第2話
エウゲンの父、アギアスはゆったりとした紺のマントを身に纏い、裕福で近隣から尊敬される商人にふさわしい重みのある足取りで市場での散歩を楽しんでいた。彼の場合、ただの息抜きではない。こうやって市場を自分の足で歩くことで店の中で閉じこもっていてはとても聞けない噂話や他国でのニュース等がいとも容易く手に入るのだ。後ろから小僧が一人、ぴたりと付き添っている。
「おお、これはリュッケルト様ではありませんか」
家畜市場の中、馬を取り扱っている店が多く集う場所で彼はよく知っている顔を見つけ、アギアスは声をかけた。声をかけた中背の男は愛おしそうに撫ぜていた栗毛の馬をから顔を上げ、アギアスの方を見る。黒髪に髭面の中年の男は、やや髪に白いものが混じり始めていたもののその姿にはこの前会ったときとほぼ変わりはなかった。彼、デメトリオス・リュッケルトは唇の端を曲げ、かろうじて笑みとわかる程度に微笑んだ。
「こんにちは、アギアス」
「馬をお求めに?」
「ああ」
それだけ言ってデメトリオスは店の主人を呼び、それまで彼が撫ぜていた栗毛の馬を購入したいが少々値が張ること、他の店も回って見ることを告げた。
________そら、始まった。
アギアスはその様子を見て腹の中で笑った。値段交渉は市場では当たり前のことで、言い値で買うのは馬鹿のやることだと昔から相場が決まっている。
「しかしですねえ旦那、この馬は良い馬ですよ。銀貨60枚出す価値は十分にありますって。他の店なんぞ回ってたら他のお客さんに持っていかれちまいますよ」
「いや、この馬に銀貨60枚はしょうしょう値が張り過ぎているな。銀貨30枚だったら考えよう」
「銀貨30枚だって旦那!?こんな立派な雌馬にですか!大変良い血統ですぜ、まだ若いし子どもだって期待できる。銀貨55枚でどうですか?」
「私とてそう金を持っているわけではないのだ馬喰殿。この馬は毛並みが悪いし足だってしっかりしていない様に見受けられるぞ。高く見積もっても銀貨40枚がいいとこだろう」
「騎士の旦那、俺たちは土地持ちのアンタと違ってこいつらを売ることで飯をくわにゃならねえんだ。足がしっかりしていない?よく見ろよ、いっけん細い様に見えてその実しっかりした大した足じゃねえか。顔つきだっていいべっぴんさんなんだ、こんなべっぴんさん逃したらアンタ損だよ。正義の女神の御前で誓っても良い・・・銀貨50枚でどうかね」
「ふん、こんな馬一頭に銀貨50枚とは大した商売だな。顔つきがいいだって?馬というよりは牛のようでは無いか。銀貨45枚、それ以上はびた一文出せんな」
「・・・よし、売った。毎度あり」
代金を払い終わり、栗毛の馬に付けられたロープを引いてデメトリオスが歩き出すと、アギアスも並んで歩き出した。家畜市場を抜けたところでデメトリオスが口を開く。
「アギアス殿、息子さんたちはお元気かな」
「ありがとうございます、二人とも元気にしておりまして・・・リュッケルト様の方は皆様お変わりなく?」
「うむ。といってもアレクサンドラがどうしておるのか知らんが、ローザから便りがないところを見るとまあなんとかやっておるのだろう」
デメトリオスの長女アレクサンドラは現在複数の筋からの推薦により、国王の娘であるエリザベート王女の家庭教師を努めていることはアギアスも耳にしていた。先祖返りで、しかも女でなければと周囲が惜しむほどの心根の良い娘だ、苦労をしていなければいいのだが。
「息子にエルネタリアへ行かせることを考えておりまして」
「どちらの息子だ」
アギアスは沈黙した。小僧が後ろについて来ていることを知っている上で言う内容ではなかったからである。リュッケルト家の家長は代々イレクスでは「沈黙を齎す男」として知られているが、本人達は別に至って寡黙というわけでもなく、水を向けられればまあそれなりに話しはする。しかし、そのあだ名が伊達ではないことを、アギアスは20年前の解放祭で起きた決闘騒ぎでよく知っていた。小僧に小遣いをやり、どこかで時間を潰す様に告げる。小僧が角を曲がって見えなくなるのを確認してからアギアスは口を開いた。
「悩んでおります。デニスかエウゲンか・・・最近どちらに後を継がせてよいものか迷っておりましてな。色々と試しておるのですが・・・その、エウゲンには勘づかれておる様なのです」
「心中お察しする。・・・私にはマティアスとユリウス、二人の息子がいる。あれでもし、アレクサンドラがアレクサンドロスだったらやはり悩んでいただろうと思う」
アギアスは驚いて彼の顔を見た。アギアスは彼の弟であるアルセニオスのこともよく知っていたからである。弟もやはり先祖返りだがこんな僻地の騎士階級に生まれた男としては勿体ないくらい出来た男だった。なんせ、当時のイレクス侯子エドワールからの支援があったとは言え、イレクスの男子では初めてルキフェニアに留学したほどだ。もしあれが先祖返りでなければリュッケルト家の家督を継いでいたのはデメトリオスではなくアルセニオスだっただろうよ、という陰口はアギアスも散々聞いていた。あの解放祭でそのような悪口がやっと聞かれなくなったと思ったら生まれて来た長子は弟と同じ先祖返りだった。
「そのような顔をするな。アレクサンドラは先祖返りであろうが娘で、しかも初子だ。可愛いものは可愛い。正義の女神が私にあの子を授けなさったのは、私ならば例え先祖返りでも立派に育てられると期待なさってのことであろう。あの子が先祖返りとして生まれて来た理由もまた然り」
「てっきり疎んじておられるかと」
「アルセニオスのことを思い出して、か?皆、私は出来の良い弟を妬んでいたのだと言うがそれは間違いだ。年が離れていて、しかも父親を早くに亡くしていたから私はあれを息子の様に思っていた。そして傲慢だがこうも思っていた。あれには当主として必要な器が無い、とな」
むしろ先祖返りであった方がアルセニオスのためにも良かったのであろうよとデメトリオスは言った。しかし、アレクサンドラとアルセニオスとでは話は別だ。
「先祖返りに後を継がす等異例のことだ、女でよかったと当時は散々言われた。・・・愚かな連中だ」
「と、申しますと?」
「当主としての器が備わっておれば先祖返りであれども立派な当主になれよう。優れた人物に後を継がせるのは当然のことよ、アギアス殿が悩んでおるのもよくわかる。ましてや、商人となればなおさらだ。アギアス殿の様な大きな店では抱える使用人も多かろう。彼らの安泰のためにも優秀な人物が店を継がねばならぬな」
「息子が商売を失敗するとお客様にも迷惑がかかりますし」
「そうだな。私もアギアス殿の店が無くなってしまうと困る。良い塩や香辛料をどうやって手に入れたら良いのかわからぬ」
にこりともせずにそう言ってデメトリオスは口を閉じた。彼がまた口を開いたのは、市場の出入り口まで来たところでだった。
「アギアス殿」
「はい、何で御座いましょう」
「とりあえずエウゲン殿をエルネタリアに向かわせては如何かな。跡継ぎを決めるのはその後でもよろしかろう」
そうですね、とアギアスは返事をした。店に戻ったらとっくりとそのことについて考えてみるとしよう。アギアスは、ゆっくりとした足取りで自分の館がある方向へ歩いていくデメトリオスの背中にお辞儀をした。