夢のゆめ
「どうして……?」
パタッ、と、聞こえないくらいに小さな音がした。
それは冷ややかな温度を残して、静かに私の手の甲を滑り落ちてゆく。
どうやら、泣いているのは男らしかった。
他に誰もいない教室の中、私とその奇妙な男だけが対峙していた。
ここはどこだろう、と胸中でつぶやく。確かに見た目は私が今通っている高校のものだと分かるのだけれど、どうも様子がおかしい。
つと見やった窓の外、濃紺の空を、たくさんの流れ星が滑り落ちていった。
男はその細身の長躯を銀と紫の衣装に包み、顔には同じ色合いの仮面を付けていた。
それは――そう、まるで、滑稽なピエロのような。
彼の姿はどこか懐かしいような気がしたけれど、まさかそんなはずはないだろうと思う。
「君は、どうして忘れてしまったんだろうね?」
柔らかな低い声が、はっきりと私の耳に届いた。
私は教室の真ん中の席に腰掛け、彼は黒板の前に立っている。あんなにも離れた位置に立つ男が流した涙が、私の手の甲に落ちる。私自身は泣いていないとはっきりと分かるから、泣いたのは確かにあの男なのだ。
それは現実的に考えればどう言い訳してもあり得ないことで、だから私はこれは夢なのだと気づいた。
「忘れたって、何を?」
私は彼を見ずに言った。
男は滑るような歩みでこちらへ来ると、私をつめたい仮面で見下ろした。
「決まっているじゃないか」
彼は芝居がかった仕草で手を自らの腰の後ろに回し、一冊の小さな、けれど分厚いノートを魔法のように取り出して私に示した。
「きみがいつのまにか見捨ててしまった、彼らのことだよ」
そのノートの表紙のウサギに、見覚えがあった。
「それは……」
目を見開く私を余所に、彼はすっと表紙に指を走らせた。
途端、忙しない騒音が前方のテレビが響き始めた。
色とりどりの衣装に身を包んだ、まだ幼い少女たち。華やかで美しい魔法で悪者と闘っている。
悪者が息絶えた所で、ぱっと場面が変わった。
ライフルのような細身の銃を抱えた傷だらけの少年が、金色の髪をした美しい少女の手首を掴んで走っている。
黒幕らしき男がライフルで撃ち殺され、そして、また雰囲気ががらりと変わる。
そんな風にして、くるくるとテレビの中の主役たちは入れ替わっていった。
すべての登場人物に僅かに、けれど確かな既視感があった。
途中から私は気づいていた。
私は、彼らの――。
ガガッ、と、頭上のスピーカーからノイズが聞こえた。
「きみは、本当に忘れてしまったのかい?」
前方からみずみずしい声が聞こえた。男性のものであるのには変わりないが、先ほどよりも随分と若い。
見ると、男の体つきは幾分華奢になり、身長もわずかに縮んで見えた。
――若返っている……?
いぶかしみながら男を見つめたとき、スピーカーから幼い女の子の声が聞こえてはっとした。
「私のゆめは、お母さんのような作家さんになることです」
全身が強ばるのが分かる。
どうして……、と、唇から掠れた声がこぼれた。
それは、私の声だった。多少のあどけなさをはらんではいるけれど、確かに私の声だった。
同時に、わずかな埃がきらきらと舞う、独特の甘い香りがするあの空間が脳裏に浮かんだ。
まだ小学五年生だったあの時、私は――。
「もうすぐ、私の誕生日がやってきます。それは、私の弟が死んでしまった日でもあります。私が六歳のとき、弟は、お母さんのお腹から生まれてくる前に死んでしまいました」
『多岐さん、あなたが書いた作文、良かったらみんなの前で読んでくれないかしら。私、感動しちゃったわ』
小学校の時に一番好きだった女の先生の声を、はっきりと思い出せた。
「その日が近づくと、お母さんはとても悲しそうな顔をします。だから私は誕生日に、私からお母さんに一つのお話をプレゼントしようと思います」
――お母さんが、にっこりと笑えるようなすてきなお話を。
今この時の自分が目の前にいたとしたら、私は必死に訴えただろう。
だめだ、それだけはしてはいけない、と。
ガガッ、と、スピーカーからノイズが聞こえた。暫くの沈黙の後、再び少女の声が聞こえた。
「――私は、読んだ人が笑顔になれるようなお話を書ける人になりたい。私のお話で笑顔になる最初の人は、お母さんであって欲しいのです。それが、私のゆめ。これから色々と迷うこともあるかも知れないけれど、私はこのゆめを、」
忘れずに叶えたいと思うのです。
ブツッ、と、音声が途絶えた。
私の指先は震えていた。テレビに映っていた子供達や、少女の声がぐるぐると頭の中を回っていた。
覚えのあるキャラクター。何度も練り直したストーリー。幼い頃、私は暇さえあればずっと小説を書いていた。その中で生まれたのが、彼らだ。月並みな表現だけれど、私は、彼らの母だと言っても過言ではないのだった。
あの作文をみんなの前で読んだ、ほんの数日後のことを思い出す。
それは私が今まで半ば無理矢理に忘れようと目を背け続けた記憶で、いつの間にか本当に、それも「ゆめ」ごと忘れてしまっていたのだ。
あの日。私の誕生日。
母は父とともに私にプレゼントを渡しながら、にこにこと微笑んでくれた。おめでとうと言ってくれた。けれど、その瞳の奥、ふとした仕草の中に、胸がずっしりと重くなるような悲しみがちらついていた。
『お母さん、私からもプレゼントがあるんだよ』
そう言って差し出した手作りの一冊の本を、母は驚きながらも、最初笑顔で読んでくれていた。
しかし、それは徐々に歪み始める。一ページめくる毎に、彼女は悲しみの色を濃くしていった。
最後まで読み終えることなく、彼女はその場に崩れ落ちて、泣きながら怒鳴った。
『なんて子なの! どうして……っ、どうして、あの子が二度も死ななくちゃならないのよ!』
私は致命的なミスを犯していた。
弟に似せた少年は、ラストで少女と共に死んでしまったのだ。その、優しさと勇気あふれる行動の結果。
その時の私は命の終わりがもたらす感動というものに憧れていた。命を犠牲にすることは美徳だと思いこんでいた。ちょうど夢中になって読んでいた小説がそういうラストだったのだ。今になって思えば、とんでもなく浅慮な行為だった。
その時に浴びた罵詈雑言の中、たった一つの言葉が私にとっての致命傷となった。
『向いてないのよ。人が喜ぶような終わり方も知らないあなたが、作家になんてなれるはずがない』
向いてない。
自分が憧れていた作家でもあった彼女のこの言葉は、当時の私の心に消えない傷を残した。
翌日、彼女は自分の言ったことに青ざめて私に必死に謝ったが、私のゆめはもう死んでしまっていた。
――だって、仕方がないじゃないか。
私は、『向いてない』のだから。
「きみは、随分とたくさんのお話を書いたんだね」
はっとする。
幼い声が耳を打った。女の子のように澄んだきれいな声だけれど、男の子特有の硬質を帯びている。
ピエロの男は、随分と小さくなっていた。
――若返っている。
しかし、今はそんなことはもう気にならなかった。
目の前の机に、たくさんの小さなノートが積み上がっている。
中身を確認せずとも分かった。
私の、作品たち……。
ひとつひとつの話を、なぜだか今は詳細まで思い出すことが出来た。ここはちょっと面白いと思うところ、ここは、もっと丁寧にちゃんと書かなきゃいけなかったところ。思えばあの頃は、話を書くのが楽しくてたまらなかった。
もう一度。
もう一度書きたい、と強く、私の中の何かが叫んでいた。
読んだ人が心を震わせることの出来るような、その人の何かを変えることの出来るような。
今度こそ、諦めてはいけないのだ。忘れてはいけない。
そう強く心のなかで呟いたとき、私の何かが息を吹き返すのを感じた。
ぴしりと、ひび割れるような音がした。
私が座っていた椅子や、机、教室、世界そのものが、砂糖菓子のようにほろほろと崩れ始めた。
落ちてゆく。もうどうしようもないと思いながら、重力に引っ張られて、眩い光の中を落ちてゆく。
目の前に、ピエロの男が現れる。彼も私と同じ速度で落下しながら、仮面を外してにっこりと笑った。
彼はもうすでに、十歳くらいの少年の姿に変わっていた。
少年の正体が唐突に分かったような気がして、私は目を見開いた。
私は今年で十六になる。もしあの日彼が無事にこの世に生まれ落ちていて、健やかに育つことが出来ていたら――。
「あんた、もしかして……」
彼の顔立ちは、私、そして、母や父にそっくりだった。少し神経質そうな細い眉なんて、母とうり二つだ。
彼はゆっくりと一つ瞬くと、私の右腕を優しい力で掴んだ。
「母さんにさ、あなたが悪かったわけじゃないって、ちゃんと伝えておいてよ」
きゅうっと胸の奥が軋むのが分かる。鼻の奥がつんとした。
「僕はね、きみのお話がとても好きだよ。だって、なんだかすべてがすごく優しいもの」
ね、と彼が諭すように笑う。
腕に泣きそうなほどに暖かな温もりを感じる。
「僕の分まで、頑張ってゆめを叶えてくれなくちゃ。……ね、お姉ちゃん」
囁くような彼の言葉を最後に、私の意識は途絶えた。
アラームの音で目が覚めた。
耳元で、滑舌の良い女性が朗らかに談笑しているのが聞こえた。ウォークマンに繋いだイヤホンを付けっぱなしで眠ってしまったらしい。昨日の夜中に十年に一度といわれるほどの獅子座流星群が観測されたことが話題に上っていた。
携帯がちらちらと光っている。未読メール三件。友人からのものが二つと、勧誘のものが一つ。
その内二つには、同じ文章が並んでいた。
『誕生日おめでとう』
ああ、そうか、今日は彼の命日だったのかと胸のうちで呟く。
徐々にはっきりしてきた頭が、彼の奇妙な服装の正体を探り当てる。
薄暗い部屋の中、本棚に目が止まった。
『ゆめ喰いピエロ』
母は児童書を主に手がける作家だ。ゆめ喰いピエロは短編集の形態を取った一冊の本で、ゆめを食べる悪者のピエロがどの話にも出てくる。各話ごとの主人公たちが、自分の何らかの過ちが原因でゆめを食べられてしまうのだが、不思議と彼らはその過ちを乗り越え、新たなゆめを発見するのだ。
最後にピエロの過去が描かれていて、彼は昔自分が抱いていたのと同じゆめを持つ女の子のゆめを叶えて消えてしまう。
たくさんの人のゆめを喰ったピエロが、たった一人の女の子のゆめを叶えるために死んだ。
ゆめ喰いピエロは、母が私の六歳の誕生日――そう、私のゆめがもろくも崩れ去ったあの日だ――に私にプレゼントした本だった。
静かに本棚に歩み寄り、そっとゆめ喰いピエロの本を開く。
ちょうどラストのシーンだった。
消えていくピエロの姿を見て泣く少女に、ピエロは優しく語りかける。
『ぼくのぶんまで、ゆめをかなえてくれなくちゃ』
本の中の彼は、銀と紫の衣装に身を包んでいた。
私は思わず口元を覆って、その場に座り込んだ。
これは、私の都合のいい妄想なんだろうか。それとも、彼からのメッセージだったのだろうか。どうかそうであって欲しいと思う私は、愚かなんだろうか……。
あの時掴まれた感触が夢だとは思えなくて、右腕をさする。
この世に生まれ落ちることが出来なかった子供の温もりが、まだ残っているような気がした。
「どうして……?」
パタッ、と、聞こえないくらいに小さな音がした。
それはあたたかな温度を残して、静かに私の手の甲を滑り落ちてゆく。
ひくりと喉の奥が奇妙な音を立てて、頬が熱くなる。
どうやら、泣いているのは私らしかった。