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第66話 関西大震災と海軍



今ならどこで何が起ころうとほぼすぐに情報が入ってくる。

マスコミが飛び回り、政府も様々な形で情報を収集するし、自衛隊や消防隊はすぐに現地に入れるからだ。

救助活動にも瓦礫の中に埋まっている人を探り出す機械だの、瓦礫を掘る機械だのいろんなものが使われている。

ハイパーレスキュー隊とかいうのが埋もれた車から小さな子供を助けたニュースも皆さんご存知だろう。


ところが俺が今いる時代は1923年だ。

ヘリコプターもなければコンピュータもない。

情報は生き残っている人が生き残っている機械で送ってくれたり、近くの航空隊が偵察機を飛ばして直接見るのがせいぜいだ。


さらに鉄道などインフラ整備も今とは訳が違う。

近くの陸軍部隊などには被災したと思われる地域への移動を命じ、被災者の救助や安全な地域への誘導などをさせるのだが、一番近くにある大阪や姫路の部隊でも現地へ入るのに1日はかかった。

周辺地域の消防隊にも至急現地へ入って消火活動をするよう指令を出したが、道路が埋まったりしているところもあり現地に入るのが遅れてしまう。


結果火災による被害は甚大だった。

神戸や洲本などでは丁度昼飯時だったことからいたるところで火災が発生、地元の消防隊や消防団には消火優先を指令して(無線等でつながったところだけだが)消火に当たらせたが、火災発生場所があまりに多いのと消防隊自体に被害が出ていたことなどから初期消火に失敗。

火災は広がり数日間にわたって街を燃やし続けた。


火が完全に収まったのは地震発生から2日後の9月3日のこと。

ただし神戸の火災は2日の午前中にはほぼ鎮火している。

これは必死の消火活動のおかげももちろんあるが、1日の夜に強めの雨が降ったことが大きい。

そしてこの雨は多くの命を救った。


もし雨が降らず火災が広がり続けていれば瓦礫の下敷きになった人や怪我をして動けなくなったりした人達は助からなかっただろう。

しかし雨のおかげでそれを防げた上に、瓦礫の中に埋まった人の中にはその雨水を飲んだおかげで助かったという人もいたようだ。


一方各地から応援に駆けつけた陸軍部隊や消防隊はすぐさま救助を開始した。

瓦礫に埋まった人を一軒一軒探し、けが人の手当てをし、住民に水や食料を提供したり……。

もちろん瓦礫を掘るにしても、道に出来たひび割れを直すにしてもほぼ手作業。

重機を使いたいところだが、もともと数が少ないため遠くから呼び寄せなければならないため時間が非常にかかってしまう。

復興には役立ったが、救助などの面では役に立たなかった。


9月1日の深夜には大阪に空輸された消防庁の災害対策部隊も現地に入り大きな力を発揮した。

重機を装備した部隊もあったが上のように輸送に時間がかかってしまっているが、救助を専門に訓練されたこの部隊は目覚しい活躍を見せる。

現地には全5個中隊のうち関東大震災に備えていた2個中隊が派遣されたが、両中隊あわせて213名もの人を救出することに成功した。

そしてそのうち160名は子供である。

倒壊した小学校の校舎の下敷きになっていた子供達がそのほとんどだ。

この小学校は全校児童421名のうちほぼ半分の214名が下敷きになっていたが、うち152名が救助されている。


しかし、これだけ必死の救助活動が行なわれたにもかかわらず死者・行方不明者は膨大なものであった。

それから半年後に出された被害調査報告書によると、


死者    1万7453名

行方不明者 9702名

負傷者   4万1200名


だったそうだ。

関東大震災に比べれば少ないが、阪神淡路大震災に比べるとかなり多い。

時代の差かもしれないが非常に多くの犠牲者が出た。

救助に当たっていた軍や消防隊にも余震等で死傷者が出ている。


住宅や工場などの被害も大きく、それらが与えた経済への影響は国力の違いから関東大震災ほどではないにせよ、非常に大きなものであった。

神戸は史実にない新興の企業が多く進出していたところでもあり、それらの企業の中には独力での再建が不可能なほど打撃を受けたものもある。

政府はもちろん支援するが、これから伸びようとしていた企業を停滞させてしまう原因ともなった。



ところで、この大地震は海軍にも大きな打撃を与えることになった。

この付近の造船所で建造中だった空母の「飛鷹」と「隼鷹」が被災、キールが破損するなど大被害を受けたのである。

「飛鷹」は田坂重工業神戸造船所、「隼鷹」は木村造船明石造船所で建造されていたのだ。

どちらも新興の企業で、今回の発注により両企業に大型軍艦の建造を経験させておこうとしていたのだが、この予想もしない災害でそれが頓挫したばかりか空母が建造できなくなってしまった。


軍縮条約により空母の新規建造は5年以内に行なえということだった。

ところが今回の地震で両艦は進水まであと少しというところまでいっていたにもかかわらず、建造再開は困難、解体を余儀なくされる被害を受けている。

つまり新しく建造しなおさなければならない。

ところが残された時間は条約が締結された1925年9月17日までだからあと2年ほど。

さすがに2年で中型空母を完成させることは困難、いや不可能だ。


日本の「雲龍」型は起工からほぼ2年で完成させているが、今から資材やら造船所の選定やらしてたら間に合わない。

それに20年前の技術力でなんとかなるものではないだろう。

アメリカのインディペンデンス型は1年くらいで完成させられているが、それはあくまでアメリカの工業力と巡洋艦の船体を流用してのことだ。

実際起工からは1年半くらいはかかっている。

新規で建造したわけじゃないのだ。


ん?

巡洋艦から改装……?

そういえば今日本は「古鷹」型重巡洋艦が進水を始めたところだったな。

排水量は1万トン強で足も速い……。

おまけに4隻も同型艦が建造されている。

これはもしかしたらいけるかもしれないな。


俺はすぐさま海軍の建造責任者やら技師やらを呼び寄せて「古鷹」型を改装するとしたらどの程度かかるか聞いてみた。

突貫工事を行なえば1年半ほどで完成させることは出来る……、かもしれないという返事が返ってきた。

そこで4隻を建造する企業に対し、すぐさま設計を行なわせてみる。

3ヶ月後、それぞれの造船所から設計案が示されて、それから最も良かったものを選びそれをもとに各造船所は突貫工事に入った。


各造船所の死に物狂いの努力の結果、1925年9月までに全ての艦の建造は完了。

「祥鳳」「瑞鳳」「栄鳳」「名鳳」と改名され、日本海軍に編入された。


これは裏話だが、実は「栄鳳」と「名鳳」は若干未完成だった。

高角砲や機銃、航空擬装の一部などが未搭載のまま完成と発表され海軍に編入されていたのである。

そのため翌年2月に機関不調を理由にドック入りし(実際突貫工事の影響で不調だった)、そのときに未搭載の擬装品が装備された。

他の2隻にしろ、様々な不調があり毎年のようにドック入りしてはいろんなところを突付かれいるようだ。


まぁ、完成しただけマシか。




注)改装された重巡洋艦は史実の「古鷹」型とは無縁。基準排水量1万1000トン余、速力33ノット、主砲20.3センチ連装砲5基10門などを予定していた新型重巡洋艦。

遅くなって申し訳ありません。ハワイから帰還したものの忙しくてなかなか更新できませんでした。これからもちょっと忙しくなるので更新はマチマチになってしまうと思います。戦間期のネタも少なくなってきてますし……(泣。

また、他の作者様の小説を見るなどしていると自分の勉強不足を痛感しております。戦略・兵器・政治・外交など知らないことが多すぎてこれでは第二次大戦も満足に書けそうにないです。いろいろ勉強しながら書き、皆様に満足していただけるものを書きたいので更新速度の低下にはご理解していただけたらと思います。


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