雪、消しゴムのはー
冬が四季の中で一番好きと言ってた馬鹿は、一月に死んだ。雪の降る晩に、音も聞かれず雪明かりに埋もれた。
朋香は笑わなくなった。いつも窓の外を眺めるようにぼうっとしていて、虚ろな視線が胸に突き刺さった。あんな救いようも無い馬鹿に、恋心なんて抱くから。
朋香が、津田と付き合っている事を知ったのは雪の無い三ヵ月前。文芸部の津田は、ただひたすらに不思議でよくわからない男だった。名前は女の子みたいに滴といって、朋香はよくしーくんと呼んでいた。私が文芸部で、朋香の幼馴染みだったから、朋香は私に会いに来るという名目でよく文芸部の部室に来た。基本的に私と津田くらいしか毎日は来ていない事は、朋香にとっては幸せだったのかもしれない。朋香は津田とよく話していた。たまに津田の作品も読んでいたようで、朋香は天使というか猫のように柔らかく笑って、津田が書き終わるのを待っていた。
私はそれを、胸に溜まる汚物をかき混ぜられるのを、ずっとずっと耐えながら、追われるように小説を書いていた。手を伸ばせば、そこに朋香はいる。けれど私が抑える事をやめれば、それは私に幸せと絶望をいっぺんに連れてきてしまう。
津田が、羨ましかった。朋香のくせが少しついたさらさらした髪を、雪みたいに白くてきめこまやかな肌を、申し訳なさげに膨らんだ唇を、奪おうとしてしまえさえすれば、きっと朋香は恥じらいつつも抵抗はしない。頬を赤くして、少し息をついて、目を伏せる朋香がきっと現れる。それは親友を通り越した人にしか見せてくれない、朋香の素顔。津田は、でもいつもしれっとしていて、朋香の頭をわしゃわしゃと崩したり手を繋いだりしてる時さえ、いつものような退屈そうな顔をしていた。部室にいる時は、妙に私の方をチラチラと見てきて、助けてくれと言わんばかりに「お前、ちょっとこれ読んでくれないか」と言ってくる事もあった。
「季節をテーマに短編?」
津田が発案したそれは、部活らしい事をしたいという事で出た案だけれど、何の季節にするかがいっこうに決まらなくて結局は津田の独断に任せる事にした。そこで津田が選んだのが冬だった。理由を聞くとまた何食わぬ顔で「俺が一番好きな季節だから」と言い切った。そこに朋香の賛成が加わって、冬の短編を書く事になったのが十二月のクリスマスだった。何を急いていたのか、津田は期限を一週間として必ず期限を守るようにと部員に告知していた。「何故」という質問もあがったけれど津田は「なんとなくだ」と真顔で言うから、質問者が呆れ顔になるのもしかたがない。
津田が家の三階の窓から飛び降りたのは、ちょうど期日の元旦の事だった。津田はその時まで毎年毎年年末に見ていた歌番組も気にせず、部屋にこもって冬の短編を書いていたらしい。津田の朋香とのメールのやりとりが途切れたのがその日の午前一時の事。突然私の携帯に『自分の世界に行ってくる。今日の十時ごろに冬の短編を回収に来てくれ』とメールが来たきり、朋香は笑わなくなった。それが、津田のした最後のメール。朋香ではなく、どうして私にそんなメールを送ったのかはわからなかった。
津田の家に短編を取りに行くという名目であがった時に、泣いている朋香を見た。私は津田の両親から説明を受け、冬の短編を受け取った。朋香を抱き締めて、頭を撫でて私の暖かさで包みたい気持ちはあるけれど、それはできなかった。津田が、泣いている朋香の頭に手を添えているような気がして、私は何故か手が震える。朋香には結局、声もかけられなかった。
帰ってから、部屋の中で津田の短編を読んだ。小説と向き合っている間は朋香の事を考えなくていいから。題名は『雪、消しゴムのはー』相変わらず津田らしいと言えば津田らしい。変なアナグラムや突拍子のない発想は津田の得意分野で、この手の意味不明な部分には必ず裏がある。そしてそれは、たいてい小説の文中に出てくる事がヒントになる。
話は津田にしては単純だった。主人公は女性。親友が幼馴染みの男性に恋するのだが、その好きな男性が自分の事が好きだと告白されてしまうという。初めの内は、何とかして立ち回る主人公だがやがて諦めて、自分が消えた方がいいと考え、雪の降る景色の中飛び降りるというもの。最後の飛び降りる最中の景色を書く文章はやけに字が雑で、マス目をはみ出している。津田が窓縁から足を出しながら書いたんだろうか、と冷静に考えている自分に寒気がした。
でもタイトルの謎が解けない。雪はいくつかでてきたものの、消しゴムを指すようなものは無いし、のはーの部分に至っては意味不明のまま。
それを見透かされたように、原稿用紙の裏に『Hint』とだけ書かれていた。肝心のヒントが無いという事は、この『Hint』がヒントでいいのだろうか。
「朋香、thatって10回言ってみてくれ」
唐突に津田の声が甦った。覚束ない声で、thatを10回発音する朋香。
「じゃあ、これはペンです。って言ってみてくれ」
「え? This is a pen.じゃないの?」
笑いをもらす津田の声。なんで笑うのと叫ぶように問い詰める朋香。
「これはペンですって言えば良かっただろ? 何も英語で言う必要性はどこにもないよな」
それを聞いて、不服そうにばかと呟く朋香。
英語だ。雪、消しゴムのはーを英語にしてみるとスノウ、イレイサーのはー。全然解決になっていない。と思ったところで、無意識に私はherを思い浮かべた。そうだ。一じゃなくこれははー、つまりher。とするならのはさしずめofかno。
「朋香、ラバー貸してくれないか?」
また津田の声。そんなに私に解いて欲しいのか。朋香は何も知らずにラバーとは何かと訪ねる。
「ああ、何だと思う?」
rubber? 普通に考えるならゴム。もしくは卓球のラケットに張り付けるアレ。でも朋香はどちらも持っていなくて、仕方なくはいと何かを津田に手渡したようだった。
「お、正解。イギリス英語じゃ、こいつの事をラバーって言うんだ」
「もう、普通にイレイサーでいいじゃない」
拗ねる朋香が、最大級のヒントになった。消しゴムはラバー。つまりrubber……同音異義語に、狙い澄ましたようにloverがあった。
これでスノウ、lover of/no her。noは除外しても良さそうだ。雪が彼女の恋人? そういう意味だったの? 私が原稿用紙の裏を覗くと、『Hint』という文字は消えていた。代わりに『No』と、今書いたように赤字で書かれていた。私は咄嗟に原稿用紙を投げ捨てて、部屋を出た。津田が、いる。それが無償に怖かった。幽霊だからとか、そういう理由ではないのかもしれない。朋香、朋香を連れていかれる。私の意識は自然にそう傾いた。
久々に、元旦は親と一緒に寝た。次の日、バラバラにしてしまった津田の原稿用紙をかき集めて、私はスノウに取りかかろうとした。snow。この解釈では昨日津田が伝えたように間違いなんだ。s/nowと切り込みを入れると、少ししっくり来た。でも足りない、そんな気もする。きっと津田に取りつかれた。私は、意志に反して勝手に動く手を見つめて、それが何を描きだすか見ていた。
S know
Sは知っている。彼女の恋人を?
もう裏を覗いても何も現れなかった。力が抜けてきて、代わりに涙が湧いてきた。
「わかるか……このバカ!」
Sは……きっと滴だ。滴は知っていたんだ。私が朋香を好きな事を。だから……だから自分がいなくなればいいと思って……。
私は部屋を飛び出した。津田の原稿をわし掴みにして、朋香にメールして家へと押し掛けた。私はまず、朋香に津田の原稿を読ませた。朋香は目にくまが出来ていて、声も枯れていて散々泣いたようだった。いつもする、シャンプーの匂いもしなくて朋香の憔悴具合が伺えた。
朋香が読み終えればいよいよ言わなきゃいけない。この物語の真実を、全てを。
「この小説……この好きな男性って……私の事?」
読み終わった朋香の言葉に、私は無言で頷いた。それ以上の事を言う勇気が出なかった。でもきっと朋香は気づいている。朋香は、何も言わずに私を見つめていた。虚ろな目で、魂をすいとるように。
怖い。私は、今にも朋香に拒絶されるんじゃないだろうか。口をきいてもらえなくなるかもしれない、見向きもしなくなってしまうかもしれない、私という存在を朋香が消してしまうかもしれない。
朋香は、私を胸元へと引き寄せた。柔らかくて、暖かい肌に包まれて、一瞬呼吸をするのを忘れていた。近寄ったからか、いつものシャンプーの匂いと、いつもは感じない朋香の香りがあった。
「ごめんね。私が……私が気づけなかったから、天ちゃんも辛かったよね」
枯れた涙は流れない。だけれど朋香は泣いていた。私は満足だった。それと同時にわけもわからなく泣きたくて、朋香の代わりに声をあげて泣いた。
「もう終わりにするんだ。苦しいのは、辛いのは嫌でしょ? 天ちゃんもすぐ楽になるよ」
胸が熱かった、溢れる液体が止まらない。私の胸に、銀光する刃物がつきたっていた。見上げると、朋香は笑っていなかった。私が、代わりにへにゃっと笑うと、朋香は私からそれを抜いて、自分の胸に突き刺した。私は目を閉じた。辛いのは、嫌だから。
**
「朋香、いい加減飽きないのか?」
「飽きないよ。しーくんも天ちゃんも一緒だもん」
嬉しい。幸せ。例え血まみれでも、私たちは津田の世界で、三人で、ずうっと、けだるい毎日を過ごすんだ。辛いのは嫌だから。
「あ、雪だ」
朋香は笑わない、代わりに私がめいいっぱい朋香に微笑んだ。
私の心は、満たされた。
雪が、赤を白くぬりつぶしてくれた。