第32話 お年玉
1915年元旦、シンガポールにたくさんのお年玉が降ってきた。
しかも朝の5時から。
まだ薄暗い中突如響き渡った砲声、数秒後に砲台数基が木っ端微塵に吹き飛ばされる。
しかし、この攻撃を予期していたシンガポール港湾防備隊は日本艦隊の出現を確認するとすぐに反撃を開始する、はずだった。
砲撃が始まってから1時間が経ってもシンガポール砲台が反撃する様子はない。
次々と破壊されていくなか無傷な砲台も沈黙したままである。
射程が届かないのだ。
シンガポール砲台で最大のものは25.4センチ40口径。
インドネシア軍にはそれ以上の砲の製造能力がなかった。
当然「安芸」型や「美作」型の35.6センチ45口径のほうが射程は長い。
日本艦隊はそれを分かっているからわざと要塞砲の射程外から撃っているのである。
もちろん命中率も少し落ちるが所詮相手は動かぬ砲台、動き回る軍艦に比べれば圧倒的に狙いやすい。
砲撃が始まってから3時間、その頃にはすでに生き残っている砲台はなかった。
戦艦が砲台を全て潰すと巡洋艦も出てきて砲撃をはじめ、ジョホールバール水道に作ってあった土手道を破壊、さらに周辺陣地を攻撃する。
土手道を壊したのはマレー半島の敵部隊がシンガポールに撤退するのを妨害するためだ。
日本軍が攻めるときに困ることは間違いないがどうせ日本軍が渡る前に敵が壊してしまう。
だったら先に壊してしまえというのだ。
今回の砲撃で攻撃を受けなかったのは市街地と港湾施設だけである。
市街地は一般市民を殺さないため、港湾施設は占領した後使うのに壊すのはもったいないからという理由だ。
まぁ確かに重油が漏れたりしたら数ヶ月使えなくなってしまうだろう。
ここは日本人特有(?)のもったない根性が出たんだろうな。
さて、たっぷりとお年玉をもらった連合軍も日本軍に与えてやらなければならない。
もらいっぱなしじゃ新年早々気分が悪いし何しろ腹が立つ。
まったく手も足も出なかったのだ。
このままで済むと思うなよ、と意気込むが艦隊を出撃させるわけにもいかず今回も昨年同様潜水艦でお返しをすることにした。
後で思えば昨年のこの時期だ。
昨年のこの頃タイ潜水艦に戦艦2隻を撃破され長期の戦線離脱を強いられたのである。
あの時は「美作」型戦艦がまだ戦闘に参加できる状態になく、一時期とはいえ連合軍と戦力が拮抗してしまったのだ。
今年はそれほど危機的な状態にはならなかったがショックには変わりがなかった。
その事件は1月2日に起きた。
陸軍支援のため本隊から分離されてクアラトレンガヌ(コタバルより少し東に行ったところにある)付近の敵軍陣地に砲撃を加えていた装甲巡洋艦「筑波」「生駒」の2隻が敵潜水艦の攻撃で沈没したのだ。
護衛の駆逐艦は8隻ほどいたが完全に無警戒。
指揮官の怠慢としかいいようがない。
ところがこの事件で一番の衝撃を受けたのは造船屋達だった。
何が問題だったのかというとこの2隻の沈没の仕方である。
2隻は左舷にそれぞれ魚雷を2本ずつ受けた。
しかし船体はたくさんの水密区画に分けられているし、一昨年の改装で応急注排水装置が装備してあり、装甲は若干薄いとはいえそう簡単に沈むような柔な造りはしていない。
そのため艦長は魚雷を受けても沈むとは思わず、とりあえず傾斜を立て直すため反対側の右舷への注水を命じた。
ところが、左舷からの海水の流入は一向に衰える気配はなかった。
しっかり区切られているはずの水密区画も次々と破られている。
右舷への注水よりも左舷へ流れ込む海水が多すぎ、傾斜はどんどん大きくなっていく。
傾斜が30度に達したとき、艦長はやむなく総員退去の命令を下したがそれから沈没まで残された時間はわずかしかなかった。
雷撃を受けてから25分後、まず「生駒」が転覆し数分後には海上から姿を消した。
そのわずか3分後、「筑波」も後を追う。
生存者は2隻足してもわずかに200名強。
総員退去から沈没までに時間がほとんどなく、機関科兵は全滅、砲員も多数が艦と運命をともにした。
この件に関しては調査委員会が設置され徹底的な調査が行われた。
その結果3ヵ月後にまとめられた報告によると沈没の直接の原因は左舷への浸水増大によりバランスを失ったことによる転覆だがそれを助長する欠陥が日本艦艇にあることがわかった。
それは「中心線縦隔壁」である。
これは艦の中央を縦に走る隔壁で艦を左右二つに分けるものだ。
日本海軍の主力艦艇は全てこれにより船体を二つの区画に分け、さらにそれをいくつかの横隔壁で区切って缶や機関を1基づつ配置するようにしていた。
(これは史実では第1次大戦の教訓から得たものだが、こちらの世界では「筑波」型建造の際にある海軍技術者が提唱したのが採用され、それが魚雷防御に理想的とされ「安芸」型等にも採用されている)
ところが今回左舷に受けた2本の魚雷による浸水は縦隔壁により片舷のみに浸水、それが全体へと広がっていき最終的に艦を横転させてしまったのである。
応急注排水装置もあまりに浸水が早かったため役に立たず、二隻は海へと引きずりこまれていったのだ。
日本海軍の先駆けとして建造され、多くの貴重なデータや経験を与えてくれた両艦はその臨終においても日本海軍へ戦訓を与えてくれたのである。
こうして非対称浸水の恐ろしさを知った日本は計画中の新型戦艦「金剛」型の設計を大幅に変更した。
中央線縦隔壁の廃止、水密区画の見直し、注排水装置の増備、装甲の強化など防御の強化が行われ巡洋戦艦に近くなるはずの「金剛」型は高速の重防御戦艦として建造されていくことになる。
そうそう、忘れていたが作戦の主目的であった輸送作戦は無事成功した。
敵潜水艦の攻撃は2,3度あったが沈没した船はない。
ただしインドネシア陸軍の航空隊の攻撃を受け護衛駆逐艦1隻が沈没し、輸送船数隻が損傷した。
インドネシア軍航空隊の最後の咆哮とでも言うべきもので、各地に残っていた機体をかき集めて攻撃したのだが、空母から飛んできた日本の戦闘機に攻撃され全滅した。
これ以降インドネシア軍航空隊の活動は報告されていない。
船団は1月15日までに全部隊・全物資の揚陸を完了し、1月20日には追加の物資も運んだ。
その間第3航空艦隊の水上機母艦による爆撃作戦も行われ敵の部隊の力を大きく削ぎ、陸軍は2月1日マレーシア首都クアラルンプールを攻略した。
敵部隊は全ての戦線を放棄して後退、シンガポールへと引き揚げる。
しかしこの時土手道を破壊されていたため重砲などはジョホールバールにおいていかざるを得ず、さらにインドネシア軍の戦力を下げることになった。
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