第54話 戦後処理
4月3日、戦後処理のための業務が始まった。
本来なら昨日から始まる予定だったが二日酔いの奴らが余りにも多く、仕方なく一日休みをとらせて今日からすることになったのである。
まず現在の占領地域について。
タイ・ベトナム・ラオス・カンボジア・マレーシア・インドネシア・フィリピン・ミャンマー、そして太平洋の島々(史実の南洋諸島にグアム等が加わったもの)が現在日本の占領下にある。
これら全てを直接領土に組み込んでもいいのだが、さすがにそれはどうかということでそれぞれの地域には自治権をもたせ、日本国憲法内での立法権・司法権・行政権を与える自治区とすることにした。
当然それらの自治区にはそれぞれ政府・国会・裁判所が持たされている。
しかし、日本政府の法案には基本的に従わなくてはならない。
政府の法案に不満がある場合はまず自治区の国会でそれを審議して、3分の2以上の議員の賛成があった後日本の国会にそれを提出することになっている。
ただしこれでは自治区側が余りにも立場的に弱くなってしまうので、自治区にも日本の国会の選挙区が設けられ、本国の国会に自治区から議員を送れるようになっている。
それでもかなり立場が弱いということには代わりがないが……。
当たり前だが自治区の外交と安全保障は日本が担当する。
そのため陸軍には新しくインドシナ方面軍とインドネシア方面軍、フィリピン・南洋諸島方面軍が新設され、地元の兵士を招集して各方面の防衛に当たらせることとなっていた。
(ただし比・南洋諸島方面軍は日本本土からいくらかは部隊を送る)
翌年にはそれぞれの自治区の政府等が発足し、機能し始めるだろう。
各自地区の総選挙は大体3月頃行なわれる予定で、それまでは日本が派遣した人員が内政にあたる。
今回の戦争でかなり損害を受けている地域には日本政府が多額の経済援助を行なう。
ついこないだまで敵であったとはいえ今は日本国民。
今度は守ってやらなければならないのだ。
ところで地元民達の日本に対する抵抗は起こらなかった。
予想外の寛大な処置で自治権が自分らにあるということが分かったのと、しっかりとした支援が行なわれていることで彼らの感情が和らいだためである。
もちろんまだ和らいだだけであって、日本支配に対し反感を持つ輩は多いだろう。
これからの統治次第ではまだどうなるか分からない。
大切なのはこれからで、慎重に進めて行く必要がある。
また、今回日本が占領しなかったパプア・ニューギニアやソロモン諸島は独立を維持することとなり、日・豪の緩衝地帯となる。
ただし日本はパプア・ニューギニアと部分的な安全保障条約を締結、ニューブリテン島に軍事基地を設ける権利を得た。
これを受けてラバウルには港湾施設及び航空基地の建設が行なわれることとなり後に航空師団が進出する。
また、南洋諸島方面隊傘下にラバウル防衛軍が置かれ2個師団ほど常駐するようになり、ラバウルは南太平洋の日本の軍事的な要衝となった。
それと外征していた日本軍部隊の引き上げも始まった。
インド方面の部隊はすでに国内へ引き揚げているし、インドネシアなどに駐屯する部隊も引継ぎの部隊の到着を待って日本へ凱旋する。
香港には各地から引き揚げてくる兵達を乗せた輸送船が次々と到着し、わざわざ香港まで出迎えに来た家族らでごった返した。
波止場で夫・父・兄・子供・恋人を見つけた家族は皆抱き合い喜びの涙を流していた。
久しぶりの再開、彼ら陸軍の兵士は病気で送還されるか、部隊が再建等のために内地に戻されるかしない限りは国に戻れることはない。
数年行ったら行きっぱなしで、家族には月に一度手紙がくればいいほうであり、それが途切れると不安でたまらなくなる。
そして今日無事な姿を見れみんな本当にうれしいのだ。
もちろん中にはそうでない人もたくさんいる。
実際この戦争で日本は数十万の戦死者と数十万の戦傷者を出している。
撃沈された艦艇の兵士などは遺骨が戻ってくることはない。
南方での戦いで戦死した兵もほとんど同じで、遺骨が戻ってくるのは極めてまれである。
また、地雷や砲弾で手足を失った兵士らもたくさんおり、とりあえず生きてはいるもののこれからの生活に不安を抱えていた。
そのため日本政府は戦死・戦傷者がいる家族には毎月生活費の援助を行なうことにしている。
史実の日露戦争では遺族らに対する補償が少なかったため、家族は非常に苦しんだという。
しかし、彼らは国のために犠牲となったのである。
その彼らの家族を放っておくのは人としてどうかと思う。
予算的には苦しいが絶対にやらなくてはならない。
大切な人を失った苦しさは他の人には絶対にわからないし、金なんかでケリはつかないがこれは最低限度の国からの謝罪と感謝でもあるのだ。
このような平時への移行が進む中、都市では講和反対のデモが起きていた。
インドとオーストラリアから領土も金も取っていない、どういうことだ、というのである。
まぁ、起きて当然であるが一応あれだけの領土がとれたのだ、多少は遠慮してもいいんじゃないかと俺は思うのだが、そこが俺の甘いとこなんだろうな。
弱肉強食のこのご時世、食わなきゃ食われるということか。
まぁ、一人濁りに染まらず生きていく、って手もあるが。
あれだけの国を占領しといて今更濁りもクソもないか……。
さて、それはいい。
デモは主に中国本土の諸都市で起き、北京や上海では5万人が参加する大きなものとなり、一部は警官隊と衝突、けが人を出す事態となった。
死者が出なかったのは幸いである。
もし出していたら悪化するだけだろうし。
ただ、比較的おとなしいデモで参加者も当初の予想より少なく、ほとんど暴徒化することはなかったし、衝突もあの二都市以外ではほとんど発生しなかった。
対策としては各新聞に対し政府から要請を出して報道協定ということで助長するような記事を出さないようにさせ、国民に対し冷静になるよう繰り返し声明を出した。
もちろんこれ以上拡大の気配があれば、厳しく対応していかなければならない。
が、デモの参加者は次第に減り、ほぼ自然消滅となった。
新聞に乗った戦争で息子を失った母親達からのメッセージが功を奏したとも言われるが、真相はよく分からない。
ただ、毎日デモをしていたのでは自分の生活が成り立たない。
特にまだ日雇いでその日暮らしの生活をしている労働者は多いのだ。
まずは自分の生活と思ったのだろう。
また、その年の暮れには日本全土を喪中とさせ、犠牲者に対する式典を各地で行なった。
戦争中激戦地となったところでは仏教・イスラム教・キリスト教・ヒンドゥー教などあらゆる宗教合同の慰霊祭が行なわれ犠牲者の冥福を祈る。
来年は良い年になりますようにという国民の祈りの中、年は明けていった。
平時になってからの執筆の進みがどうも遅いです。まだストックがあるのでしばらくは更新できますが、やたらと資料を挟んだりして誤魔化すようになると思います。ネタ切れ状態であるのでご容赦ください。夏休みゆっくりと考えながら進めていきます。気長にお付き合いくださいませ。
今回の名言↓
「同盟国は巧みに利用すれば、頼もしい友人であるが、同時にフランスの自由と独立を制限しようとする悪意ある友人でもある」
―シャルル・ド・ゴール