一抱えの楽園
【第60回フリーワンライ】
お題:
ユートピア
格子の向こう
フリーワンライ企画概要
http://privatter.net/p/271257
#深夜の真剣文字書き60分一本勝負
夏の初めに彼は産まれた。
親の顔はわからない。気が付いたらそこにいた。そことは彼にとっての世界であり、彼にとっての全てだった。
誰に倣ったわけでもないが、生きる方法は本能的に知っていた。幸いなことにそこは暑くもなく、寒くもなく、快適な場所だった。本能が警告する危険も存在しないようだった。
世界は丸い形をしていて、その果ては湾曲していた。世界の果ての外側にも何かがあったが、果てを越えられない彼には未知の領域だった。
日に数度、世界の果てが陰る。最初は彼もその現象に怯えたが、やがてそれに害がないことを学んだ。
世界の果てが陰ると外側は必ず肌色になった。そして食べ物が降ってきた。そうすると彼は上を向いて口を開け、食べ物を頬張った。
過ごしやすいし、腹は満たされるし、危険もなく、彼は幸福だった。
やがて世界に淀みが訪れた。
彼は息苦しさを覚えて身悶えした。しばらく何も口にしていない。
日に数度、世界の果てが陰ることもなくなった。そこは快適さとは縁遠い場所に変わってしまった。
本能が警告を発するが、世界の果てを越えられない彼にはどうすることも出来なかった。
そうこうするうちに世界が揺れた。激動に耐えられず揉みくちゃにされ、彼は死を覚悟した。
気が付くと世界は正常さを取り戻していた。世界に充ち満ちていた淀みは消え去った。
そして世界の果てが陰ると、食べ物が降ってきた。
あの天変地異がなんだったのか、気にならないではなかったが、それよりも腹を満たすのが重要だった。
それ以後、世界の果てが陰った時に肌色が表れることはなかった。
平穏が訪れたのなら、それで良いではないか。
ところが再び激動が彼を襲った。
今度の激震は以前のものより小さかったが、とにかく長く続いた。
世界の果ての様子が一変した。その変化でようやく気付いたが、どうやら世界の果ての“外”もどこかの“中”だったらしい。
肌色と赤色が世界の外の半分を覆って、残りの半分は今まで経験したことがないほど明るくなっていた。
彼は本能的に理解した。この明るさが“外”なのだと。
だが、その事実が彼を幸福にするわけではなかった。“外”と断絶していようとも、安定した“中”で暮らせればそれで良かった。
やがて振動は収まった。
世界の果てに肌色が広がる。いつもの横ではなく、食べ物の降ってくる上で。
そして、
ぐらり
世界が大きく傾いた。
抗えない流れに飲み込まれて、彼はどんどん下へと落ちていった。下には世界の果てがあるはずなのに、その落下は果てまでの距離よりもずっと長く続いた。
彼には意味がわからなかったが、その時こんな呟きが囁かれた。
「面倒見切れないなら放してきなさいって。宿題も終わったからもう逃がしてあげる」
衝撃が全身を包み込んだ。
周りの何もかもと一緒にどこかへ叩き込まれたかと思うと、一瞬沈み込んだ後に浮遊感が訪れた。大量の気泡が周囲で立ち上る。
頭がクラクラしたが、しばらくすると慣れ、辺りを確認する余裕が出てきた。
彼はすぐに気付いた。果てがなくなっている。そして、自分の意思とは裏腹にどこかへ移動して行くことを感じた。
彼を取り巻く環境は大きく変わってしまった。
最初は怯えたが、すぐ気にしないことにした。
とりあえず食べ物の気配はある。それでよしとしよう。
緩やかに身をくねらせて泳ぎだした――その途端、急激に膨れ上がった気配が横合いから彼を襲い、永遠の暗闇に落とし込んだ。
本能はそんな存在を知らなかったため、警告を発することはなかった。
『一抱えの楽園』了
ユートピアであるとか、ディスとピアであるとか、そういうのを決めるのは本人の価値観次第であるので、束縛から自由になったからといって必ずしも幸福であるとは限らない。
どこで産まれたとか、なんであるかとかは、外に出て生きることになった時の重要なファクターでもある。折角出られても合わないんじゃどうしようもない。
あと、ほら、小中高生の夏休みがもうすぐ終わるし。そんな感じで。