第1話
この話は外伝です。アレクやベルトハウトたちは出てきません。一商人から見たアーストライアとエルネタリアについて書きたいと思って書き始めました。
隣国エルネタリアとの国境を隔てている青霜山脈の麓。小さいながらも賑わいをみせている町の中にある、シュヴァイスラント商人御用達の宿屋の入り口で、天を突く様な大男が一人、むっつりとした顔で座り込んでいた。薮のように生い茂った赤茶色の髪を、青い紐でなんとかまとめている。ぐっと太い眉毛と厳つい顔立ちも合わさって、その大男は何となく近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。空は先ほどからどんよりと曇っている。
「帰るぞ、デューマ」
その言葉とともに宿の入り口に姿を現した青年を見て、大男はゆっくりと立ち上がった。青年は鳶色の髪にダークブラウンの瞳、顔立ちこそ整っているが雑踏の中にいれば一瞬でまぎれてしまうだろう。身につけている服も金持ちの商人の息子なら誰だって一着は持っている様な紺のダブレットにズボンだった。同じく黒色だが光沢の違う糸で縫い取られた刺繍がダブレットに金がかかっていることを匂わせる。背中を覆うマントは刺繍こそ無いものの、柔らかそうな白い毛皮の縁取りによって飾られていた。
「まったく、シュヴァイスラントの商人と来たら頑固で困る。それにしてもあの連中、塩の結晶の塊なんて何に使うんだろうな?」
青年の言葉に返事は返って来なかったし、青年も最初から返事が返ってくることを期待していない。彼が好んで連れ歩くこの大男、デューマは寡黙な質だった。青年の名はエウゲン。イレクス候領の中でも指折りの金持ちである商人一家の次男坊である。エウゲンはついさっき、父親に言われてシュヴァイスラントからやってきた商人との商談を済ませて来たばかりだ。
「エウゲン」
「何だ」
「雨だ」
デューマに言われて顔を上げたエウゲンの頬に、冷たい雫がひとつ、ぽつりとおちてきた。それが引き金となって空から細かい雨の粒がいっせいに降り注いで来た。アーストライアは春から秋にかけて気候が温厚なことで知られているが、その代わり冬に雨が多いことはあまり知られていない。エウゲンはひとつ舌打ちすると慌てて近くにあった食堂の軒下に駆け込んだ。その後をデューマがのっそりと追いかける。
「参ったな!この後も用事があるのに・・・仕方が無いな、一杯やるか?デューマ」
デューマは返事の代わりに、身体をまるで犬の様に振って雫を辺りにまき散らした。そして、くしゃみをひとつする。その様子にエウゲンは笑い、ドアを押し開けて食堂の中に入った。デューマも一緒に食堂の中へ入る。室内では暖炉に火が景気よく燃えていて熱いくらいだった。暇そうにしていたウェイトレスが一人、さっと笑顔を浮かべて駆けよって来る。
「すまんがワインを一杯くれ、そこのでかいのにはジョッキでやってくれ」
「あら、大きなお方!何かおつまみでもいかがですか?」
「じゃあ、ハーブチーズとパンを持って来てくれ」
エウゲンが注文を済ませている間、デューマは暖炉に程よく近いテーブルを見つけて椅子の上にどさっとこしかけた。椅子の足がみしみしと音をたてる。やがてウェイトレスがジョッキとコップ、皿に盛ったカリカリのパンと柔らかなハーブチーズを持って来ると、エウゲンは「父さんには内緒だぞ」と笑ってジョッキをデューマに押しやった。窓の外では雨足がますます強くなり、粗末なガラス窓に水滴がいくつも着いては流れていった。
「さっきの商人、僕のこと絶対、山脈越えをしたことも無い若造だっていって笑ってたんだ・・・まあ思い知らせてやったけど」
先ほどの商談はなんとか成功を収めたが、それでもエウゲンの心には苦いものが残る。将来は自分の店を持つのがエウゲンの夢で、そのためにもはやく商売について必要なことは覚えたい。だが、最近父の様子がどうもおかしい。エウゲンには兄が一人いてその兄が将来父の後を継ぐことになっていたが、まるで最近、エウゲンと兄を試すかの様な言動を繰り返しているのだ。例えば先ほどの商談だって、本来ならば兄のデニスがいくべき商談だった。
「・・・人の心が読めたらなあ」
「それは無理だ」
「そうだよなあ」
デューマがジョッキの中のワインを飲み干し、エウゲンのほとんど手を付けていないコップを物欲しそうに見ているのに気づいて、彼はコップをデューマの方に押しやった。そして、ハーブチーズとパンの載っていた皿がほとんど空になっているのにも気づいた。
「デューマ、そんなにたくさん食べたら夕飯が入らなくなるぞ」
「入る」
ホントに入ってしまうのだから恐ろしい。デューマは小さい頃、山の中をほとんど何も着ておらず、裸足でうろついていたところを旅の最中にエウゲンの父親に拾われたのだが、その時飢え死にしかけたことが忘れられないらしく、目の前に食べ物が出されれば自分に供された分は全て食べてしまうことにしている様だった。その代わり力が強く、身体も大きいため力仕事にはうってつけの存在である。今日もデューマがエウゲンのおともをしているのは、帰りに酒屋へ行って注文しておいたワインを一樽持って帰ってくることになっているからだった。
「お、雨が小振りになって来たぞ。そろそろ行こうか」
その言葉にデューマは慌てて残っていたハーブチーズとパンを口の中に突っ込んで、咽せた。