハルトの言葉が無線に放たれた途端に歓声がまるで爆発のように無線へと広がり、彼の部下たちが我先にと翼を翻して帰途についていく。苦笑交じりにその様子を眺めながらも殿の位置にシュレヒト中尉と付いて最後にサムズアップで余裕ぶって見せながら彼も翼を翻す。
今回の戦いでもまた、隊のだれも失わずに…特に副官である彼…いや、副官なだけではなく、恋人となる事の出来た「彼女」を失わずに済んだこと、その事を位はその存在を信じなくなって久しい神とやらに祈ってもいい、そんな事すら考えながら。